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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

5.なけなしの勇気

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 新見はしばらく呆然と突っ立っていた。
 埃っぽい資材室で今起こった出来事を反芻しようと思ったが難しそうだった。分かっていることは、安藤という男は深町の噂の真相を知りたがっているということだ。そして友人ではなく、別なつながりが存在していることも。あの言い方では弱みを握っておきたいようなニュアンスであり、友人関係とは程遠いように思われた。
 電話が再び鳴った。
 どうも連日電話が碌な事態を引き起こさない。しかも全部伊勢崎が少し絡んでいる。
 新見は番号を確認して電話をとった。
「疫病神」
 伊勢崎に向かって新見は第一声そう言った。自分が悪いのは百も承知である。この男の番号を登録しないのが悪いのだ。だから取り間違う。
「おいおいご挨拶だなあ。そっちから電話してきたくせに。・・・ネクタイ泥棒め」
 相手の軽口にほっとする。伊勢崎は相変わらずな口調だった。
「あなたが一回で電話を取ってくれればよかったんですよ」
 そうすれば、あの安藤とのやり取りをしなくても済んだかもしれない、などと思っても仕方がない愚痴を新見は吐くと、伊勢崎は口調を変えた。
「どうした?何かあったのか?会議なんだろう。昨日言っていたじゃないか」
 真剣に心配そうにしている伊勢崎の声を聞いて、新見は自己嫌悪に陥った。この男はいざというときに本当に自分を甘やかしてくれる。実にいいタイミングで。
「すみませんね」
「なんで謝る」
「どうもあなたには甘えてしまうみたいです。くだらない用事だったんですよ」
 自分でも情けない声を出したと、新見はすぐに後悔したが、反対に伊勢崎は元気になったようだった。
「お、いいぞ、いいぞ。甘えろよ。そして俺に惚れてくれればもっといい」
「調子がよろしいようで」新見は苦笑した。
「まあな。それが俺だよ。で?」
「で、とは」
「何の用事だった?」
 新見は少し逡巡したが、己で答えが出るわけでもなく。
「少し尋ねたいことがありまして」
「うん?」
「実は今日接待がありまして、相手が男なんです」
「へー。接待とは憂鬱だな。気を使うだろう、お前さんは若いんだし」
 どうも分かっていないようだ。それはそうか、と新見は思う。彼とてゲイというわけではないし、接待だからって朝まで付き合うとは思ってもみないのだろう。
「実は、その・・・接待は布団の中でするんですが」
「布団の中ねえ」と伊勢崎はぼんやり反芻したが、急に目が覚めたように声を上げた。
「ってことは、おい!」
 ようやく事態を飲み込めたらしい。彼の慌てた顔が簡単に想像できた。
「まあそういうことなんです。で、ご商売されていらっしゃる方にアドバイスを頂きたいと思いまして」
 新見は自分の言葉が随分皮肉まじりになったことに内心苦笑した。こんな言い方をするつもりはなかったのだが、つい。
「おい、本当にそういう接待なのか?まさか冗談じゃないだろうな」
「冗談ならもっとマシなことを言いますし、時間も選びますよ。こっそり抜け出して相談なんかするものですか」
 新見は時計を見た。安藤が言った事が本当なら、深町が会議に降りてくるのはもう少し後だろう。しかしながら問題は上條だった。彼には事情を何も言っていないから、行方不明の部下を探して右往左往しているのは間違いなさそうだった。早く戻った方がいいに越したことはない。
 伊勢崎は低く唸った後、ぼやくように言う。
「アドバイスってことは、もう覚悟は決めている訳か?俺が嫉妬するとは思わないのか」
「思いませんね」新見は鼻で笑った。
「そこまで私を想ってくださるんでしたら、身体のご商売はやめているはずですし、彼女に振られたから慰めろなどとはおっしゃらないでしょう。よくも悪くもあなたはいい加減な男です」
「おい、二回しか会ってない相手にそんな言い方はないだろう」
「私なりの愛情ですよ」
 新見は笑いながら言う。安藤のことがあるにしても、肌を合わせるつもりは毛頭なかったが、伊勢崎には黙っていた。どちらに転んだとしても彼には関係ないことである。
「お前さんの考えは分かったよ。確かに前回のことは言われても仕方がないからな。しかし、アドバイスと言ってもね。これといってなあ」
 伊勢崎のそんな煮え切らない口調に、新見は業を煮やした。
「頼りにならないですね」
 ぴしゃりと言ったその言葉で、伊勢崎は黙り込み、急に「うん、分かった」と言った。
何か思いついたのか、と思っていると、彼はこう言った。
「俺とやっていると思えばいいんだ」
「・・・は?」
 新見は我が耳を疑った。なんと言ったのだ。この男は。
「俺に抱かれていると思えよ。そしたら、俺も嫉妬しないし、お前さんも感じるだろう?我ながら名案だ。どうだ?」
 どこまでスカタンなのか、この男。新見は呆れた。
「確かに迷案のようです」
 そう言って、直ちに電話を切った。まさに時間の無駄だった。伊勢崎に相談しようとした自分の愚かさに腹が立った。
 上條が資材室のドアを開けたのは、丁度その時だった。まさか新見がいるとは思ってなかったのか一瞬驚いたようだったが、彼の行動は素早かった。
「社長がこちらに向かっていると総務から連絡があった。さっさと来い!」
 なぜここにいたのかなどという理由など聞かずに、上條は眉を吊り上げたまま新見の手を取って引っ張った。新見は彼に手を握られながら、妙な居心地の悪さを感じていた。ふざけて先ほどは握っていたが、握られる方は妙に照れるものなのだな、などとぼんやり思った。上條の手は大きく筋張っていて、そして少し冷たかった。
資材室を出ると、丁度奥の廊下を社長たちが曲がったところだった。ぎりぎり間にあったようである。
 新見の目は、一人の男にピントが合った。深町だ。
遠くから見てもすぐに分かった。頭一つ、周りの重役たちより背が高いのもそうだが、ぴんと伸びた背中や歩き方が美しかった。
「あれ?あれは・・・」
 上條も気づいたようだった。廊下の端に並んで立った時、彼の肘が新見のわき腹を突付く。
「君、知っていたのかね?」
 上條は難しそうな顔で尋ねてきたが、新見が言うのは、お決まりの台詞だった。
「まさか」
 新見自身、あの時の段階では知らなかったのは事実だ。ところが、安藤の電話から知っていた彼の顔には笑みが自然と浮かんでいた。そんな顔を横目で見て、上條は憎憎しげに舌打ちする。
 社長たちが通り過ぎる時、目礼後の新見の視線と深町のそれが絡まった。深町はうっすらと笑みを浮かべただけで、無言のまま会議室へと入っていった。
 会議は静かなものだった。
 新見はコーヒーを重役たちに配り、壁側に置かれた椅子に腰掛けて動向を見守った。
 社長と深町との会話が妙だと気づいたのは、開始から5分とたたぬ時だった。明らかに融資先相手の会話ではなかった。報告がより踏み込んだものであり、外向けの内容ではない。
 とんだ茶番だ。
 新見は先ほどの重役会議での視線の意味を知った。彼らが自分を値踏みするような目をしていたのは、このことを外部に漏らさない人間かを探っていたのだろう。この会社は名ばかり独立しているが、深町の手中にある企業だということだ。
 安藤といい、深町といい、どこまで根が深いのか。それとも己が浅はかなのか。
 新見は自嘲した。
 会議というより報告会のそれは、つつがなく進む。新見はこれまでのこととこれからのことを忘れるくらい関心を持ってその内容に耳を傾けていた。それだけ深町の考えと会社の方針を具体的な形で表現されるそれは興味深かった。会議が終わる頃には、この会社の一員であることに、いや、深町の下で働いていることに誇りすら感じていたのだった。

「松野屋を用意してありますので」
と意味深に専務が深町に告げたのは、会議から雑談へと変貌し、彼が「そろそろ」と腰を上げた時だった。
 新見は邪魔にならないようにコーヒーカップを下げていたところであり、その台詞に硬直した。いよいよ来たか、とごくりと唾液を飲んだ。
 ところが深町の言葉が続かなかった。どうしたのか、と新見がそっと彼を伺うと、彼は難しい顔をしたまま小首を傾げていた。
「松野屋とは何ですか?」
 その口調は、自分の系列にそんな店はあっただろうか、というような顔だった。
「この後のお食事ですよ。いい料理を出す店でしてね」
 社長が安藤に言われたであろう台詞を意味深に深町に告げると、彼は明らかに不快な表情をたたえた。そして出た台詞は、その経費の所在だった。当然といえば当然の話である。身内の接待など聞いたことがない。
「しかしですね」
 社長と常務はこの展開を予想していなかったらしい。安藤がここまで手を回していなかったのか、それともこの揉め事すら予定通りなのか、おそらく後者だと想像できてしまうことが、新見にとって憂鬱である。
「しかしも何も、過去に私や私の代理が来た時にこういう接待紛いのことを受けた覚えはありません。どうして今回に限ってそういうお話になるのでしょうか?」
 深町の言葉は丁寧であったが、辛辣だった。彼の言葉は尤もで、社長を初め、常務も上條も口を閉じて眉をへの字に曲げていた。新見は裏の事情を知っているものだから、面白がって彼らの様子を伺っていた。ところが無表情を装っているつもりでも、妙な表情を浮かべてしまったらしい。ふと深町と目が合い、彼は表情を変えた。
「まさか」
 おそらく正解を導き出したであろう独り言を深町は呟き、「失礼」と回りに断った後に会議室の隅で携帯を取り出した。
 新見はコーヒーカップを片付け終えて、その食器類を給湯室へ下げようとした。
安藤にとって、深町にバレることは計算外のはずだった。仕組んだことに彼が感づけば、新見に依頼した内容も必然的に想像されやすくなる。
これはいい具合に話が進みそうだ、と新見はほくそ笑んだ。巧くいけば、接待をしなくてよくなる。接待がなくなれば、安藤のいうことも実行しなくて済む。
そんな風に新見は思いつつ、台車にカップやポットを載せて会議室を後にしたのだった。
 彼が給湯室で食器類を片付けている間、深町は安藤に問いただす。
「よお、会議は終わったのか?」
 のんびりした声を受けて、深町は冷静な声で問う。
「お前か。お前の仕業だな?」
「何の話だ」
「今日の接待だ。今まで行われてこなかったことが急にセッティングされている。これはお前が俺の会社に来たからだ。違うか?」
 安藤はその声に笑い声を上げた。
「おいおい、表現を間違っているぞ。俺がお前の会社に来たんじゃなくて、お前が俺を引っ張り込んだんだろうが」
「そんなことを言っているんじゃない。話をはぐらかさないでくれ。お前のことだ。何を企んでいる?」
 深町は慎重に尋ねた。安藤は高校時代から本質的には変わっていない。コントロールしているつもりでいつもされている。油断すれば足元を掬われる相手なのだ。
「企むとは心外だな。俺はいつもお前のためを思っているのに」
 からかうような口調に深町は少し苛立った。玩ばれているのが分かったからだ。
「手短に話してくれ」
 乾いた口調であえて深町が言うと、安藤は一瞬の沈黙の後、口を開いた。先ほどとは違って事務的で無感情な声が深町の鼓膜を刺激した。
「では言おう。松野屋は老舗中の老舗だ。今回飲食店の買収を視野に入れているだろう?対象としている利用客の種類は似ているはずだから、今回のことはいい勉強になるだろうと思ったのさ。お前は昔から現場を俺に任せる傾向があるが、たまには自分の肌で感じてみるのもいい。料理もその業界では評判だ。あと色々とあるサービスもな」
 少し下卑た笑い声が混じったことに深町は不審に思い、どういうことかと尋ねれば、「それは楽しみにとっておけよ」と誤魔化される。
「それだけか?」
「まだある。お前、最近働きすぎだ。たまには酒でも飲んでゆっくりしろよ。昨日は何時間寝た?俺も人のことは言えないが、お前は異常だよ。必死に仕事に尽くしたところでお前の一生を会社は保障してくれないぞ」
 その安藤の言葉に深町は静かに反論した。
「してくれるさ」
「いや、定年になったら捨てられるだけだ」
「違う」
「違わない」と安藤。
 深町は自嘲めいた笑みを浮かべる。安藤はシビアな考えをする男だが、やはり根底では一般のサラリーマンらしい。深町はそんなことに今更ながらに気づいて、嬉しいような悲しいような複雑な気分になった。
「お前のいた世界はそうかもしれないが、俺のいる世界は別だ」
 安藤はそんな深町の台詞に黙りこくった。
深町自身も自分で言って落ち込んだ。ちょっと踏み入れたつもりが、首まで浸かっているようだ。この特殊な世界に。
「俺はここで救われたんだ。安藤、お前には分かるまい」
「ああ、分からんね。お前、それが嫌で独立したんだろうが。嘘だったのか、あの言葉は」
 安藤の口調に深町は少し驚いた。珍しいことに感情が出ていた。こんな風に声を荒げるなど、再会した当時ぐらいしかなかったのに。
「なぜ怒る?」
「お前の考えが分からんからだ」
「嬉しいことをいう」と深町は微笑んだ。安藤が自分のことを気にかけてくれているだけで嬉しかった。
「分かった。今回はお前の顔をたてよう」
「何?」
「松野屋に行って美味いメシでも食って来るさ。土産話を期待していてくれ」
「お前、話をはぐらかしたな」
「最初にはぐらかそうとしたのはそっちだ。もう切る。彼らに悪いからな」
 深町はそう言うと、回りで心配そうにしている社長たちの様子を気にしながら、携帯を耳から放した。その時、微かに安藤が言った台詞が気になった。
「本当に土産話、期待しているよ」

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