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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。
馬鹿馬鹿しい。世の中全くくだらない。
私は眼鏡を外すと、ハンカチでレンズについた血を拭いた。そして拳から流れる血を簡単に拭うと、そのまま洗面所から出た。廊下に出ると、出勤してきた他の部署の人間と多くすれ違った。いつもは挨拶をしてくる彼らが今日は口をつぐんでいるようだった。私のワイシャツに飛んだ赤い染みが気になっているのか、それとも手から流れる液体に気がいっているのかわからないが、やたらと廊下が静まり返っていた。私は拳の血を止める為、反対の手で拳を押さえたが血は止まるどころか私の指の間からどんどん涌いて来た。
経理事務所のドアを空けると、驚いたことに迫田が席についていた。私は俯いたままの彼女の後頭部に向かって「おはよう」と声を掛けた。いつの間にか出勤してきていた篠塚と酒見は私の方など見もせずに「・・・ございます」と相変わらずの挨拶をした。今日ばかりは彼らの態度がありがたかった。色々詮索されては迷惑だ。
それにしても、と私はハンカチで拳を押さえながら苦笑した。我ながら何て馬鹿なことをしたのか。年ばかり重ねたが、根っこの部分は何も成長していないとみえる。
私は迫田の横顔を眺めた。彼女の顔は蒼白で視線は先程からずっと机の一点を見つめていた。一体何を考えているのだろう、と私は考えたが分かるはずがなかった。もし彼女の考えが少しでも理解できたなら、雑巾の絞り汁を飲まされることもなかっただろうし、退職届けがでることもなかったに違いない。
「迫田くん」と私は静かに声を掛けると、彼女は大げさに肩を揺らした。そして首だけこちらに向けた。
「お茶をいれてくれないか」
彼女は私が何を言ったのか一瞬分からない様だった。視線は私の顔を見、そして拳に重ねられたハンカチの赤い染みへと移動した。そしてノロノロと立ち上がると、茶を汲みにいくどころか、バッグを手にしてドアの向こうに消えていった。彼女はその間私を顧みることもなく、頭を下げることもなく、終業時間にでもなったかのように当たり前に、静かにその場を去ってしまった。
私はそんな彼女の背中を呆然と見送った後、腹の底から怒りが湧き出てくるのを感じた。私は立ち上がると、乱暴に廊下に出るドアを開けた。廊下には早足で外にでようとする迫田の背中があった。
「おい迫田!どこに行く!」
彼女の背中が驚いて震えたのが分かったが、足を止める気はなかったらしい。そのまま彼女は駆け足同然で出口のある扉の奥へ消えた。
私は怒りが収まらず、右手を白い壁に叩き付けた。塞がりかけていた傷が再び開いたのか、廊下に赤い飛沫が少し飛んだ。
ざわざわと遠巻きながら他の課の人間が私を見ていることに気づいたのは、おそらくほんの数秒後だっただろうが、私にはかなりの時間が経過したような感覚があった。経理の事務所からの恐る恐る様子を伺っていたらしい酒見は震えながら、「あ、あのお茶だったら僕がいれてきますので」と言った。私は「頼む」とだけ短く答えて、経理の事務室に戻ることにした。
「課長」と、席についた私の目の前に箱ティッシュが差し出された。篠塚が妙に神妙な顔つきで目の前に立っていた。
「すまんな」と私はそれを受け取り、手の血を拭いたが、彼は一向に席に戻ろうとしなかった。
「どうした」
「すみませんでした」
篠塚の口が動いたのはややしばらく経ってからで、私は思わず眉間に力が入った。
「なんだ」
「実は知ってたんです」
「ほう?」
「あの女が色々課長にやってるって知ってたんですけど、その、すみませんでした」
がらにもなく責任を感じているらしい篠塚は、茶色の頭を下げて私の目の前につむじを晒していた。
「具体的に何やってたのか知っていたのか?」
「いや、その分からないんですが、きっと相当なことをやってたってのはわかります」
私が仕事で怒鳴りつけることは日常茶飯事だが、感情的になったのは今回が初めてだからか。私はため息をついた。怒りに任せて行動して後悔しないことはない。冷静になれば大したことではないのに、恥ずかしいことこの上ない。
「篠塚」
「はい」
「煙草あるか?」
私の言葉に篠塚は少し驚いたような顔をしたが、胸ポケットから煙草を出して私に渡すと、ライターで火をつけてくれた。何年かぶりに吸う紫煙は私の全身に染み入るようだった。
ふう、と一呼吸すると、じっと目の前に突っ立っている篠塚に向かって言った。
「いいから仕事しろ」
「は、はい」
私はあたふたと机に戻った篠塚を横目で見ながら、電話を手に取った。この騒動はきっとあの男の耳に届いているはずだった。本来なら直接事情を説明しに行かねばならぬのだろうが、彼に対する感情が複雑で気が進まなかった。電話で申し訳ないが、ここは許してもらおう。
コールが三回鳴ったところで椎名は出た。
「ずいぶん派手だったじゃないか」
第一声がそれだった。声の感じからすると面白がっている気配があった。あの時彼は廊下にはいなかったが、ドア越しにも聞こえたのかもしれない。
「すみませんでした。反省しております」
私は目の前にいるかのごとく頭も一緒に下げた。
「何が原因だ?」
私がその質問に言いよどむと椎名は深いため息をついた。
「まあいい年なんだから程ほどにしておくことだ。今まで積み上げてきたものを一瞬でなくすことだってある。手を抜けとは言わないがね、ゆとりを持つことも大事だぞ。仕事でもプライベートでもだ」
いつもより更に低い声でそう言われて私は大層耳が痛かった。
「今日は残業はなしだ。分かったな」
最後は突き放すようにそう言われ、電話が切れた。
私は受話器を置いて、酒見が入れてくれた茶を飲んだ。濃くて美味かった。
ふと、視線を上げると、篠塚も酒見も私が気になるらしくちらちらと視線を向けていた。私は短くなった煙草を、持ってきてもらった灰皿に押し付けると、彼らに向かっていつも通りに仕事の命令をした。ちょっとしたトラブルが朝にあろうが、業務上には関係ない。私は頭を切り替えて仕事に没頭した。昼を過ぎて夕方になった頃には、私の拳の傷は塞がり、ぱさぱさに乾燥した血の固まりが皮膚を覆っていた。そして意外な一面を見せた篠塚は相変わらずふて腐れた顔をするようになり、酒見は叱られすぎてネズミのように小刻みに震えていた。終業時間になると、いつも通り二人は揃っていなくなっていた。
私は事務所に一人になると、眼鏡を外して目を閉じた。何だかとても疲れていた。仕事は相変わらず亀のような歩みで残業しても追いつかぬ。ただでさえ時間が惜しいのに、今日は残業をするなと命令まで下ってしまった。私がそんなことで素直に定時に帰ると椎名は思っていないだろう。おそらく様子を見にくるだろうと簡単に想像がついた。
私は一瞬迷ったが、結局自分は仕事するしか能がないのだと思い、眼鏡を掛け直して書類のチェックを始めた。特に今日やらなくてはいけないものではなかったが、いずれはやらねばやらぬ仕事だった。
作業はしばらく順調だったが、夜七時を過ぎたあたりから、集中力に欠けてきた。何度も時計を見たり、肩が凝ったと腕を回す。
今日はやけに落ち着かない自分に戸惑いながら、誤魔化し誤魔化し仕事を続けた。やはり疲れているのか、そろそろ仕事を切り上げようか、と思っていると、人の気配を感じて視線を上げた。
椎名が呆れた顔でこちらを見ていた。
「帰れと言ったぞ」
私は彼の姿を見てほっとしている自分に気づいた。そんな感情に戸惑いながら、「帰るつもりでしたが?」と私がうそぶくと、彼は腕を組んで鼻を鳴らした。そこでいつもと違うことに気づいた。いつもより来る時間が早いというのもそうだが、今日は珍しく手ぶらだった。いつもならコンビニの袋をぶら下げてくるというのに。
「残業しないんだろう?」
私の心を読んだかのように彼は言い、何も持ってきてないと腕を広げてアピールした。そして私が想像していなかった言葉を吐いた。
「そら、行くぞ」
椎名はそう私に言い放つと、顎で外に出るよう告げた。いったいどういうことなのか、と私が訝しげ思っていると、彼は苛々したようにこちらに近づき、ぱんと一つ手を打った。
「おい、さっさとしたまえ。おれは待つのは嫌いなんだ」
結局訳も分からず私は椎名の後ろについて会社を後にした。こんなに人がいる時間に外に出るのは久しぶりだった。
ビジネス街から程近い飲み屋街を抜けて、私が今朝方椎名を見つけた牛丼屋を通り越し、まだ我々は歩いていた。しかも椎名は私などまるで忘れてしまったかのような歩行スピードだった。いや、実際忘れられているのではないか。くるりと突然振り返って「なんで君はいるんだ?」などと言ってこないだろうか。私はそんな不安に駆られながらもスーツの背中を追いかけたのだった。
しばらくしてようやく彼の行き先が分かったような気がして、ほっとしつつも首を傾げた。なんてことはない、会社が月極で借りている青空駐車場だった。色々な車を縫って歩いて、椎名は黒のクラウンに乗り込むと、すぐにエンジンを掛けた。私は置いてきぼりで一体どうしたらよいのか途方にくれた。本当にここまできて忘れていたとは言うまいな。
車が動いて私の前に横付けにされた。椎名はじっと無言で私を見ていた。乗れとも帰れとも、何でいるんだとも言わなかった。ただ私を見た。
冷静に考えれば椎名と職場の外で付き合ったことはなかった。私は仕方なく助手席に乗るフリをしたが、実はかなり緊張していたのだった。
運転中も椎名は無言だった。会社を出てから彼はほとんど口を聞かない。いや、もともと饒舌な男ではなく、私の仕事を待つ間もむやみに話しかけたりしない上司ではあった。いつもなら居心地がいい空気感であるはずが、この閉鎖的な環境のせいだろうか、今日ばかりは妙に息苦しくて、ぐいとネクタイを緩めた。
「どうした」と急に椎名が言った。
横目でこちらを伺っている。
私は困った。息苦しいなどと言えるわけがない。すると椎名は視線を前に戻していつも通りの口調で言った。
「緊張しているのは君だけじゃないさ。おれも柄にもなくあがっている」
私は椎名に視線を向けた。動揺など微塵も感じない横顔だった。いったい何を考えているのか分からなかったが、彼の私に対する言動を理解できた試しがないことを思い出した。
私は眼鏡を外すと、ハンカチを出してレンズを拭いた。
「そういえば」と椎名が言い、徐にラジオのスイッチを入れた。聞こえてくるのは野球中継。
「お好きなんですか?」と私は眼鏡を掛けて苦笑しながら言うと、椎名はこちらを見ずに「君は嫌いか?」と問うた。
野球は丁度5回表を過ぎたあたりだった。スター選手ばかりをそろえた球団が一点をリードしていて、弱小チームがそれを追いかけていた。アナウンサーの実況と解説は、ただうるさいだけだった。
「あまり好きじゃないですね」
私が素直に言うと、椎名は「ふうん」と言ってボリュームを下げたが、切ろうとはしなかった。
微かに聞こえるラジオの音をBGMに車は走り続けた。私たちは他愛のないことを話す行為をだらだらと続けた。最近の経済のことや選挙のことや、今騒がれている事件のことなど。何度目かの交差点を過ぎてもなお、それは続いたが、私は彼の目的地が分からず落ち着かなかった。
「いったいどこに向かっているんですか?」
私が耐え切れなくなって聞くと、椎名はこちらをチラリと見ただけで何も言わなかった。私はそんな彼の態度に車に乗ったことを後悔した。
ラジオは野球の中継を続けている。ヒットが出ようが、エラーが出ようが、アナウンサーは興奮していたが、それを聞いている椎名は無表情のままだった。
私は彼が結局何も言おうとしないので、窓の外を眺めることにした。これから飲みに出かけるらしいサラリーマンの群れを見ながら、朝乗っている電車での彼らの表情とは真逆であることを可笑しく思った。
私はそんな風に普段見慣れない光景を楽しんでいたのだが、段々その景色が見覚えのあるものに変わって来て不安を覚えた。
まさか。と思った。気のせいだと思いたかったがそれは無駄だった。我々の乗せた車はゆっくりと私の近所の路地に入り、一つのアパートの前でゆっくりと停車した。車のハザードランプの音が無常に響いた。なんてことはない、椎名は私の家まで送ってくれただけだった。
「ありがとうございます」
私は内心の動揺を悟られないようにそういうと、ゆっくりと車から降りた。そして彼の車が発進するのを見送ろうと思った。
私は一体何を期待していたのだろうか。女々しいことに私は彼が私を強引にどこかに連れ出してくれるとばかり思っていた。これから何か変わることを期待し、彼が私に告げたたった一言に振り回された。
「まあ、ゆっくり休め」と椎名は車の窓をわざわざ開けてそう言った。暗闇にぼんやりと見える彼はいつも通りだった。先程の息苦しいような感覚もなく、居心地のいい、仕事の合間に会う上司だった。
「部長」
途中まで上がっていたパワーウインドウが私の呼びかけでぴたりと止まった。椎名は首をかしげながら「何だ?」と問うた。
「部長はこれから真っ直ぐお帰りになるんですか?」
「いや」と彼は不思議そうに答え、そして自嘲気味に笑った。「君と同じで仕事が溜まってる」
「明日も仕事ですか?」
「いいや、ようやくの休みだ。・・・どうした、何がいいたい?」
そう何が言いたいのだろう、私は。分かっていることは、先程の息苦しさは決して不快ではなかった事実だ。もっと車に乗っていたかった。くだらないことを彼と話していたかった。
私は落としていた視線を上げて椎名に言った。「もしお時間がおありでしたら」
「うん?」
「少し上がっていきませんか?」
椎名は私の提案に驚いたようで、目を丸くし絶句した。私はそんな反応に戸惑い、言ったことを後悔した。いたたまれなくなり再び視線を落として、自分の靴の汚ればかり眺めた。しばらくの沈黙の後、私の耳に届いたのは「いいのか?」と少しうわずった声だった。私が視線を上げて椎名を見ると、彼は複雑な表情を浮かべながらこちらを見詰めていた。
他人を部屋に入れたことはなかったので少し緊張したが、椎名はドアを開けて靴を脱ぐなり「君の根城だな」と微笑んだ。
「汚いところですみません」と私は頭を下げて、椎名にソファーを勧めた。そして部屋にひとつしかないマグカップにインスタントコーヒーを入れて、彼の目の前に置いた。
「君の分は?」
椎名は楽しそうに部屋の様子をぐるりと見回し、マグカップに焦点をあわせるとそう尋ねた。私が一つしかないのでと言うと、少し考えた後に「頂こう」と言って口を付けた。
「なあ、こっちに座れよ」と椎名はコーヒーを一口飲んだ後、彼の隣のソファーを指差した。
ソファーに大の男が二人も座ると、大層スプリングが下がって椅子がたわむ。何十年も使っているから支えきれないのだ。バランスが崩れて何だか身体が傾いているのを感じた。
椎名の方に。
私はどうしていいのか分からず、自分の家だと言うのにひどく緊張していた。斜めになり寄りかかりそうになるのを、必死に耐え、何でもないフリを装う。自分は何をやっているのか、と頭で嘲笑う。
そんな自分をよそに、椎名は随分くつろいでいるように見えた。コーヒーを美味そうに飲み、ふと壁に掛かっている時計に視線を向けた。そしてテーブルの上のリモコンを取った。
「野球ですか?」
私は勝手にテレビをつけてチャンネルを変えだした椎名に呆れながら言うと、「君は嫌いかもしれないが、ちょっと結果だけでも」
と未練がましくチャンネルを合わせだした。
ぱっと球場が映し出されると、先程まで負けていたチームが逆転していた。もう八回の裏だ。
椎名はコーヒーのマグカップを両手で玩びながら、前かがみになって中継に釘付けになった。私はそんな彼を横目で見ながら、ラジオよりはいくぶん静かな実況を聞いていた。興味がない人間にしてみれば、この単調な映像は眠気を誘うだけだった。私の瞼は段々と重くなって来た。必死に斜めになる体に抵抗してきた意味が分からなくなってくる。頭の先で「もう身体の力を抜いてもいいんじゃないか」と声がした。その一方で「いや、だめだ」という逆のことをいうものもいた。私はだめだと言ったその意識に、どうして駄目なんだ?と問いただしていた。それはその問いに口ごもり、そしてついに私は身体の強張りを解いて、ゆっくりと身体を何かに預けたのだった。
温かい夢を見た。何だか幸せな温かさだった。昔味わったことがあるその温度を私は思い出そうとしてた。
そうだ、これは体温だ・・・。
ゆっくりと目を開けると、私は何かに寄りかかっていた。視線の先には自分の手を握っている大きな色黒の手があった。絡められた指の関節は太くごつごつしていた
「起きたか?」と声がした。
「あ、どうもすみません」と私は彼の肩から顔を離すと、こめかみに痛みが走った。眼鏡をしたまま、うたた寝したためにツルで圧迫されたのだ。
「眼鏡なんかしてるからだ」と私の痛みに気づいたのか、握られていた手がはずれ、椎名は私の眼鏡を持ち上げた。眼鏡がなくとも分かるくらいの距離に彼の顔があった。充血した目をしているのに、泣いているように潤んでいた。ゆっくりと彼の顔が近づいてくるのが分かったが、私の頭は故障したかのように無反応だった。
軽く唇が重ねられ、すぐに離れていった。
近くで私を見つめる椎名の目は何だかいつもと違う表情をしていて「いやだったか」と低い声が尋ねてきた。
私は正直何と言ったらいいか分からなかった。椎名が言う「好き」が本当にそういう「好き」だったのかと少し驚き、どう反応すべきか困った。