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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

目に青葉

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後悔先に立たずと初めて言ったのは誰なんでしょうか。人生、後悔を繰り返しながら前進していくものだと信じたいところですが、俺ときたらもう学習能力がなくて、何度も何度も同じ失敗していまして、こういう人間でも何か前回と違い得ているものはあるのでしょうか。あ、いえ、ただの愚痴なんですが。
 こと男鹿に関して俺は一歩も前進しておらず、二年の春のあの日、彼をネタに自慰行為に走ってしまったことは、穴があったら入りたいほどの恥部となってしまいました。あの日からますます彼とは顔が合わせにくくなり、窓の外の桜ばかりを眺める日が続いておりました。時は無常に過ぎ去り、木々には青葉が生い茂り、気づけば夏になっていました。蝉の鳴く音ばかりが騒がしくて、日差しを避けるために教室の窓にはカーテンが引かれています。
 俺はどうすればいいのでしょうか。今までは視線を逃がす対象がありましたが、こうカーテンばかり眺めているのも馬鹿馬鹿しくなってきます。というか、ずっと左ばかり見ているものだからそろそろ首が痛いです。
 俺は頬杖を外して首を一回まわしました。こきこきと小気味いい音がして、ふと右に視線を走らせると、男鹿はつまらなそうに授業を受けていて盛大に欠伸をしていました。この日は国語の授業中で、教師は淡々と古文を読み上げながら黒板に向って何かを書いています。
 机に突っ伏して寝る振りをしながら薄目で男鹿を観察し続けていると、久しぶりにまともに男鹿の顔を見たせいでしょうか。俺は彼から目が離せなくなりました。ええ、変態ですとも。
 男鹿は右手でシャープペンをくるくる回しながら授業を聞いていて、時折俺の席と反対側のクラスメートとこそこそ談笑していました。いいなぁ羨ましいなと俺はイジイジしながら目を閉じて、いつの間にか本当に眠ってしまいました。
 なんというか薄々気づいていたことですが、基本的に俺が寝てしまうと誰も起こしてくれないようです。今思い返してもこの日の授業の後は選択授業で移動教室だったはずなんですが、目が覚めた時に当たり前のように微分積分の授業だったことから、おそらくずっと寝ていたものだと思われます。っていうか、一人ぐらい声を掛けてもいいと思うのですが。俺起こされても怒ったりしませんよ。寝起きで人相が悪くなるだけです。
 俺はぼうっとなった頭を掻きながら不用意に男鹿の方を向きました。理性が働いている時はヘンな意地が入るのですが、この時は本能が動いたというか。
 そして思い切り目が合ってしまったわけです。男鹿と。
 彼は俺の人相があまりに悪いからなのか目を丸くして固まっていました。しかし彼は俺と違って自分から目をはずさない男で、俺たちは奇妙な感じでややしばらく見詰め合っていたのでした。
 俺はその間、ああ男鹿と目が合ったのは久しぶりだなぁと少し感動したりして、要するにまだかなり寝ぼけていたわけです。
 呪縛が解けたのは、そんな俺に対して男鹿がふわっと笑った為でした。おかげで一気に目が覚めて、顔にかぁっと熱が上がってきました。
 お分かりですね。こうなっては俺の行動は一つです。
「見てんじゃねぇよ」
 俺は声を忍ばせてドスの効いた一言を放ちました。寝起きのためにコンタクトが乾いて乾いて、俺の目つきはかなり悪かったと思います。いつもの男鹿なら、きっとまた「すまなかった」と顔を背けてくると思ったのですが、この日の彼は困ったような顔でシィッと唇に人差し指を一本当てました。
 その時です。
「おい、獅子原」と好戦的な声が浴びせかけられました。顔を正面に戻すと教壇上で教師がこちらを見ておりました。何とも癇に障る目つきで、俺は彼が自分のことに偏見があるタイプだとすぐに感づきました。要するに、髪を金髪にして授業中に居眠りする人間などろくでもない奴だというアレです。
「ようやく目が覚めたようだな。じゃあ早速黒板の問題を解いてもらおうか。寝てたくらいなんだから私の授業なんかくだらないと思っているんだろう?」
 俺は何度かの瞬きでコンタクトが元に戻ったので、黒板に書かれている問題を読んでみました。放物線内の面積を求める問題でした。俺はちょっと考えて、ざざっとノートに計算式を走り書きしました。そして「3分の32」と一言答えました。
 ざわと周りの連中が騒ぐのが聞こえて俺は少々動揺してしまい、もう一度問題を見直しました。間違いありません。答えは32/3です。
「て、適当なことを言うな」
 教師が引きつった顔でそう言った時に、タイミングよく終業のチャイムが鳴りました。彼はほっとしたような態度で教科書を閉じると、結局俺の答えに対して何の反応もせず教室を後にしたのです。俺としてもあの険悪な視線から解放されて安堵しました。もう答えの正誤などどうでもいいです。
 実は俺はこんな派手なナリをしておりますが、喧嘩が好きではありません。本当は平和が大好きな男の子で、図書館で読書している時が一番心が安らぐんです。第一喧嘩で人を殴ったところで何の解決にもなりません。手が痛くなりますし、留置所は寒いですしね。だいたいあのコンクリートの床は冷たく、って、そんな話じゃありませんね。話を元に戻しましょう。
 そうして休み時間になった時、男鹿は俺に近づいて声を掛けてきたのです。
「よく寝てたじゃないか」
 からかうような口調から入られて俺は「うるせぇよ」と悪態をつきつつも内心嬉しくて仕方がありませんでした。なんか友達みたいじゃないですか。
 男鹿はそんな俺の心理を知ってか知らずか、休み時間でいなくなった俺の前の席に徐に逆向きに座りだしました。
 え、なに。ちょっと待て。近いっ!近いって!
 俺は動揺して今までしたことがないほど背筋を伸ばして目を泳がせてしまいました。 ああ。こんなに緊張するぐらいなら彼と仲良くならないほうがいいです。あ、すみません、嘘つきました。
「なあ獅子原、さっきの問題の解き方教えてよ」
 男鹿はそう言うなり俺の机のノートを手に取り、微笑みました。
「字が上手いんだな、獅子原は」
「勝手に触るな」
 俺は乱暴に男鹿からノートを奪い返すと、ふんと鼻を鳴らして顔を背けました。
 しかし男鹿は諦めません。
「そう言うなよ。なあ本当に教えてくれないか。俺もあいつらも微分積分苦手でさ」
 俺は違和感のあるその台詞に思わず顔を戻して男鹿を見つめてしまいました。彼の顔は相変らず落ち着いて堂々としていて、そして瞳の中には何か蠢いていました。
「な?」
 男鹿が視線を送った先には、遠巻きながらクラスメートが二人立っていて、恐々とこちらを見つめていました。考えなくても分かります。彼らは俺のことを怖がっており、そしてこの機転を利かせた男鹿の提案を半ば迷惑に思っているようでした。
 そう、彼は俺をクラスに溶け込ませるためにこんなことを言っているのでした。なまじ頭がいいと分かった途端この展開です。俺は浮かれていた気持ちがさめていくのを感じました。結局彼の考えは、俺という個人を認めて話しかけてくるわけではなく、やはり委員長たる責任感から、いや、そんなものよりも薄っぺらい偽善から来ているものなのだと俺は分かってしまいました。
 俺は笑いました。情けなくて情けなくて。
「獅子原?」
 男鹿は突然低く笑いだした俺を訝しげに眺めていました。俺は彼に認められるほどの男ではなかったと自嘲し、こんな風に残酷に優しい男鹿が憎くて仕方ありませんでした。俺は彼を無視して立ち上がると、鞄を手に取りました。もう授業どころではありません。本当は好いて欲しいのですが、もう無理です。
 突然男鹿が俺の腕を掴みました。
「すまなかった」
 彼はいつもの俺とは違うことを感じたのでしょうか、真剣な声で見上げながら掴むその手は相変らず細く白く、学生服越しで分かりませんが、きっと冷たいことでしょう。
「察しがいいじゃねぇか」
 俺は男鹿を見下ろしながら嘲笑ってやりました。きっと彼は分かっていません。分かっているはずがありませんでした。
 俺は腕を掴んでいる彼の長い指を引き剥がしました。俺の熱い体温が彼の指に伝わって、全部離れた時には熱が二人の間に揺らいでいました。
 周りから眉を潜めた視線を感じました。おそらくまた獅子原が何かやったのかと思っているに違いありませんでした。俺はそれを否定する気にはなれず、ただ口元に自嘲する笑みばかりが浮かびました。俺は一人で傷ついて馬鹿みたいでした。
 休み時間でざわついた教室を横断し、乱暴に教室のドアを閉めると、ようやく背中に浴びせられる男鹿の視線が途切れました。俺は大きく息をついて、胸に渦巻く感傷に浸りながら屋上に向いました。え、なぜ屋上かって?そりゃあ一服しなきゃ落ち着かないからに決まってます。
 俺が屋上への扉を開けると、むうとした空気と眩しすぎる太陽が目の前にありました。コンクリートは鉄板のように熱くなり、ゆらゆらと空気が揺らいでおりました。
 俺はこの暑い中日陰を探し出すと、そこで煙草に火をつけました。夏なのにいまだ詰襟を着ている俺と致しましては、煙草くらい涼しいところで吸いたいのは山々なんですが、法律上そうも言ってられません。おかげで拷問のような暑さの中、今の短絡的な行動や言動を思い出し、気が滅入るばかりでした。せっかく男鹿と仲良くなりかけたのに自分からチャンスを潰したも同然です。別にあんな対応をとる必要はありませんでした。気乗りしなくても彼の友人と親しくなった方が、今後もっと彼と仲良くできる可能性があったことに今更気づいたのでした。しかしながら俺はシャイで、簡単に色んな人間と話をすることができません。別に本心をいきなり出す必要がないことぐらい分かりますし、会話をしてみて合わない相手だったら、そこから距離を置けばいいことぐらい分かります。しかしながら自分が傷つくのが怖いのです。殴り合う方がよっぽど気が楽でした。

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