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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

欲望の原点は少しの空腹と深い渇望

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 秋本は一つの懸案事項を抱えていた。それは自分が管轄する金融会社のことではなく、本来自分が所属している組組織のことだった。
 彼は指定暴力団「華凰会」の傘下である組に所属している。南田を若頭とする中堅規模の組織だったが、実は彼は組自体に顔を出すことはあまりない。それというのも、彼の兄貴分に当たる北垣が組の許しを得て半独立体系で活動している為である。
 今までの組は、上納金や裏事業で稼ぐしかなかったが、北垣はその体系を変革させた。つまり彼には経営手腕があり、通常のビジネスマンと同じ土俵に立って豪腕を振るったのである。手がけた事業は、不動産業、金融業、人材派遣業と多岐に渡り、経営が波に乗ると彼は自分自身が抜擢した人物に委託する。一部収益金を組の運営資金にまわすことを条件に経営の手綱を譲渡するやり方は、合法であり建設的だった。資金難の組が多い中、北垣のおかげで黒字なったといっても過言ではないのだ。そしてその下で経営手腕を学ぶことになった秋本もまた、北垣の命令一つで多数の会社を任される立場にいた。
 今現在、秋本が管轄しているフラワーコーポレーションという金融会社は、組のフロント企業として長年安定した経営状態を保ち、しかも北垣のお膝元であるので「研修用」とされていた。つまり数年は任されるがいずれは移動することが決定している一時的な場所であった。
 秋本が今懸案しているのはまさにそのことで、彼は他のインテリヤクザとは違い、この会社の椅子に固執していた。否、正確に言えば固執しているのは北垣という兄貴分の存在に対してであった。あの圧倒的な存在感と威圧感に彼は惚れていた。ヤクザとしても経営者としても自分の理想像がそこにあり、だからこそ側にいたかった。
「だからよぉ、俺としては大歓迎なんだよ。お前がそうしてくれた方がな。北垣は今は色ボケときてる。知ってるか?俺との電話の最中にオトコとイチャつきやがって、恋してるとか抜かしやがった」
 南田がせせら笑ったのを電話で聞きながら秋本は今北垣が執心している青年のことを思い出した。
 前髪が長く、青光りするほどの黒い髪の隙間から覗く釣りあがった瞳。常に嘲笑した光を宿して、大人びた物腰の青年。実際のところ、彼は未成年で学生だった。一度だけ秋本は学生服を着た彼を見たことがある。全身真っ黒で、目だけが凛と光った一種独特の雰囲気を持っていた。北垣が気に入るタイプだとは思ったが、まさかあそこまで溺れるとは秋本は思っても見なかった。
 溺れる、まさにその表現が相応しい。
 秋本が運転中に、北垣が後部座席で行為に及んでいたことを思い出す。普段から北垣は節操がないのは分かっていたが、あの日は異常だった。大切な会合があったのにも関わらず欲望に溺れて三十分そのまま走らせるように言ってくるなどいつもなら考えられなかった。普段の彼なら優先順位は必ず仕事だったはずなのに。
「おい、聞いてるか秋本」
 南田のそんな声で我に返る。「はい」
「あの野郎は腑抜けだ。仕事は表面的にはは順調だが、今にヘマしてごっそり穴を開けやがるぜ。オヤジさんも北垣もお前のことを三下だと思ってるがな、俺はお前には期待してるんだ。分かってるな?北垣なんぞに義理立てしてもつまんねぇサラリーマンにしかなれねぇぞ。これは上に立つためのチャンスだ。俺の好意を無駄にするなよ?」
 好意?と秋本は嘲笑した。組の幹部が自分のような下っ端に直接電話してきたと思ったら、売上金のピンハネ要求か。
 南田は根っからのヤクザらしいヤクザだった。暴力が好きでたまらない人種。常に遊ぶ金が欲しいと思っているタイプだ。威張り散らすことで自分のアイデンティティを保っているその姿に何の魅力も感じない。
「つまらんヤクザめ」
 秋本は南田の電話が切れたのを確認すると鼻で笑って受話器を戻した。
 彼は今、本業のビルの三階事務所にいた。表の金融会社の仕事がひと段落すると、彼はいつもこの事務所に戻る。デスク脇にある監視カメラの映像をぼんやり見ながら、腕時計に視線を走らせる。そろそろ配達注文していたコーヒーが届く頃であった。
 カメラに姿は見えないが、配達員は時間に正確だ。そろそろ迎えに行こうと腰を上げる。
いつも通り階段でおりて廊下を歩いていると、そこにいるはずのない人物を見つけて彼は動揺した。
「ドーモ」
 コーヒーポットを右手に提げて、蝶ネクタイをした青年が鼻歌交じりに目の前に立っていた。彼こそが北垣が執心の男であり、頼んでいたコーヒー店の出前持ちだった。しかし。
「なぜ君がここに?」
 秋本は動揺そのままに声に出す。その声質は怒りにも似ていたが、青年はわざと気づいていないような皮肉った笑みを浮かべている。
「なにが?」
「なぜ私が出迎えてないのに君はここにいる?」
 そう、いつもなら出入口で組の下っ端が通行止めにしているはずだった。こんなに簡単に組員以外の人間が入れるわけがないのだ。
「俺は道を開けられたからここにいるだけだよ。いつもアンタが迎えに来なくちゃいけない道理はないんじゃないの?」
 道を開けられただと?と秋本は顔色を変えた。このことは重大な意味を持っていた。つまりこの青年が、ただの出前持ちではなく、北垣が贔屓にしているコーヒー屋の出前持ちだという名前がついたことになる。もちろん、北垣が男色家だと知っている人間にとっては彼が特別であることぐらいすぐに感づくだろう。それはアキレスの踵に他ならない。
 こうなると秋本がとる行動は一つだ。
 青年の持っているコーヒーポットを奪い取ると「君はもう帰りなさい」と代金を手渡した。その行動に青年は一瞬戸惑い首を傾げたが「ドーモ」と礼を言ってズボンのポケットに代金をねじ込み踵を返す。
 そのあっさりとした行動に肩透かしを食らったのは秋本の方で、彼は自分で追い返したのにも関わらず再び青年の背中に声を掛け、疑問を投げかけた。
「君はニイさんに逢っていこうとは思わないのか?」
 聖澤という名の青年はそう問われて少し目を丸くすると、途端に噴出して笑い出した。
「秋本さん、アンタ勘違いしてるよ。俺はね、一度たりともアイツに会いに来たりはしていない。身勝手なヤクザが身勝手に呼び出すものだから仕方なく来てるだけなんだよ?学校に来られても迷惑だしさ。ここで追い返される理由は分からないけど、これを切っ掛けに金輪際縁が切れるとありがたいんだけどね」
「それが君の本音か」
 秋本が目を細めて問いただせば、聖澤の瞳に鋭い光が宿った。「だったら?」
 しばらく二人は睨みあっていた。秋本は聖澤の言葉の真意を探り、青年の方はただこの緊迫した空気に潰されないように四肢に力を入れていた。つまりは聖澤としてはどんなに強がっていてもヤクザは畏怖の対象であり、なるべく関わりたくない相手なのだった。根っからのヤクザ面の北垣もさることながら、このエリート然とした秋元でさえ一皮向けば暴力的で人を傷つけることに何の抵抗もない人種だということは本能で理解していた。
「まあ君の本音はどうであれ」
 秋本は青年の真意を読むのを諦め、口を開いた。「ご希望通り、ニイさんが君に連絡をとるのは今日で最後になりそうだ」
「へぇ?それがホントならありがたいね」
 秋本の探り球にも聖澤は応じず、彼はそう笑うと、踵を返してヒラヒラ馬鹿にしたように手を振って立ち去っていった。秋本はこの軽薄な態度に少々意表をつかれていた。少なくとも北垣が付き合ってきた男たちの中で彼は期間が一番長く、お互い同程度の関心があるものだと思っていたのだが、どうやら熱を上げていたのは北垣の方であるらしい。
 秋本は青年が立ち去ったのを見送ると、コーヒーポットを持ったまま一階の舎弟たちの部屋へと足を進めた。とりあえず出前持ちを勝手に通したのは誰だか突き止めなければならない。
 このビルには金が集まる。一人の男が莫大な金額を動かし、内から外から色々な圧力と関心を受けながら仕事をしているのだ。油断すれば腹の中からでも虫が湧いてあっという間に喰われるというのは想像に難くない。しかし下の連中はその重要性に気づかない。組事務所でもないこのボロビルの警備につくより、粗野で頭が空っぽの兄貴分の尻を追いかける方がカッコイイと思っている。
 さあて。
 秋本はポットを持つ手に力を入れた。彼自身気づいていないことだったが、その目は暴力的に爛々と輝き、口には笑みが浮かんでいた。

 結局秋本がが役員室にいる北垣を訪れたのは、青年が配達に来てから一時間たった頃で、北垣はコーヒーに口を付けるなり眉間に皺を寄せて、ぎろりと秋本を睨み付けた。おそらくいつもより温度が下がっていることへの抗議に違いなかったが、秋本はそのことに対しては弁明せず、青年がノーチェックでビルに入ったという警備の不備について頭を下げた。
「申し訳ありません」
 自分の教育不足ですと頭を下げた秋本に対して北垣は鼻で一笑すると、デスクの上に乱暴に足を乗せた。
「出前持ちが門番に覚えられるとは大した出世じゃねぇか」
 楽しそうに北垣は笑い飛ばした。煙草を咥えて火を点けると、紫煙をくゆらせながら秋本に命令する。その声に淀みや迷いはなかった。
「店のジジイに脅しを掛けて餓鬼をやめさせるように言え。お前の本業だ、俺との係わり合いを悟られないように巧くやれよ」
 はいと秋本は再び頭を下げたが、この北垣の心理が分かりかねた。今までならバイトを転々と変える青年の動向を気に掛ける素振りがあったのだが、今回はそれがない。確かに考えるまでもない選択ではあった。一度顔を覚えられた人間はいくら仕事を変えても無駄である。この組に来れば、たとえ違う名目でも「北垣の特別」という立場に変わりはない。彼の仕事が組の収益の大半を担っている事、華凰会の幹部であることを考えれば、個人の娯楽を天秤にかける余裕など全くないだろうが、しかし。
「なにか言いたそうだな」
 視線を上げれば、北垣は唇を歪めたまま鋭い眼光を秋本に向けていた。それはいつもの冷静な男のものであったが、秋本には信じがたいものがあった。聖澤に対する執着、そんなに諦めがつくのか。
「よろしいのですか?」
「『よろしいのですか?』だって?」
 北垣は秋本の口調を馬鹿にしたように大げさに真似すると、煙草を挟んだ二本の指を突きつけて怒号をあげた。
「てめぇ、のぼせ上るのもいい加減にしろ」
 唸るように響いた低音に、秋本の全身から汗が噴出した。蛇に睨まれた蛙のごとく彼は動けなくなった。一瞬にして、自分の仕掛けた小細工が北垣に露呈していることを理解した。
 そう。青年に名前をつけたのは秋本自身だった。秋本が名前を呼んで毎回迎えにいけば、舎弟たちが聖澤を覚えるのは当然であり、いずれは彼らが大した考えもなく青年を通してしまうことを予測していた。
 南田の言葉が呪いのように彼を侵食していったのも事実であった。ピンハネの要求は論外にしても聖澤のような特別な存在がいるのは秋本にとっても組織にとっても厄介であった。願わくば、北垣には今まで通り不特定多数を相手に性欲を発散してもらうのが一番なのだ。策を講じ聖澤の存在が公になれば、多少あがきはするだろうが、最終的には青年に見切りをつけるだろう予想はついた。男と組織を天秤にかけるほど浅はかな人間ではない。
 巧くいったと思っていた。自分の思い通りに事が進んでいる。北垣のことを想い、支えているのは自分であるのだという驕りが顔に出た。
「俺はてめぇにママになってくれと頼んだ覚えはねぇんだよ。秋本、お前一週間組に戻って便所掃除でもやってるんだな。表の店には長期休暇でも出しておけ。あと、このまずいコーヒーを下げろ。目障りだ」
 北垣が乱暴に机の端を蹴った拍子にデスクの上のカップが倒れ、冷えたコーヒーが秋本の裾にかかって濡れた。その染みを見ながら、秋本は自分の驕りを反省し頭を下げたのだった。
 北垣は、秋本が役員室から出て行ったのを見届けると足を下ろし、思案深げに受話器の上に手を置いた。煙草を灰皿に押し付け、そらで覚えている番号を押す。何回かのコールの後、南田が出た。いつも通りの挨拶を交わし、日課となっている業務報告を終えると、北垣は阿呆のように甲高い声を上げた。
「それにしてもアニキも人が悪いっすよねぇ」
 南田は言われた台詞に覚えがないようで不審そうな声を返す。「なにが?」
「秋本ですよ。一体何を言ってそそのかしたんですか」
「人聞きが悪りぃな。どういうこった?」
 意図は通じたであろうに、南田の声は空々しく明るい。北垣はこの兄貴分の図太さに笑ってしまう。
「アニキ、おとぼけはなしですぜ。何回か直接秋本に電話を掛けていることは分かってるんです。以前深町にもした話、またヤツに持ちかけたんでしょ?得意っすもんね、決まり台詞はなんでしたっけ、『北垣は色ボケだ』ですか」
 数年前にも同じことがあった。北垣が上島という組員と恋仲になっている最中、フラワーコーポレーションを仕切っていた深町にもそういう話が持ち込まれていた。その時の深町の応対はにべもなかったとあの時も南田は言って、笑い話に終始している。
「今回もそれなんすね?そんなことばっかりやってるから誤解されちまうんですよ」
 北垣は笑い声を混ぜながらそう言ったが、目は鋭く座っていた。南田のお定まりの猫なで声を聞きながら、再び煙草に火をつけ、紫煙を吐く。
「いい加減、おいたはよしてくださいや」
 冷たく言い放った北垣の声と同時に乱暴に電話が切られた。その激情ぶりに北垣は失笑した。
「ボンクラどもが」

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