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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

5.なけなしの勇気

5-2/2

 新見が会議室に戻ってきた瞬間、先ほどとは雰囲気が変わっていることに気づいた。一体この一瞬で何が起こったというのだろう。社長たちの会話から、今から予定通り接待が行われるようである。
「おい、行くぞ」
 上條は呆然としている新見を即した。
「は、はあ」と実に間抜けな声を新見は出して、会議室から次々退出していく一群の最後尾についた。
 頭は混乱していた。
 先ほどの深町の様子からいっても今回は中止になる流れだったはずである。それなのに席を外した数分で逆転。一体何が起こったというのか。
 そうだ。電話だ。
 新見は出て行く時に、深町が電話を掛けようとしていたことを思い出した。おそらくは安藤にこの出来事を問いただしたに違いない。そして彼にまんまと深町は丸め込まれたのだ。あの深町の様子から言って、安藤の企みには全く気づいていないようだった。もしかすると、自分と寝るオプションがついているとは夢にも思っていないのかもしれない。
 それにしても安藤と深町の関係とはどういうことなのだろう。話だけなら深町の方が役職が上であるようだが、事実上は安藤の方が一枚も二枚も上手ではないか。
 深町のことだ、おそらく彼自身が身に染みて分かっていることだろうに。
 新見はそう思いながら、頭一つ高い深町の後頭部を眺めた。
「俺たちの関係はそんな生易しいものじゃない」
 ふと、安藤の低い声を思い出した。あんなに人をコントロール術を心得ているのに、深町に対して異常なほどの警戒心を抱いているような態度だった。
 もしかすると、この二人はお互いの存在を牽制し合っているのかもしれない。安藤の方が上手だと判断するのは早計かもしれない、と新見は気持ちを引き締めた。
 そうだ。
 あの不気味な威圧感のある深町と自分は対峙しなければならないのだ。一体どうなるというのか、あの二人の間に入って。無事でいられるのだろうか。
 新見は誰にも気づかれないように、小さくため息をついた後、決心したかのようにネクタイを締めなおしたのだった。

 松野屋は噂どおり一級だった。
 新見は数々の料亭に足を運んできたが、この料亭は別格のようである。
 街の郊外にある旧家を改造した木造の建物は、照明に照らされて黒い壁が浮き上がっていた。
 新見たちは二台のタクシーに分かれて到着した。一台目には深町、社長、常務が。二台目に上條と新見が。
「すごいところだな」
 新見同様、上條も松野屋を利用したのは初めてだったので、その門構えに二人とも緊張した。かがり火が焚かれた門を潜れば、打水がしてある石畳が彼らを迎える。遠くに見える戸口の前には、上質の着物を着た女将が立っていた。
「ようこそいらっしゃいました」
 その声は上品であり、凛と響いた。
「おじゃまするよ」と社長たちはリラックスしたようすで奥へと進む。新見は好奇心から、ゆっくり回りに視線を向けてから女将に頭を下げた。
「今日は宜しくお願いします」と新見はごく自然に笑顔を向けた。
「今日はゆっくりしてらしてくださいね」
 女将も優しく笑顔を返した。
 新見は部屋に入るまで、長い廊下を歩きながらその完成された料亭に感心していた。少しも偉ぶるところがなく、リラックスできる空間だった。一つ一つの座敷は離れており、客同士がすれ違うこともないような構造をしている。今歩いているこの廊下すら、我々しか使用しない、専属の廊下なのだ。
 これは密会に使われるわけだ。
 政治家の利用が多いという噂である。料理もさることながら、こういうサービスが彼らを呼ぶ理由なのだろう。
 部屋は実にシンプルな構造だった。座椅子の上に上質な座布団がある。床の間には有名な書道家の書。伊万里の壷。
 照明は淡い色。決して明るすぎない、けれども料理の色を狂わせない丁度いい加減だった。見上げれば、照明の傘は有名な作家の竹細工ではないのか。
 座る前に、部屋つきの女性に尋ねれば、少し驚いた顔で「そうです」という返事だった。やはり有名な竹工の細工だった。
 全員が腰掛けた所で、深町と新見は目があった。彼の目は「どうして君がいるのか」という不思議そうな感情が浮かんでいた。それはそうだろうと新見は思う。先ほど茶を汲んでいた男が、こんな場にいること自体おかしいのだ。あの目つきからすると、本当にこの後の接待については想像もしていないに違いない。
「では始めましょうか」
 乾杯から始まって会食がスタートした。
 料理の内容は素晴らしいもので、上條は箸使いで四苦八苦していたが、新見はそのようなこともなく、純粋に食事を楽しんだ。
見た目も美しいその料理は、深町を始め皆の味覚を満足させた。時折深町は、部屋つきの女性に料理内容を尋ね、楽しそうに社長たちと話をしていた。新見も耳だけその会話に参加して、内心大いに楽しんだ。
「ちょっと失礼します」
と、深町がトイレに立ったのは、全ての料理が出揃って、アルコールが十二分に回ったころだった。
 彼が障子をきっちり締めたところで、社長が口を開いた。
「いいタイミングだな。今のうちに我々は失礼するとしよう」
 新見は思ってもみなかったので動揺した。
「ええっと、新見くんだったかな。後は任せたからな。しっかりやりたまえ」
 そう言うが早いか、常務と二人で立ち上がった。
「ちょっと、ちょっと待ってください」
 上條と新見は同時に立ち上がる。そして、お互い顔を見合わせてから、上條が言った。
「いない間に失礼するというのはどうなのでしょうか。一応挨拶をしてから辞するのが礼儀だと思いますが・・・」
 新見が言いたかったのもそれである。ところが、社長と常務は難しい顔をした。
「そうしたいのは山々だがね。会食に対するあの人の態度を見ただろう?いるときにそういうことを言ったら、一緒に帰るとも言いかねないじゃないか。第一、そういうことは、気を使ってあげたほうがいいんじゃないかね?」
 上條と新見は口を閉じた。彼らはそういう接待の場に居合わせたことはないが、もし自分の立場なら、やはりそっとしてほしいと思うだろうか。ヘタに話題に上らすと、互いに気まずいであろうことは確かだが。
「分かりました。ここでお待ちすれば宜しいのですね」
 新見は腹を括ってそう言うと、常務はポンと肩を一つ叩いて、「分かってるな?」と念を押した。新見が小さく頷くと、社長と常務は満足そうに障子の向こうへと消えていった。最後に残ったのは上條だったが、彼は新見に声を掛けることはなかった。ただいつもの目つきを眼鏡越しに向けただけだった。
「何もおっしゃらないんですね」
 新見が言えば、上條はつまらなそうに答える。
「言いたいことはもう言った」
「そうですか?」
「そうだとも。相手の機嫌だけは損ねるなよ。まあ、昼間のアカシヤの様子からすると、大丈夫そうだが」
 新見はその言い方に皮肉が交じっていることに気づくと、彼の勘違いを訂正した。
「誤解してらっしゃるようですが、深町さんがそうだということは、私は知りませんでしたよ。あの時点では」
「そうかね」と上條は納得していないような顔つきだった。
「まあ関係ないがね。精々頑張りたまえ。全てが終わった後には愚痴くらいは聞いてやる。もういくぞ」
 上條はじっと見詰める新見の視線を受けながらも、静かに部屋を出て行った。
 ふうとため息をつけば、ずっと部屋の隅で正座していた女性は「まあそう気張らずに」と微笑んだ。その態度からいって恐らくこういう場には何度も立ち会っているのだろう。自分が女性でもこんな言葉を掛けたのだろうか、と新見は自虐的に思いながらも「どうも」と笑いを返した。
 女性は料理が全部出たのと、客が帰ったのとで席を立った。
 部屋にはまさに新見だけが残された。
 身体が熱いのは、飲んだアルコールのせいであるのか、それとも実際部屋が暑いのか。
 新見は息苦しくなってネクタイを緩めた。視界の端には否応にも隣に続く襖が映る。開かなくても分かる、あそこには上質な布団が敷かれているに決まっていた。
 存外深町が戻ってくるのは遅かった。
 新見はまさかすっぽかされたのではと不安になりながら、進み行く時間を誤魔化すように残った酒に手を出した。
 酔っ払ってしまえば、勢いでどうにでもなるかもしれない。深町とて相当酒が入っている。
いや待て、酔っ払ってしまっては安藤のいうことを確認できないではないか。いや、酔っ払っているから確認できなくても当然なのか?・・・なんだか分からなくなってきた。
 彼は会食の時に泥酔することはなかった。園田と付き合っているときも節度を持って、アルコールは嗜む程度だった。ところが今回は勝手が違って、酔いがよく回った。
 彼は目の前の座卓に頬をつけたかと思うと、瞬間意識を飛ばした。
 すっと障子が開いたのは、一体何分後だったのか。
「おや」と深町が上げた声で、新見は勢いよく姿勢を戻した。
「皆はどうしたんだ?」
 落ち着いた様子で深町は言い、先ほどと同じ席に座った。
「帰りました」
「帰った?」
 深町は不愉快そうに、そして不思議そうに呟いた後、合点が言ったような表情を浮かべた。「そういうことだったのか」
「ええ、そういうことらしいです」
 同情したような表情を新見も浮かべ、お互い困ったような顔をし合った。
「参ったな。君がいるということは、私の性癖まで分かっているということだろう?まさかあのレストランで会った時には、既にそういう段取りだったのかな?」
 新見は深町のその質問に対して「まさか」といつもの返事をした。
「接待することにはなってましたが、相手があなたとは知りませんでした」
「本当かな」
「本当ですよ」と新見は微笑んだ。
 深町はまだ納得していないような表情を浮かべていたが、ふと鋭い視線を向けてきた。
「安藤と君、まさか通じているんじゃないだろうね」
 ぎくりとした。
 卓の向こうで胡坐をかく深町は、先ほどの柔らかいイメージから一転して不気味なオーラを放っていた。そう、オーラだ。それ以外に言いようがないと新見は思った。
 どうすべきだ。正直に言うべきか。
 冷静に考えれば、この会食自体安藤が絡んでいることを彼は分かっているはずだ。自分がいることが無関係であるなど、誰が納得するだろう。
「参りました」と新見は苦笑した。
「そう言うということは、繋がっていたんだね。アカシヤのときから?」
「それは先ほども言ったとおり違います」
「頑固だね」
 深町は頬杖をついて新見を眺めた。頬はほんのり赤いが、眼に酔いはなかった。
「本当ですよ。安藤さんから連絡を受けたのは、会議の直前です」
「ふうん」と深町。面白そうな目をした。
 安藤同様、深町も互いの行動が気に掛かるらしい。自分を通して相手の言動を探るのはやめて欲しいと新見は思う。誰かを仲介せずに直接対峙すればよいものを。
「実は、あなたとの関係を簡単に伺いました」
「へえ?」
「ご友人ということでしたが、深町さんが自分に背中を見せないのを気に掛けてましたよ」
 新見は何気なく言ったつもりだったが、深町は予想以上に大きく表情を崩した。表現しにくいそれは、苦しそうな、悲しそうな、複雑な顔だった。
「そうか」と言うのが精一杯のようで。
「腹に溜め込むのも程ほどにしておいたほうがいいですよ。今夜は仕事抜きにして」
 新見の言葉に深町は少し笑った。
「君に言ったら安藤へ情報がながれるじゃないか」
丹精で整った男の顔は、実に理性が上回っていた。自分も感情に振り回されないほうだが、彼の場合、長年の月日がそうさせたように思えた。元来の性格なのではなく。
「そんなことはありません。秘密にしておくべきことぐらい理解できますよ。こんなに信用できる男もいません」
「はは。面白いね君」
 深町は笑った。そしてじっと新見の顔を見詰めると、「絶対秘密にしておいてくれるかい?」と悪戯っぽく聞く。
「ええ、もちろん」
 新見が言うと、「そう」と深町は優しい顔になった。
「こっちにおいで」
 深町の手招きに従い、新見は向こう側の深町の隣に座る。彼は、新見の耳に唇を近づけると、はっきりした声で告げた。
「私はね。安藤が好きなんだ」
 淀みがなかった。照れもなかった。それは告白というより、何々が好きと物に対して告げるような軽く明るい声だった。
「そうなんですか」と新見は間抜けな返事をして、彼を見返した。こうもあっさり言われると、今言った言葉は何かの符号でしかないような気すらした。
「驚かないんだね」
 深町は優しく笑うと、そっと新見の頬に触れてきた。その触り方はこの後の展開を予感させるのに十分なやらしさだった。
「あ、あの?」
 新見の頭は追いついていなかった。第一、自分以外の人間が好きだと告白したのに、どうして急にこういう展開になるのか。
「あ、安藤さんがお好きなんでしょう?どうしてこういうことになるんですか?」
 肌を滑る深町の手を振り払って新見は慌てて聞いた。すると、深町は笑顔を湛えたまま言う。
「君は何か勘違いをしているね。私は確かに安藤のことは好きだよ。ところが、君が考えているような次元の問題ではないんだ。これは私の中で何十年と腹に抱えてきた呪いの言葉なんだよ。恋では生易しい、愛では足りない。言葉の表現には限界があることを身に染みて感じるよ」
「それと、この手とどういう関係が?」
 新見はゆっくりと外されるネクタイを見ながら呟く。深町の目は相変わらず正気だった。
「安藤はね。言ったんだ。私に休めと。そして松野屋のサービスを楽しめとね。彼は知っているんだよ。私の性癖も彼を好いていることも。知っていて私と君とをこういう場に会わせた。だったら、楽しむしかないじゃないか?違うかい?」
 深町は笑顔のまま、今度は自分のネクタイを引き抜いて、新見の肩を押す手に力を込めた。
「お、おかしいですよ。あなた達」
 新見は失礼を承知で言った。深町の決して消えない笑顔が逆に不気味だった。
「だから何度も言っているだろう?君の頭の回線より我々は複雑だ。私たちは身体の関係こそないが、何十年も愛し合ってきているんだ。殺したいくらい」
「ちょっと待ってください」と新見は頭が冷静になって言った。目つきが変わったのだろう、深町は肩を押す力を引いた。
「あなたは片思いをしているだけでしょう?肉体関係もない。なのに、どうして愛し合うなんて相互の表現が出てくるんですか?そんなものは妄想ですよ。第一、安藤さんが本当にあなたのことが好きなら、こんなことはさせないはずだ。あの人はあなたをオモチャのようにコントロールして遊んでいるとしか思えません」
 深町は甲高く笑った。今までの張り付いた笑いとは違って鋭く、新見を威圧するような。
「君は実にシンプルだね。恋や愛でセックスが成り立っていると思っている。私はね、何度も言うとおり、君の想像を超えて安藤のことが好きなのだ。しかし、君の言うとおり彼に直接伝えたことなどない。もちろん感情を込めて彼に触れたこともない。なぜだか分かるか?目に見える愛情表現は我々の関係を破綻させるからだよ。我々はビジネスパートナーでもある。私が彼を引き抜いたのは、自分の欲求を満たすこともそうだが、彼が優秀だからだよ。仕事のことじゃない。私をコントロールすることがだ。彼が私を視姦し、私はその膨大なエネルギーをビジネスに消化できるのだ。もし肉体関係を持ったらどうなる。私の欲求は、安藤にしか向かなくなる。彼を利用するのではなく消化して終わる。私は何かを生み出したいのだよ。彼と共に」
 子を産みたいのだと、新見には聞こえた。
「深町さん、あなた」と思わず声が漏れた。
「あの人に・・・抱かれたいんですか?」
 彼は絶句した。自分の言葉の意味にようやく気づいたようだった。安藤への告白とは違って彼が次に発する言葉には時間が掛かった。毒が回っているような苦渋に満ちた表情を彼はしていた。
 次の言葉には勇気がいったことだろう。膨大なエネルギーが使われたのだろう。
 新見は深町の目を見詰めて、待った。
「そうだ」と血を吐くような声が、深町の唇の隙間から漏れた。
「私は、彼に、抱かれたい」
 新見はゆっくりと、そしてしっかりと彼を抱きしめたのだった。

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