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あの頃の松田へ

 夏休みとなった。
 俺達は俄仕込みで塾の夏期コースに参加し、赤点の二人はそれプラス学校での補習授業があった。普通の受験生として通りすぎるだけの夏だと思っていた。
 真夏日で、寝苦しい夜に、その連絡は来た。突然だった。
 真夜中にベルが鳴り、パタパタと階段を下りる母親の足音を聞いたような気がした。
 その時代に携帯などあるはずもなく、子機のある電話ですらあまり普及していなかった。
 しばらくして階段を駆け上がる音。
「ユウ」とノックもなしに、ドアが開いた。
「なに?」
 寝ぼけ声で聞き返した気がする。以前、祖父の具合が悪くてこれくらいに起されたことがあった。今回もそれだろうと思っていた。「またジイさん?」と呟いたはずだ。
「松田君が」
 母親がその名前を夜中に言うのが、気味が悪かった。
 一気に目が覚めた。
「なに?」と俺はベッドから跳ね起きて母親の顔を見た。暗くて顔の表情は分らなかったが、言いよどんだ姿が不気味だった。
「なんだよ、はっきり言えよ!」と俺は叫んでいた。
廊下で父親と妹が何の騒ぎ?とドア元に立った時、母の口ははっきりと伝えた。
「松田君、亡くなったって」
 頭が真っ白になるってこういうことを言うんだと思った。
 ・・・意味が分らなかった。
     *
 それ以後のことは、あまり記憶にない。
 口にもあまり出したくなかったので、話題を避けていた。
 あれから五年が経過した今、中学の同窓会があり小林と橘に久しぶりに会った。酒が入ったことで、否応なしにその話題になった。
 あの時電話をくれたのは小林の母親で、小林は橘に電話したり、担任に電話したりしたらしい。今更そんな事実を知った。
 何で小林がそんなことをしていたのかといえば、夜中に松田とすれ違ったのだそうだ。
「どこで?」
「だから、学校の近くに酒屋あったろ、今はねえけどさー。ほらエロ本の自販機もあったじゃん」
 小林は煙草を買うのに、そこを利用していた。以前は未成年者規制で自販機が夜中に使えないということがなかったので、よく夜中に家を抜け出しては煙草を買う奴がいた。小林もその一人だった。
「俺がエロ本も買おうかなとか思ってたらさ。誰かが自転車で抜けていったんだよ。夜中にだぜ?」
 それで、何気なく目を向けると、自転車には中学の規定ステッカーが張ってあり、後ろ姿が松田によく似てたそうである。
「何でそんとき、声掛けないんだよ!」と俺は十年以上昔のことを蒸し返して本気で怒った。すると小林も小林で、本気で言い返してきた。
「確信ねえし、夜中に凄い勢いで走ってたんだから分るかよ!後で聞いたらあいつの自転車変速つきだったんだぜ、しかも五段階!ムリだろ!」
 よくもそこまで覚えているもんだ。俺は忘れたいという思いが強かったのか、あれ以後のことはあまり記憶に残ってない。たった一つを除いて。
「で、その自転車が学校へ入っていくのが見えて。別にその時は何か起こるとか思わないしさ。俺にしてみれば、貴重な小遣いをエロに費やしていいのかどうかっていうほうが、重要でよ」
「それはいいよ、小林。で?」
 橘が話しを即す。結局橘も真相を積極的に話題にするのを避けていたクチなのだ。俺達はあまりにも松田の近くにいすぎた。今もなお、あいつが死んだとはピンとこない。
「それで、結局エロ本買ってさ。街灯の下でちょっと立ち読みとかしてたわけ。そしたら、どかーんってスゲエ音がしてさ。ほら、車とかが衝突した時みたいな」
「そんな凄い音がしたのか」と橘は少々青くなっていた。
 松田は屋上から飛び降りた。俺が言ったとおり足から飛んだらしい。ところが下は芝生ではなかった。自転車置き場の屋根に彼は落ちたのだった。
 全身打撲の即死だったそうだ。
「あいつのうちさ。何か離婚のことでもめてたらしいぜ」
 小林はビールをあおって、そう締めくくった。
 誰もがそれで悩んで自殺したと思ったらしい。小林も橘も例外ではなく。
 一応警察が俺達に聞き込みに来ていて、彼らは以前俺と松田が死ぬことについて話していたということを証言したらしい。俺はその時なんと応えたか、まるで覚えていないが、 松田は死にたくて飛び降りたのではないということだけは知っていた。
 だって、俺は言ったのだ。きっと死なないと。
 あいつは飛ぶ方向を間違えたのだ。
 街灯がある方向は広い前庭が広がっていたが、校門がまっすぐ見下ろせて地面も煌々と照らされていた。
 だから闇に飛んだに違いない。グラウンド方向ではなかったから、そのまま前庭があると思いこんでいただろう。しかし、駆け足で勢いをつけたために、前庭の奥にある駐輪所の屋根まで届いてしまった。
 あいつは、きっと両親の関心を自分に向けさせたかったのではないかと思う。自分が大怪我さえすれば、少なくとも離婚どころではないだろうと。
 今だから、そう分析できる。

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