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やわらかな春の陽射しの下、花を見る。 樹上で、美しく綻ぶ花を。 そして、傍らで輝く華を。 それを、幸せだと感じることができればいい。 けれど。 幸せだと感じられなければ? 花は、罪。 うつくしく咲き誇り、晩春のうららかな空を飾る花は、澄みきった瞳と心を奪う。 その罪は、花に潜む、吸いこまれるような闇の彩。 目の前に紅茶をおいても、お礼どころか視線さえ向けないナルに、麻衣は溜息をついた。 リビングのソファに座って、そこにあったファイルを習慣のように広げたナルの漆黒の瞳が、実は何も見てはいないことくらいは分かる。 彼が、少しの間をあけて、隣に座った自分の存在にも、紅茶をおいたことにも気づいていることも、分かる。 その程度のことも読みとれないようでは、「必要」なことの半分も言葉にしない彼のそばにいることはできない。そして、気配に聡い麻衣にとって、慣れたナルの気配を読むことはさほど難しいことではない。 麻衣がそばにいること自体は許容しているけれど、ナルが纏うのは「拒絶」の気配。 ───何が、悪かったんだろう。 唇をかんで、麻衣は目を伏せた。 今日の「花見」は、ナルが歓迎するようなものではない。そんなことは分かり切っている。そもそも、ナルが行く気になったこと自体奇跡的といっても言いすぎではないと思う。けれど、最初はナルは不機嫌ではなかったのだ。 朝、麻衣が予測していたほどナルは不機嫌ではなく、そろそろ行く?という麻衣の誘いにも抵抗することはしなかった。楽しんでいるわけではないのは十分に分かったが、それでも、嫌がってはいなかったのだ。 ナルも楽しみにしていてくれたのかな、と思えるほど単純にはなれなかったし、多分すでに割り切っていたか、そうでなくても諦めていたのだろうという予測もついたけれど、それでも、ナルにとっては仕事の邪魔でしかないはずの状況をいやがられていないと感じるのは嬉しかった。 しかし、楽しむ、というところまではいかなくても、状況を許容していたナルの空気は、散策の後半から変わっていった。いつものように無表情ではあったが、嬉しそうな麻衣の表情を見守っていたどこかやわらかな空気は次第に硬化した。瞳に確かにあった筈のやわらかな彩は消えて、ただ、氷のような────麻衣には滅多に向けられないほどに冷たい無表情が、無情な仮面のように彼を覆った。 美しい花を見る時間が蓄積されるほど、漆黒の瞳は凪いで、凪いで──────何も映さない湖面のように、凍り付いて。 思い当たるきっかけなど、なに一つなかったのに。 気に障ることをした覚えもないし、彼の拒絶の対象は自分ではないけれど。 呼びかけにさえ応えてくれないのは、滅多にない。 ひどく切なくて、胸が痛くて─────にじみそうになった涙を抑えて。 「ナル……」 麻衣はもう一度、彼の名を呼んだ。 + + + 自分の名を呼んだ、澄んだ声が僅かに潤んで震えたことに、気づいた。 ごく、僅かな、注意していなければ気づかないような微かな震えに気づいてしまったことに。 無視しているかのように見せかけながら、それほどに強く、傍らにあるやわらかな気配に心が集中していることに。 そして、自分の感情さえ、まともに制御できないということに。 ───内心だけで自嘲の笑みを浮かべる。 彼女には、責はない。 無視することは、ただ、無意味に麻衣を傷つけるだけだ。 十分に分かっていて、それでも彼女の顔を見れない。 無視ではなく、ただ─────麻衣の顔を、琥珀色に澄んだ瞳を、見たくなかった。 ただ、ねがうように、求めるように、花に奪われた瞳がどれほど輝いていたか、彼女は、おそらく知らないだろう。 やわらかく澄んだ瞳が自分を映せば、琥珀色の淡い色彩は、彼女の見つめる漆黒を映して色濃く染まる。 桜花と、穏やかな空を映して輝いたときとは対照的に、穏やかに、やわらかく。 自分を映しては、澄んだ瞳は輝かない。 ─────輝かない。 その認識は、強く心を縛る激しい焦燥を喚起した。 闇色の瞳が、沈む。暗く、昏く───────。 麻衣の瞳が、自分の闇を映して翳るとしたら、それは許されないと思う。彼女の輝きを自分が穢すのだとしたら、それは許容できないと思う。 それは確かに本心なのに─────同時に、抑えがたい喜びを、感じる。 自分を映して輝かないなら、輝く必要などないのだと。 他の何かを映して、輝くことは許せない。 そして、それが赦せないから─────琥珀色の澄んだ瞳が、何も映さなければいいと、希う。 昏い希いは、無視しがたい引力を宿して、魅惑的に、心を、侵蝕した。 「ナル」 再び、呼びかけが、空気を揺らす。 + + + 「ナル」 僅かに、強さを増した呼びかけ。 触れることはできずに、ただ瞳だけが縋るように白皙の横顔を見上げる。 「………ナル」 再び、祈るように、名前を呼ぶ声に、ようやく漆黒の瞳が返った。 やっと合った視線。ようやく正面から漆黒の瞳を捉えることができて、麻衣は一瞬息をのんで───それから口を開いた。 けれど、麻衣の意思が言葉になることはなかった。 いきなり腕を捕まれたと感じた瞬間に、視界が回転して麻衣は一瞬何が起こったのか理解できずに呆然と真上にある漆黒の瞳を見つめた。 数秒の間をおいて、自分がソファの上に引き倒されたのだと理解する。 抗議しようにも、抵抗しようにも─────凪いだ漆黒の瞳に潜む翳りに、言葉も、動きも封じられて、動くことさえできない。 ナルは無言のまま、冷えた指先でやわらかな髪に触れた。 冷たい唇を、麻衣の額と、瞼に触れさせて、髪に触れていた指がゆっくりと額をたどり、唇の離れた瞼のふくらみをなぞる。 二度、三度と触れたところで指の力が強くなり────麻衣が華奢な体をびくりと震わせた。 声こそ上げなかったが、力加減を誤ったというのでは説明が付かないほど強い圧迫と目に感じた痛みに、心が冷える。 指先に込められた害意に、半ば信じられない想いで、麻衣はナルを見上げた。 麻衣は、自分に向けられた害意には、ひどく敏感だ。 見上げてくる、驚愕の色を浮かべて、痛みに歪んだ一つだけの琥珀の瞳を受け止めれば、確かに心は痛んだが、指の力は緩められない。 「ナ、ナル?」 「逃げるか?」 「え?」 平坦な声が、応えた。 まったく予想外の反応だったのか、麻衣は驚いたように目を瞠る。 痛みは変わらないけれど───呆然とした表情は、消える。 目の前の漆黒の瞳が、自分以上に傷ついている気がして、麻衣は唇を噛んだ。 「逃げるか?」 ナルは全く同じ台詞を、同じ語調で繰り返す。 「どうして、逃げるの?………何をしたいの?」 「訊いてどうする?」 自嘲の混じった言葉。 至近距離の白皙に美貌を、琥珀色の真摯な瞳が見上げる。 片目の痛みは変わらないはずだ。強い圧迫が続いているのだから、その苦痛も相当大きいはずだ。 けれど、麻衣の瞳はその痛みを映さない。 それは、傷つけられることはないと麻衣が信じているからなのか。 「いいよ」 「………麻衣?」 「ナルが、本当に望むなら、いいよ」 「内容すら知らずに請け合うのはやめておくんだな」 「安請け合いしたつもりはないよ」 きっぱりと言い切った麻衣に、ナルは秀麗な唇に皮肉な笑みを刻んだ。 「おまえの目を、望んでも?」 「あたしの目?」 「そう」 「逃げるか?」 「逃げない」 即座に断言して、麻衣は無表情の美貌に笑みを向けた。掴まれていない方の手を伸ばして、至近距離の白皙の頬に触れる。 そして、麻衣は小さく笑った。 「できればやめて欲しいけれど、でも、ナルが望むならいいよ」 「やめて欲しいんだろう?」 「………だって、目がなかったらナル、見れないでしょ」 「そういう問題なのか?」 「そういう問題なの」 くすりと笑った麻衣に────ナルは苦笑した。麻衣の瞼を強く圧迫していた指先から、力が抜ける。 痛みが消えたことよりも、彼が表情をゆるめたのは散策の途中以来で。 麻衣は安堵して、微笑った。 「……よかった………」 溜息混じりの澄んだ声。 言葉には出されなくても麻衣が何を指して良かったと言っているのかは、伝わる。 その内容に苦笑して、ナルは麻衣の瞼に触れていた手を離した。 手の後を追うように、瞼にキスを落とす。 痛めた、その謝罪のように。 「ナル?」 呼びかけを封じるように、触れたキスの甘さは、確かに心を占める愛しさの、証。 引き寄せて、抱きしめて、その視界を永遠に自分だけで埋めてしまえばいい。 ────できるはずもないことを本気で望んでいる自分の心の愚かしさに、内心だけで溜息をついて、向けた害意にもかかわらず自分にゆだねられたやわらかな温もりを、抱き締めた。 根底に燻る残酷な衝動は、消えることなくただ奥底に潜んで、再び現れる時を、待つ。 闇は深く、深く─────明けることなどあり得ぬように、昏く、沈んだ。 |
暴走はちょっと控えめ………でも猫は剥げかけ(滅)嫌われないといいな、と遠い目をしたくなったりします………(号泣) あんまりにあんまりなので、甘いおまけを付けてみました。(余計なことを………)こちらです → ☆ 2001.4.14 HP初掲載
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