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pick your own  〜後編〜



 いつもよりも数時間早く、けれどいつものように資料を抱えて帰宅して、やはりいつものように挨拶もまともに交わさないまま自室に向かった息子を見送って、マーティンとルエラは顔を見合わせて溜息をついた。
 気遣うような視線を、向かいに座って紅茶のカップを傾けた少女に向ける。

「ごめんなさいね、マイ」
「え?」
 申し訳なさそうに謝罪されて、麻衣は驚いたようにルエラを見返した。東洋人にしては色素の薄い澄んだ瞳を大きく瞠って、軽く首を傾げる。
「なんですか?」
「あの子、日本でもああなの?」
「え?」
「挨拶もまともにしないで、資料に埋もれて研究ばかり」
「はい」
「………。たまに早く帰ってきたときくらい少しは話をすればいいのに………」

 溜息混じりの言葉に麻衣はくすりと笑って、カップを置いて立ち上がる。

「お茶の途中で失礼ですけど、席を外して良いですか?」
「構わないけれどどうしたの?突然」
「ナルにお茶を淹れたいんです。どうせ何も食べてないし、お茶と、何か食べるものを適当に持っていっても良いですか?」
「それは良い考えだけど………ナルは嫌がらない?」
「そんなことを気にしていたら彼の相手なんてできませんから」

 肩をすくめて笑った麻衣にルエラは苦笑して、頷く。
 
「確かにそうね」
「そうなんです。スープか何か簡単に作って持っていきます」
「お願いね、マイ。………スープストックは冷蔵庫にあるし、野菜も好きに使ってね。パンもね。今日のベリーもあるし」
「はい。それじゃちょっと失礼します」

 軽く会釈して華奢な身体を翻した彼女を、穏やかな声が呼び止める。

「マイ」
「マーティン?」

 名前を呼ばれて、動きを止めてくるりと振り返った少女を優しい瞳で見やって、マーティンは微笑する。

「別に我々のことは気にしなくていいよ」
「はい?」
「これ以上私たちが君を独占しているとあの子に恨まれそうだからね」

 言われた言葉の内容を理解した瞬間に琥珀色の瞳を瞠って、麻衣はくすくす笑いながらもう一度会釈して、リビングを出ていった。

 華奢な姿は視界から消えて、やわらかな気配の残滓だけが残る。


  + +


「ナル」
 微かなノックの音と同時に、重い木製の扉が開いて、抑えた、けれど澄んだ声が名前を呼ぶ。

 机に向かってキーボードを叩いていた漆黒の青年は、それでも一応視線だけは滑らせて───軽く眉を寄せた。静かに扉を閉めた麻衣の手にある小振りのポットを載せたトレイには、スープディッシュとパンがのっているのが見える。
 彼はそれには敢えて触れずに、表情のない視線を少女に向けた。

「返事くらい待ったらどうだ?」
「返事なんてしてくれたことないじゃんか」
 冷たい声音にさらりと切り返して、麻衣はくすりと笑った。
 音を立てずに歩み寄って、手に持っていたトレイを机の端におく。僅かに揺れた磁器の立てる金属質の音が、空間を満たす静寂に響いた。

「お茶、持ってきたけど。飲む?」
「ああ。…………お茶は良いが、それは」
「どうせ何も食べてないんでしょ?」
 にっこりと、綺麗に笑った麻衣の瞳は無視を許さない。

 ナルが自ら食事時間をとって何かをきちんと口にするとは考えられない。
 考えられないと言うよりはあり得ないという方が妥当かも、と内心で溜息をついた彼女の思考を肯定するように、白皙の美貌はうごかないまま応えない。

「………」
「スープとパン。ちょっとでも良いから食べて。それからこれは作りたてのラズベリージャム」
「ジャム?」
「そう、ルエラのお手製。美味しかったよ?」

 にっこり笑った彼女の表情に、ナルは整いすぎた眉を寄せた。
 彼が甘いものを好まないことを麻衣は知っているはずで、だから彼女は基本的には甘いものを勧めたりはしない。
 僅かに険を増した漆黒の瞳に、麻衣は苦笑して首を傾げた。

「別に、無理に食べてとは言わないよ。そこまで無謀じゃないし」
「自分が言っていることに一貫性がないとは思わないのか?」
「……今日ね、これ、摘みに行ったの」

 ルエラが最初の朝に嬉々として話していた内容を思い出して、ナルは軽く息をついた。
 いちごやラズベリー、ブラックベリーといったベリー類を栽培している農園で、必要な分だけ勝手に採らせて、それをあとで量って代金を支払う"Pick Your Own"のシステムは一般的だ。イギリス人はそれで一年分のジャムを作って保存する。
 ベリー摘みに行きましょう、と言っていたルエラは、麻衣をそれに連れて行ったのだろう。

「その成果だと?」
「そう。………単に見せたかっただけ」
 生のを持ってきても良かったんだけど、と付け加えて麻衣は笑う。
「ラズベリーが木になってるのを近くで見たのは初めてかも」
「日本ではほとんどないからな」
「うん。……なんか面白かったよ」
「………ジーンもそう言ってたな」
「ジーンが?」
「力加減が面白いとか。………僕には理解できないが」
「やったことないの?」
「子どもの頃連れて行かれたが」
「やらなかったの?」
「僕がそんなことをするとでも?」
 冷えた声で問い返されて、けれど麻衣は慌てず騒がずにっこり笑って首を傾げた。
「そうなの?………仕事がなかったらナルも来れたのにね」
「残念だったな」

 おざなりに受け流して、ナルは紅茶を片手に視線をモニタ画面に戻した。
 凪いだ瞳は揺らぎも見せず、画面に並ぶ1バイト文字に集中する。

 集中の方向が固定されたことに気付いて、麻衣は眉根を寄せて咎めるように白皙を睨んだ。

「ちょっと!ナル、スープ!」
「うるさい」
「うるさいじゃないでしょ!ちゃんと食べなきゃ駄目!」
 
 応えは返らず、それを予測していた麻衣はナルの背後に回って、トレイに置いたスプーンを手にした。
 ことさらに綺麗ににっこり笑ってみせる────背後なのだから当然見えはしないだろうが、気配に聡い彼には麻衣の心境は十分に伝わるはずだ。
「………自力で食べないなら食べさせるよ?」

 くすくす笑いながら口にした言葉は半ば冗談だが立派な脅迫だ。
 完全に本気でもないが完全に冗談でもない以上、ナルは受け流せない。

「別に全部食べなくて良いから、ね?」

 溜息をついた彼ににっこり笑って、麻衣はスプーンを手渡した。


  + +


 RRRRR....!
 突然響いた電話の呼び出し音に、会話が途切れた。
 ルエラは夫の顔に視線を滑らせてからゆっくりと受話器を取り上げる。

「Hello?」
『ルエラ!こんばんは、まどかです。遅くにごめんなさい』

 電話の向こうに聞き慣れた女性の声を聞いて、綺麗な紫の瞳が和んだ。

「まどか。こんばんは、どうしたの?」
『ええ。ナルは帰ってます?』
「帰ってるわ。随分早く帰ってきたと思ったら、書類を抱えて部屋に籠もっているの」

 困ったように、けれど苦笑混じりの声に、一瞬の空白をおいてあきれかえった溜息が返った。その、まどかには珍しい反応に、ルエラは僅かに首を傾げる。

「まどか?」
『………時々、彼が何考えてるのか全然分からなくなるわ……』
「あの子が何かしたの?まどか」
 ルエラは僅かに眉をひそめた。
『会議をけって帰ったそうです。……まあ、ね。会議に彼が出ないのはもうみんな諦めてるし今更構わないけれど、研究室に籠もらないで帰ったのに、家に帰るなり自室で仕事って。何考えてるのかしら』

 確かに会議に出席すればその分研究のための時間は削ることになるが、それがどうしても嫌なら会議だけをけって研究室に籠もればいい。そんな真似は本来許されることではないが、いつものことだ。周囲はとうの昔に諦めている。
 それなのに帰ったのなら、会議に出たくないと言うのは帰宅するための口実で、仕事よりも家に帰ることを優先したのだと思ったのに、帰るなり自室に籠もって作業では、何のために帰宅したのか分からない。

 受話器の向こうの深い溜息。
 まどかの疲れた表情が見えるような気がして、ルエラは苦笑した。

「相変わらず迷惑ばかりかけてしまってごめんなさいね、まどか。………でも、大丈夫だと思うわ」
『大丈夫?』
「ええ。マイが軽い食事とお茶を持っていってくれたのだけれど、彼女が戻ってこないから」

 養母である自分では、部屋に入ることを拒まれることはなくても、運んだお茶をテーブルにおいてすぐにでてくるのが精一杯だ。言葉であからさまに示すことはなくても邪魔だと思っていることは彼の纏う空気で分かってしまう。
 同じように邪魔だと言われても、それでも話の出来る、それを許される少女の存在は、自分たちにとって明るい驚きで。

『戻ってこないんですか?』
「ええ。だから、大丈夫よ」
 やわらかに韻く、電話を介して微笑みさえ伝わる優しい声。
 まどかは軽く目を瞠って、笑う。

『………そうですね』
「ええ。………ナルを呼べばいいのだけれど」
 ルエラは笑って言葉を接いだ。
「あの子たち、こちらにきて初めてまともに二人きりでいるから邪魔したくなくて。伝言があれば伝えるわ」
『そう。だから今日は早く帰ったのだと思って。もちろん邪魔するつもりはありませんから』
 くすくす笑って答えて、まどかの口調が柔らかな笑みを含んだものから僅かに硬質なものに、変化する。
『伝言は……教授にも伝えたいから、替わってもらえますか?』
「ええ、すぐ替わるわね。ちょっと待ってて。……それじゃ、おやすみなさい、まどか」
『おやすみなさい、ルエラ。………ありがとう』

 ルエラは微笑んで、穏やかに微笑して自分を見ていた夫に受話器を手渡した。


  + +


 静かな部屋に響く、キーボードを叩く乾いた音と、トーンを抑えた、けれど澄んだ声。
 ベッドに座って静かに話をする少女の琥珀色の瞳と、無表情のままパソコンに向かう美貌の青年の漆黒の瞳と。その視線は交わらず、視界も重ならないまま空間を共有する。
 空気を時折揺らしていた少女の声が途切れても均衡は崩れずに、静寂は持続する。
 その平衡状態を破ったのは、高く澄んだ声ではなく、抑えた低い声だった。

「………人はパンだけでは生きられないんだそうだ。聖書によれば」
「は?」
 凪いだ漆黒の瞳と平坦な低い声。
 表情の変化は全くなく瞳もモニタに据えられたまま、相変わらず聞いているようには見えない。けれど紡がれた言葉は話題に関連性がない上に異質に過ぎて、麻衣は眼を瞬いた。
 宗教哲学者が宗教に詳しいのは当然としても、ナルが普通に口にするにはそぐわない。
「どういう意味?」
「食べろ食べろとうるさいからな」
「仕方ないでしょ?食べなきゃ生きていけないのも事実なんだからね」
 表情のない冷えた声に応えて、可憐な容貌に苦笑が掠めた。僅かに首を傾げて、言葉を接ぐ。
「それだけじゃ生きていけないのも解るけど」

 人はパンだけでは生きられない。
 空腹を満たし、身体を支えるものだけでは生きられない。
 心の渇きを癒す術を持たず、精神の拠を見失った人が、「人」として生きていくことは不可能で。だからこそキリストは身体の糧だけではなく心の糧が必要だと説いた。
 キリスト教に限らず宗教の提示する「心の糧」は、大抵「信仰」。
 
 必要なものは。
 正確にどのくらいあるかは知らないが、一年分のジャムに必要なだけのベリー。
 毎日生きていく栄養をとるための、食事。
 そして。

 欲しいものと、客観的に必要なものは重ならない。けれど、生きていくために客観的に必要でないからと言って本当に必要でない訳ではない。どうしても欲しいものは、容易に手に入らないものほど、その存在という事実だけで心を支える糧となる。

「ナルは、何が、欲しい?」
「麻衣は?」
「あたし?」
「そう」

 密やかな問いかけは、空気に溶けて確実に互いに届く。かたかたと響くキーの音は途切れない。
 麻衣は音を立てないまま立ち上がって、モニタに向かったまま動かないナルの背後に立った。空間を隔てて伝わる気配と体温は慣れたもので、確かにうまれた緊張は不安を呼ばない。

 麻衣は、彼の手の動きを妨げないように注意して、背後から抱きついた。
 
 キーボードを叩く手が、止まる。
 胸裡を占めた、驚きよりも強い説明不能の感情は、それでも表面には顕さない。白皙の美貌は氷のように凪いだまま────ただ、ごく近い体温と、首もとに触れる吐息だけを感じとる。

「連れてきてくれて、ありがとう」

 耳元で囁いた声に、ナルは美しい闇色の瞳を僅かに眇めた。
 エアチケットを取って彼女を呼んだのは養母と上司。麻衣の希望ではなく、どちらかと言えば強引に連れてきたのはナル自身で、けれど結局何の相手もしてやれていないのが現実だ。最初から分かっていたこととはいえ、麻衣が自分に感謝するようなことは何もないはずだった。

「麻衣?」
「そばに居れて嬉しいから。これ以上欲しいものなんてない」
「殆どそばには居ないと思うが」
「でも、こうして手を伸ばせば届くでしょ?」
 手を伸ばせば、ぬくもりに触れる。滅多に自分に向けられることはなくても、白皙の美貌も漆黒の瞳も見れる。名前を呼べば、答えが返ることは少なくても、その声は確実に届く。
「それだけで十分だから」
 磁器のような白皙の頬に、やわらかな栗色の髪とあたたかい吐息が触れる。
 抱きついた細い指先に一瞬だけ力がこもって───そして、ふわりと離れた。

 触れていた体温の名残だけが残って、空気に溶ける。

「それじゃもう行くから。仕事の邪魔してごめん」

 切り替えるように口調を変えた麻衣はトレイを持ち上げようとして。
 腕を取られてバランスを崩した。

「え!?」

 倒れ込んできた華奢な身体を抱き留めて、状況が飲み込めずに呆然と見上げてくる麻衣に、漆黒の青年は完璧な笑みを作って見せた。

「自分で話を振っておいて人の話を聞かないのか?」
「は?」
「随分と記憶力が良いんだな」
 冷えた声は皮肉を多分に含んで、裏腹にしなやかな指先はひどく優しく頬に触れる。

 色違いの視線は、絡み合ってすでに外せない。

「聞いたら、答えてくれるの?」
「さあ」
「無責任」
「心外だな」

 麻衣はわずかに視線を強めて、そしてふわりと微笑った。

「ナルは、何が、欲しい?」

 繰り返された問いかけに答えは返さずにナルは僅かに苦笑して、澄んだ瞳の上に唇を落とした。
 優しいキスで両の瞼を閉じさせて、吐息を重ねる。

 欲しいものは、直接触れる吐息とぬくもり。
 そばに居ることを何よりも望んでいるのは自分の方なのだと知っているから、口に出さなくても伝わることも知っている。

 想いは心の淵に沈めて、思考は共有しても重なることはないままに。
 ただ、触れていくぬくもりだけを求めて。


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 思いっきり遅れてすみませんでした(汗)
何でこんなことになったのかよく分からないんですが(おい)暑い所為か疲れているようで……(気候のせいにするな自分)
ええと、私は春夏にヨーロッパに行ったことがありませんし、イギリスに行ったのも大分前、しかもロンドンのみなので、内容についてはおぼろげな記憶と留学中の知人の話に基づいております。詳しい方、妙な内容があっても笑って見逃してやってください(そして大間違いがあったら指摘してやってください/汗)……すみません、修行します……(泣)
2001.7.26 HP初掲載
 
 
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