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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

4.弱い心

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 全体会議も問題なく終わり、融資先の人間が来る予定の時間までしばしの休憩が入った。一番下っ端である新見は、手伝いに借り出された女性社員と共に、テーブルにあったコーヒーカップを回収した。
「会議どうでした?」と、全く初めて顔を見る女性に声を掛けられる。
「いやはや、参りました」
「そうですよね、あの中では新見さんが一番若いし、大変ですよね」
と、女性社員は続けたが、新見にとって大変だったのはそのことではない。彼が参ったのは、上層部の視線だった。意見に耳を傾けるのではなく、明らかにあれは値踏みされている視線だった。接待に本当に使える人間か否か。秘密を守れる男か否か。会議後呼び出されていないことから、おそらく合格したのだろうと思われた。
次の新見の役目は営業としてではなく、ただの雑用係だった。女性社員が手伝えない分、彼が動くことになる。会議には実質参加しない。
「もし、急遽飲み物を変えることになったら」
と女性社員は給湯室で新見と最終打ち合わせに入った。
「急に変わることなんてあるんですか」
「ありますよ。例えばコーヒーが飲めない方だったり、お茶を好む方だったりしたら素早く入れなおします」
「大変なんですね」と新見は思わず言った。
「やだ、新見さんの方がよっぽど大変ですよ」
 女子社員が顔を少し赤らめてそう言ったのを聞いて、新見は胸騒ぎを覚える。
 まさか今回の接待についていくことがばれているのだろうか。
 確認したい衝動に駆られたがやめておいた方が無難であろう。真実を聞いたところで自分が傷つくだけである。しかし。
「総務の方ってスケジュールは全て把握してらっしゃるんですか?例えば・・・」
「ああ、今回『松野屋』に予約したのは私なんですよ。・・・大丈夫です、私口が堅いですから」
 新見は眩暈がした。
 松野屋といえば高級老舗料亭である。園田との食事会でも敷居が高くて入ったことがない。利用者といえば政治家や社長レベルで、ご多分に漏れず、夜の接待にも対応した至れり尽くせりの料亭兼宿として有名であった。
 食事会だけなら喜んで行く場所だというのに。
 新見は顔を曇らせた。上條が言うとおり、何とか宿泊せずに済む方法を考え出さねばならなかった。相手を怒らせず、なおかつ身体に触らせない方法などあるだろうか。相手はその気満々であろうに。
「無理かも」とそっと一人呟いて、新見は重々しい身体を引きずり給湯室を後にしたのだった。
 会議室に戻って改めてテーブルを拭いているときに、接待で自分のお守りをする役目であろう上條が戻ってきた。会議開始十五分前。彼はこういう場でも一番に現場にくる男だった。
「どうだ、調子は?」
「調子・・・と申しますと?」
 新見が嫌な予感がして聞き返すと、彼は自分の定位置に腰掛けてにやりと笑った。
「もちろん頭のだ。いや、身体の、といった方がいいかな」
「仰る意味が分かりません」
「貞操を守る算段でも思いついたか、それとも諦める覚悟ができたのかと聞いている」
 この男は、と新見はそっと眉を寄せた。一体自分を怒らせたいのか慰めたいのか判断しかねた。
「課長はどちらをご希望ですか?」
「私の意見は関係ないだろう」
「私は課長のご意見に従いますよ。私は素直に突っ込まれた方が宜しいとお考えですか?」
 新見は笑顔を相手に向けた。その凄みに上條は嫌な顔をした。
「君、その顔はやめたまえ」
「また叩きますか?」
 もう赤みが消えた頬を上條の方に向けると、彼はむっとしたようだった。そして顔を背けると、視線を下げて言う。
「私の意見は言ってある。避けれるものなら避けたまえ。ただし、相手を怒らせずにだ。私は君ならできると思っている」
 新見は複雑だった。午前中も彼はそう言っていた。彼もこのような会議に出席するのは初めてで、相手の顔すら分からないのだからアドバイスなど期待するほうが無理なのかもしれない。しかし、だったらなおさら自分など利用しないで欲しかった。他にも方法があったであろう、例えばそれ系の人間を呼ぶとか。
 ふと伊勢崎を思い出した。
 彼なら異性相手とはいえ、そういうことに慣れているだろうか。どうしたらいいかヒントをくれるだろうか。
 ・・・聞いてみようか。
 新見は布巾を仕舞うと、不審そうな顔をした上條を尻目に黙って会議室を出た。
融資先の人間は今頃社長と面談中のはずで、まだこの会場に下りるには時間がある。そう思った彼は、徐に携帯電話を取り出すと、こっそり資材室に身体を滑り込ませた。
 着信履歴からコールする。
 さすがにホテルは出てるだろう。ネクタイがないことに気づいて彼はどうしただろうか。代わりに自分のネクタイを締めただろうか?
 色々な想像をしながら相手が出るのを待ったが、段々と空しくなってきた。
 電話を切る。
 肝心な時に繋がらないとは。そう新見は思ったが、その勝手な意見に自嘲する。
らしくないのは自分の方だ。仕事のことで誰かの救いを求めたことなど一度もなかったのに、何を弱気になっている。
 ぱんと自分の頬を叩くと、少しはすっきりした気分になった。
 薄暗く埃っぽい資材室で、棚に置かれた乱雑な文具類を見やる。万年締められたブラインドからは、細く太陽の光が漏れていた。ドア一つしか隔てた場所ではないのに、まるで異世界のようだ。
 さあ、腹を括るか。
 一つ深呼吸して、新見が資材室から出ようとした時、電話が鳴った。
 伊勢崎がようやく掛けてきたらしい。そう思って出た瞬間、自分の判断が間違っていたことに気づいた。
「やあ」と軽快だが湿ったような声が耳を突いた。初めての声だった。
「・・・失礼ですが」
 新見は相手が誰だか何となく分かっていた。理由はない。脇と手のひらから勝手に出てくる汗で判断した。
「おっと、これは失礼。先ほどレストランでお世話になったものだ。名刺を渡すように深町に言ってあったんだが」
「・・・はい、頂戴しました」
 やはりあの安藤という男だ。アカシヤで自分に注がれ続けた視線を思い出した。あの威圧感のある視線を。
「それはよかった。じゃあ話は早い。少し気になったことがあったので電話したんだが、今時間大丈夫か?」
 ノーと言って聞くような人間だろうか、と疑問に思って沈黙していると、安藤は察したらしい。
「すまないね、忙しいところ。手短に話すが、君は深町と以前からの知り合いなのか?」
 意外な質問だったので、新見は一瞬絶句した。「なぜそう思われました?」
「質問の答えを質問で返すな。君は時間がないんだろう?」
 急にトーンが低くなって新見はぞっとした。
「いえ、初めてお逢いしたんですが」
「そうか」と安藤の返事は素っ気無い。「じゃあもう一つ。深町から電話があったか?」
 これも新見の予想外の質問だった。今度は素直に答える。
「いえ」
「それはよかった」
 何がよいのか、と新見は眉を潜める。
「俺の方が先手を取ったわけだな。それとも」
「それとも?」思わず聞く。
「あいつが君に興味がないか」
 電話の向こうで低い笑いが聞こえた。色のついた話のようだったが、新見はそんな感じは受けなかった。彼の声は事務的でひどく乾いていた。
新見は腕時計に目を走らせて、時間を確認した。もう予定時間が迫っていた。上條が自分を探している姿が目に見える。できることならさっさとこの電話を切り上げたかった。ところが、そんな行動を見ていたかのように電話の向こうの声が告げた。
「大丈夫。会議はまだ始まらないよ」
 新見は思わず辺りを見回したが、外部の人間などいるわけがない。窓もブライドが閉まっているし、ただの偶然に決まっている。そう思いたかった。
「お、動揺したかね?意外と小心だな。深町に話しかけるとはいい度胸だと思ったのに」
 一体何が起こっているのだ。と新見は恐怖に怯えた。こんな感情にかつてなったことはなかった。相手が誰であろうと、頭の芯では余裕があった。ところが今は微塵もない。脳が締め付けられている錯覚に陥る。
「あなた、一体何なんです?」
 ようやく出たのはその一言だった。
「俺か?俺はただのサラリーマンさ。名刺にも載っていただろう?〈ヒューマンスフィア〉という、深町が社長をやっている会社の一社員に過ぎないさ」
 相手は飄々とそう言った。
「ではその会社が、普通ではないという証拠ですね。あなたみたいな人がゴロゴロいるのでしたら」
「へえ」と相手は感嘆。「大層な口をきいたじゃないか」
「ただの強がりです。深町さんはあなたが私のことを攻撃しないと仰っていましたので」
 そう、新見は思い出したのだ。安藤のことを怖いと言った時、攻撃するような男ではないと。信じられないが、信じたい。
「深町が?」
「はい。躾はされているとも」
「まあ二十年以上一般会社にいたから叩かれてはいるさ。人並みにはな。他には何て言っていた?」
 随分と楽しそうだった。新見は穏やかになった声に乗じて電話を切り上げる作戦に出た。
「続きは飲みにいった時にしませんか。私はこの後会議があるものですから」
 ようやく自分のペースに戻ってきた。いつの間にか手のひらの汗も引いている。
 相手は少しの沈黙の後、笑った。
「これは迂闊だった。完全に逆転だな。やっぱり君は面白いよ。できることなら口先だけじゃなく、本当に今度飲みに行きたいものだな。約束してくれたら切るよ」
 残念ながら二度と彼に会うのはごめんだった。深町が同席、または彼のみなら行く気にもなったが、安藤と二人だったらこちらの神経がもたない。
「あなたと二人だとストレスで潰瘍ができそうです。遠慮しておきます」
「随分正直に言ったものだ」
「嘘を言ったら事態が悪化しそうです」
「本音を言っても悪化するかもしれんぞ?」
 そうかもしれない。しかし、今は電話だ。少なくともすぐにはどうにかされる心配はないだろう。二人で会うことになったら、今どころのストレスでは済まない。それこそ癌でもできそうである。
 そのことをやんわりと告げると、安藤は軽快に笑った。
「面白いことをいう。段々深町にやるのがもったいなくなってきたな。まあ、いい。あいつには君ぐらいの度胸の奴じゃないと勤まらんだろうし」
「今なんて仰いました?」
「聞き流せよ。そろそろ切ろう。会議があるんだろう?」
「会議なんかどうでもいいです。それより今なんて仰いました?深町にやるってどういう意味です?」
「形勢逆転」と、電話先の冷静な声。
「は?」
「主導権がこっちに戻ってきた。簡単に掬えるなあ君の足元は。もっと冷静になったらどうだ。会社同様、少し突付けば揺らぐ男なのか」
 会社同様、ということは、安藤はこの会社のことを知っているのだ。それも詳しいところまで。
「まさか今来る会社の人間って」
 少し喉が詰まった。いや、呼吸が詰まった。
「おや、ようやく気づいたか。会社はヒューマンスフィア、深町が今君の会社にお邪魔しているんだよ。今、君がどこにいるかは知らんが、下を覗く事ができるなら見えるはずさ。俺が乗っているリンカーンがね。手でも振ろうか?」
 そうか。だから分かったのだ。会議はまだ始まらないことを。おそらく電話を掛けてきた直前に深町は車を降りたのだ。出入り口で出迎え、エレベーターで移動。社長との会談があるだろうから、まだ時間はあるだろうと予見していたのだ。
「それはそうと、今回の会議の後、当然、接待を組んでるだろう?」
「どうしてそう思われます?」
 思わず聞いたその言葉に安藤は苦笑したらしい。「君はことごとく質問を返すのが好きらしいな。気が短い人間には嫌われる癖だ。やめたほうがいい」
「失礼を承知で質問してます。あなたは何を知りたいんですか?そもそも電話をしていた要件はそれなんじゃないですか?私から知りたい情報を得ていないから、あなたは電話をお切りにならない。会議があると知っていて、わざわざ電話を掛けてきたということは、この会議に関することだ。違いますか?明日では間に合わないことを私に聞こうとしている」
「君は探偵になれるよ、見事なもんだ」
「こんなに頭の回転の悪い探偵なんて聞いたこともないですよ。単刀直入にどうぞ。私も単刀直入にお答えします。それで終わりにしましょう。私もそろそろ限界です」
「胃かね?」
「細胞全部です。今日の最後に病院に行ったらきっと入院でしょう。ここ数日色々なことがありすぎて、心身ともにボロボロですよ」
 新見は愚痴を言った。連日の会議資料製作から始まって、伊勢崎、園田、上條、深町、安藤・・・なんて忙しいのか。二日でこんなに個人的に付き合ったことなどない。しかも皆アクが強い相手ばかり。
「そいつはご愁傷様。ではさっさと答えたまえ。接待があるだろう?」
「はい。用意されてますよ。松野屋です」
 新見は答える。頬を汗が伝った。クーラーがなくて暑いが、そのせいではないだろう。
「いいところを用意したな。それなら奴も動くかもしれない。その後は?」
「後?」
「とぼけるな。松野屋には宿泊用の部屋もある。その食事後の接待の相手・・・俺は君じゃないかと思っている」
「な」と新見は絶句した。
「どうして私です?普通そういう接待といえば女性でしょう。私はこんなナリですが立派な男です」
 新見はそれとなく正論を言った。どこまでこのことに安藤が絡んでいるか探る為だ。ところがこの男の根は想像より深いらしい。
「そんなはずがないんだよ。男を用意するようにそれとなく情報を流しているんだから」
「どういうことです」
「融資先相手なら接待を用意するというのは常識。そして融資を増やしてもらう為に企業はご機嫌をとりたがる。必然的に情報収集に当たるわけだ、もちろん表向きはこっそりとだがね。そこで俺は先手を打って、あいつが男と寝るのが好きらしいと言う情報を流した」
新見は呻いた。呻くしかない。
「先ほどレストランで会った時、君が隣のビルから出てくるのを見ていた。もし今回の会社の人間なら、君のような綺麗な男を放って置くわけがない。そして名刺を見ればビンゴ。君しかないと思った。どうだね?正直に言いたまえ。男と仕事で寝ることになっているから君はストレスがたまっているんだろう?そうでなければ、君は元来プレッシャーに強いタイプだ。じゃなければ、深町に声など掛けないさ。あいつは俺より凶暴だからな」
 これは観念するしかない。うわべだけで取り繕った所で、安藤が関わっている規模が深く広すぎる。
「参りましたね」
「なら、認めるんだな」
「ええ。確かに今回の接待で私はその後を引き継ぐよう言われています。ただ、上司の話では機嫌を損ねない程度にと言われているだけですから、実際には寝る気はありません。相手が深町さんなら分かってくださると思いますが」
 そうである。相手は深町だ。先ほどの対応からいって懐は相当広いと思われた。他の人間より勝算はある。
「そこだよ。ここからが本題だ」
 安藤は乾いた声で言った。「君、椿を見たことがあるか?」
 急に話題が変わって新見は戸惑った。聞き返したい衝動に駆られたが、辛うじて抑える。「ありますが」
 雪の上に落ちた赤い花を思い出す。遠くから見ればコントラストが見事で。
「そりゃあいい。よく聞け。深町は、首切り椿と呼ばれている」
 雪に散る血にも見えるのだ。椿は。
「噂は色々だ。仕事のできない人間を簡単に切るからだとか、実際に殺しをしたことがあるだとか、な」
「物騒な冗談はやめてください」
 あのレストランで一瞬垣間見た表情を思い出した。今まで会った事のない人種であろう感触。
「冗談かどうかは分からんよ。あいつは俺と違って躾られた場所が違うからな。俺はあいつの横か前にしか立つことを許されていない。あいつは俺に背中を向けない」
「そんなの友人じゃないでしょう」
「友人じゃないさ。我々は」
 安藤は嘲笑する。「そんな生易しい関係じゃない」
 レストランでの事務的な態度を思い出す。そうか、なぜ奇妙に見えたのか。
彼らは一度も笑っていなかったのだ。
「そこで君に頼みたい。なぜ首切り椿と呼ばれているのか、あいつの背中には何があるのか見てきて欲しい」
「教えてくれるとは思えません」新見は腰が引けた。「第一、あの人が私と寝るとは思えません。そんな話を聞いた後なら、なおさらです。あなたに出来ないことをどうして私に出来ます?今日初めて会ったばかりなのに」
「だから君の容姿に賭けてる。初めて会った時に、あいつは明らかに君に興味を持っていたよ。俺以上にだ。駄目なら駄目でいいが、ここであいつの何かを抑えておきたいんだ」
「何かって何です」
「何か、だ。これ以上詮索はするな。君のことをどうにかしたくないんでね」
 安藤の声は益々低くなる。本人は気づいているのだろうか。段々低く強い語気になっている。まるで襲い掛かる前段階のように。
「まるで脅迫されている気分です」
 強がりついでの軽口だったが、永遠に感じる一瞬の沈黙。
「そう思ってもらって結構だ」
 電話が切れた。

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