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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

9.さわやかな風

9-1/2

 夏の盛り。暑い営業から帰ってくると、社内の強すぎる冷房に新見はいつも辟易する。女性社員はカーディガンを羽織り、デスクワークの男性社員は上着を羽織っている。何か間違っているといつも思うのだが、平社員の意見などまともに上層部に届いた試しがない。
「そんなことはない」
 人の心を読んだように上條が言った。ぎょっとして横を見ると、すぐ近くでにやりと笑った顔とぶつかった。
「驚かんでもいい。君の考えは手に取るように分かる。営業から戻ってくると、社内がキンキンに冷えている。真夏なのに、デスクワークの連中は上着を着ている。おかしなものだ。省エネだ、クールビズだと騒いでいる世間の声を聞いていないのか、この会社は。これはこの先、この会社も危ないんじゃないか」
「そこまでは思ってませんが」
 新見が苦笑すると、上條は「そうかね?」と面白くなさそうに言った。そんなふて腐れた顔を見て、きっとこの上司も同じことを考えていたに違いないと思った。人の心を読んだように見せかけて、要するにただの愚痴を言いたいだけなのだ。
「経費節減については、そろそろ話が上がってくる頃だ。毎年この時期は売上が落ちるからな。昨日経理に決算状況を常務が聞きにいっているから、今年こそ具体的な節減案が上がってくるかもしれん。寒がっていれるのも今のうちだ」
「なるほど」
 新見は納得して腰を下ろした。捲り上げていたシャツの袖を戻して上着を着る。汗が体温を奪い、寒いことこの上ない。自分は体格があまりよくないのでこの冷えはキツイ。
 一つ身震いをして新見は営業日誌を手にした。今日まわった得意先と反応を書く。冬場はびっしり記入される日誌は、夏場は空白ばかり目立つ。上條が言いたかったのは、冷房うんぬんではなくて、自分の課の営業成績の低迷ではないのかとようやく気づいて新見は苦笑した。つまりあれは愚痴ではなく、皮肉だ。
 不甲斐なくなってため息を一つ付くと、上條は「分かったらもっと稼ぎたまえ」と冷たい一言を横っ面に浴びせかけてきた。新見は反論することもできず、またため息を付くのだった。

 その頃、伊勢崎は冷房とは無縁の所にいた。つまりは自宅である。今日も仕事を一切入れなかった。今日も、と表現したのは、前に新見に蹴られた場所が痣となっていて、一度常連客に根堀派堀聞かれたので完治するまで仕事は控えているのだった。もちろん肌を出すヌードモデルの仕事も取れない。
 今日はうだるような暑さで、窓を開けていても風など入ってこず、太陽の光がじりじりと肌を焼いた。ジーンズなど履いていられず、トランクス一丁で畳に寝転がる。
 夕べ伊勢崎の元に新見から電話があった。この時彼は近くのコンビニにビールを買いに出ていた。夜遅かったのと、仕事を請けられない現在、携帯など持ち歩かなくてもいいか、と油断していた。帰ってきてみると、着信があり、相手は新見だった。
 例の一件で伊勢崎の方から連絡するのが憚られていたので、天にも上る気持ちで折り返し電話をした。自分が掛けた時は新見は絶対に電話に出たので、今回も「さっさと出てくださいよ」と聞けると期待した。
 ところが。
 夕べは伊勢崎が何度電話しても新見は出なかった。時間も十二時近くになったので、それ以上は掛けなかったがこんなことは初めてだった。
 なにかあったのだろうか。と伊勢崎は思ったが、彼が自分に電話を掛けてくる用件が思いつかない。一度掛かってきた時は、男性相手の接待の相談だったが、そういえばあれはどうなったのだろう。聞くと自分が傷つきそうだったのであえて聞いてはいないのだが、気になる。今更ながらそう思った。
 伊勢崎は起き上がると、時計を見た。
 家にいても不毛なことばかり考えてしまう。
クーラーのある喫茶店で時間でも潰そう、と腰をあげて、ジーンズを履く。シャツに袖を通してふとまた新見を思い出す。
「電話してみっかなぁ」
 伊勢崎は未練がましく携帯を見ると、通話ボタンを押した。普通の勤務ならもう終わっているような時間だったが、意外なことに圏外だった。夕べから何かおかしい、と伊勢崎はあまりにも繋がらないこの事態を不審に思った。そして、ジーンズのポケットに入っている新見の名刺を取り出して眺める。
 考えてみれば、彼のことはあまり自分はよく知らない。知っていることといえば、上品な顔で、言葉は丁寧だが冷たく、肌を合わせると、ひどく官能的な声で鳴くことぐらい。
 思い出して下半身が熱くなる。
「ええぃ、くそ」
 伊勢崎はそう吼えると、立ち上がる。
 うだうだとしているなど自分らしくもない。大体一回の失敗ぐらいで電話をするのを躊躇うなど、どうかしている。
 伊勢崎は尻のポケットに札と名刺を突っ込むと、携帯を握り締めて家を飛び出した。
 電話に出ぬなら会いにいけばいいだけだ。
 伊勢崎は持ち前の本能に逆らわず行動することにした。新見の職場の住所は分かっている。以前使ったホテル近くのビルだ。電車で二駅。
向っている途中で新見が電話に出れば、またあのホテルに誘ってみるのもいい。
 と、そこまで考えて伊勢崎は足を止めた。そして自分の格好を見下ろす。皺だらけのシャツに色あせたジーンズ。顎を触れば無精ひげ、ぼざぼさの頭。職場に押しかけてこの格好を見て、新見はどんな顔をするだろうか。
 簡単だ。迷惑そうな顔をして、一体何の用ですか。と冷たく言い放つに違いない。
 伊勢崎は踵を返した。行動するならそれなりの格好をしていくべきだと思いなおした。少なくとも、前にホテルでいい雰囲気になったのはスーツ姿の時だった。
「よぉおおし!」
 伊勢崎はまた吼えて家に戻ると、シャツにアイロンを念入りに掛け、クリーニングから戻ってきたスーツを着た。髪も整え髭も剃る。ネクタイは、と考えて、ゲンを担いで前と同じネクタイを選んだ。
 鼻歌を歌いながら身支度を整え、出発前に一度新見に電話をした。相変らず圏外だ。もしかしたら電源を切っているのかもしれない。
 何のために?
 まさか自分を拒否しているためじゃあるまいな。
 伊勢崎は一瞬嫌な予感がしたが、頭を振ってそんなことはない、と考え直す。そして嫌なことを考えないように、うだるような暑さの中を飛び出していった。
 新見の職場に付く頃には日が落ちていて、S生命のビルからは退社しているであろうサラリーマンの姿がちらほら見えた。腕時計を見ると、夜八時過ぎ。見上げると、彼の勤め先である職場にはまだ明かりがあり、人が動いている。
 そんな窓を見ながら新見に電話を掛けるが相変らず通じない。
 よし、と伊勢崎はビルに入った。外見的にはおかしなところはないはずだ。名刺に書いてある階に向おうと、エレベーターのボタンを押す。不気味な音を立てて箱は登って行き、6Fについた。
 あれ、と伊勢崎は想像と違った風景に一瞬戸惑った。てっきり目の前に受付嬢でもいるカウンターがあるかと思ったのだが、そこは長い廊下が伸びていた。左サイドには開け放たれた鉄扉が並んでおり、それぞれ表に課の名前が書いている。
 試しに手前のドアを見ると、入口の横にフライヤーの刺さった棚があり、扉の向こうにはカウンターがあった。来客の場合はここで対応するのだろう。カウンターの奥は、天井から総務課と看板がぶら下がっており、女子社員が数名パソコンを弄っていた。
 伊勢崎は顎を撫でる。カウンターに行って新見を呼び出すのは容易いが、仕事でもないのに堂々とそんなことをしてもよいものか。それなら近くにあったレストランで、出口に出る彼を待っていた方が迷惑にならないのではないか。
 どうしようかと逡巡した時、廊下の少し奥の扉から一人の男が出てきた。お疲れ様です、と微かに聞こえた声が新見のもののような気がしてドキリとする。
 あそこが彼のいる場所だろうか。と思っていたので動きが遅れた。
 男は廊下を歩いて伊勢崎の目の前に来た。通路を塞いでいる自分に対して迷惑そうに目を細めている。自分と同じぐらいの年齢の男で、神経質そうな顔。銀フレームの眼鏡の向こうの瞳は一重で少し釣り目気味だった。細い体つきで、手足が長い。
「おっと失礼」
 伊勢崎は壁側に一歩避けて道を譲った。すれ違う時に、男の視線が顔から下がった。ところがその途端、相手が眉間に皺を寄せて歩みを止めた。
 なんだ?と伊勢崎は戸惑った。
「あなた、」と男は言ったきり絶句してこちらを睨むように見上げている。
「ええっと、どこかでお会いしましたか?」
 ずっと睨まれているのも居心地が悪かったので伊勢崎がそう言うと、男は我に返ってから、意味深に口元を歪めた。
「ええ、あなたのネクタイにはお会いしてますよ」
 そして、伊勢崎のネクタイの結び目を指差した。今日は細身のタイなので二重に結んである。
「彼に一重の結び方は野暮だと教えたんです。あなたも貸す時は気を配った方がよろしいかと思いますよ」
「え?」と伊勢崎が困惑して聞き返すと、ふんと鼻を鳴らして男は立ち去った。エレベーターに乗り込む時に、もう一度伊勢崎を振り返る。
「彼は四つ目のドアの営業課にいます。もういるのは彼だけですからご勝手にどうぞ。ああ、一つ伝言を宜しいかな。君には呆れた、とお伝え下さい。ではごゆっくり」
「な?」
 伊勢崎が言い返そうとした時にエレベーターのドアが閉まって男の姿は消えた。
「一体なんだありゃ」と伊勢崎は男の非礼ぶりに憤慨しながら足を進めた。
 なんで初めて会った人間に、あんな訳が分からない因縁をつけられられなければならんのだ。
 腹を立てながらも男の言われた通りに四つ目のドアを見ると、営業課・企画課と表示があった。開けっ放しになっている入口の向こうには、ぽつりぽつりと人がいて、数人が不審そうにこちらを見ていた。
 愛想笑いで誤魔化しながら新見を探すと、営業課と書かれた部署の方に、細身の男が一人いた。立ち上がったままデスク上を整理整頓している。そろそろ帰る雰囲気だった。
「おーい、新見ぃ」
 確信を持って大声を出すと、びくりと男の肩が揺れた。そしてゆっくりときれいな顔がこちらを向いた。
「なんでこんなところにいるんですかっ」
 悲鳴のような動揺した声が新見の口から発せられて、数名の視線が伊勢崎から新見に移った。
その好奇な視線を無視して、新見は伊勢崎の方に歩いてきた。見るからに不機嫌そうな態度だった。
 やべぇ、失敗したか。
 ははは、と誤魔化すような笑いを伊勢崎はした。丁度目の前に立った色男は、冷たい視線で見上げてくると、「はあ」と一つため息をついて呆れたように目を細めた。

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