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成田空港から飛び立った飛行機が、ロンドン近郊に位置するヒースロー空港に降り立つのは12時間半後だということになっている。気象条件によって多少の差はあるものの、直行便の滞空時間は大きな気流の乱れにでも遭わない限り公称通りだろう。けれど、離陸直前に席につけばいいと言うものでもなく、着陸直後に降りることができるわけでもない。 その結果、拘束される時間は15時間に近くなる。 同行者のお陰で席のランクは良いものの、半日以上行動の殆どを制限されれば疲れるのは当然で、麻衣は溜息をついた。 降下体制に入ったためシートベルトを確認するようにと注意を促して回っているスチュワーデスを茫洋と眺めていても、その瞳には力が入らない。急な渡航準備で疲労が蓄積している上に強いられた緊張状態のせいで、結局機内で眠ることはできなくて、疲れはピークに達していた。 隣席の漆黒の青年が眠ることもしないで延々と本のページを捲っているのには、さすがと感心するよりも当然だと納得してしまう。怜悧な漆黒の瞳は傍らに座る自分に向けられることもなく、かわした会話も最小限必要なことだけだ。 今更腹も立たないどころか疑問も持たない自分が多少情けなくはあったが、無駄な期待だけをしていちいち落胆するような自虐趣味は持ち合わせていない。 疲れたな、と内心だけで呟いて、麻衣は軽く目を伏せた。 全身の倦怠感はひどく重いのに、軋むような精神の疲労も限界に近いのに、意識だけが冴えていては眠れるはずもなく、ただ疲れを倍加させるだけだ。 「結局眠らなかったのか?」 「ナル?」 思わず漏れた溜息に被さるように前触れもなく横から低い声がかかって、麻衣は驚いて目を瞠った。傍らを見上げても、希有に美しい漆黒の瞳は本に向けられたまま動かない。 「気付いてたの?」 「気付かないとでも思っていたのか?」 「ずっと本読んでるんだから、気付くとは思わないでしょ、普通」 「僕の神経はそれほど鈍くは出来ていないもので」 皮肉混じりにそれだけ言って、ナルはページ数を確認すると読んでいた本をぱたりと閉じた。 英語で流れるアナウンスと急速な降下が、着陸が近いことを知らせている。 「着いたらさっさと休むことだな」 「寝る時間までまたないと時差ボケになるじゃんか」 「放っておいてもお前は寝るだろう。二日もあれば治る」 さらりと返されて、麻衣はう、と答えにつまった。 確かに過去一度も時差ボケになったことがないのは確かだから、ナルの指摘は間違いではない。 実際、軽い時差ボケを放置するより疲れを残す方が影響は大きいだろう。長期間というほどではなくても、滞在期間は決して短くはないから、勢いと思い込みで身体を騙すわけにはいかない。 「………ヒースローからどれくらいだっけ?」 琥珀色の視線が一瞬宙を泳いで、話題を転換する。 話題にはとくには拘泥せず、変わらず凪いだ、抑制した声が応えた。 「2時間半というところだな。混んでいなければ」 「混む?………って、車?」 「そう。マーティンが迎えにきているはずだ」 「マーティンが?………お仕事は?」 「講義はもう終わっている」 ふうん、と軽く首を傾げた麻衣の髪が、突然かかった重力にふわりと拡がる。がくん、と身体にかかった反動と突然大きくなったエンジン音に眉根を寄せて、何か言いかけた彼女は口を噤んだ。 どれほど巧みに操縦しても避けられない衝撃とともに滑走路に滑り込んだ機体は本来の重さを取り戻す。徐々にスピードが落ちて、ジェットエンジンの重低音が少しずつ収まっていく。 着陸が成功した旨を告げる機長のアナウンスが機内に再生されるざわめきに紛れて、耳に届く前に漠然と消えた。 + 長距離を移動した直後の二人、とくに麻衣の疲れを気遣って遅めにセッティングされた朝食の席にマーティンは居なかったが、代わりのようにまどかがいて会話は弾んだ。ナルは完全に距離を置いて空気さえ遮蔽していたが、最初から会話に参加することなど誰一人期待してはいない。とりあえずそこにいるだけでも上出来なのだということは3人とも知っている。 「色々計画を立ててあるのよ?ガーデンにも行きたいし、ベリー摘みにも行きましょう?いちごにはちょっと遅いかもしれないけれどまだ採れると思うし、ラズベリーやブラックベリーは今ちょうど良い季節なのよ。あなたは嫌いじゃない?もしかすると食べ慣れていないかしら?マイ」 「大丈夫、大好きです」 「良かったわ!ベリーを摘んできたらね、ジャムにするのよ。一緒に作りましょうね。そうそう、ちょっと遅いのだけど、ローズガーデンもまだ綺麗なのですって。車で一時間くらいなのだけれど、素敵なところがあるのよ。そこも是非行きたいわ」 うきうきと楽しそうに話すルエラの紫の瞳はきらきら踊っている。 本当に楽しみに待っていてくれたのだと、それがまっすぐに伝わってきて、麻衣は僅かに目を伏せた。 自分を歓迎してくれる分だけ、彼女は普段寂しいのだと判る。 この女性からたった一人残った息子を奪っているのは自分たちなのだと。 ナル自身が本当に帰国を望めば自分たちがどれほど引き留めようと無駄だろうが、そう思ってしまう心を打ち消すことは出来ない。 胸裡を掠めた想いは綺麗に隠して、麻衣は笑って頷く。 「ありがとうございます、ルエラ」 「麻衣ちゃん!私も一緒に行っていいわよね〜?」 「当たり前です、まどかさん」 後ろから抱き締められて、麻衣は吹き出した。 「まどか。遊びに行くのは勝手だが、仕事は」 成り行きでか故意にか。 会話の流れの中でほぼ完全に存在を無視されていた漆黒の青年の低く抑制した声が、綺麗な笑い声を遮る。その冷然とした韻きは、その冷たさほどには空気に水を差すことはなかった。 一番短い麻衣でさえもう4年以上。つきあいはいい加減長いのだ。今更そんなことに動じるはずもない。 「あら、ナル。あなたは気にしなくて良いのよ?思う存分資料に埋まってきて?」 誰も止めないから、遭難しない程度にね、と付け加えて、悪戯っぽい褐色の瞳が煌めいた。 憂いもない笑顔をぱっと咲かせて、そういった彼女の言葉に悪意はない。 彼女は言葉に悪意を含ませるようなひとではない。但し、悪意がないからといって含みがないわけではないし、どちらかというと可愛らしい類の容貌に騙されて御しやすいと思うのが大いなる間違いだと言うことは、彼女の同僚や友人たちの共通認識ではあるのだが。 闇色の瞳に僅かに剣呑な色を上らせて、漆黒を纏う美貌の青年が上司に視線を向けた。 「まどか」 「なあに?ナル」 自分で呼んでおいて答えもしないナルに、まどかはことさら明るくにっこり笑ってみせる。 「別に心配しないでいいわよ。誰もあなたに来てくれなんて言わないから。………というより、邪魔しないでちょうだい。一緒になったのは単なる便宜上なんだから。ねえ、ルエラ?」 「ええそうよ。たまたま時期が重なっただけ。マイを呼んだのはまどかと私ですからね」 ルエラまでがくすくす笑いながらまどかに同調して、それまで傍観していた麻衣は苦笑して口を挟んだ。 「まどかさん、ルエラ……」 「あら麻衣ちゃん、冗談よ?」 「それは判ってますけど」 困ったように軽く首を傾げた麻衣の髪がさらさらと頬にかかって、澄んだ視線が傍らの白皙を掠めて正面の二人の女性を捉える。 まどかとルエラの言葉が冗談なことは分かっているし、別に特に気に障ったわけでもない。だいたい、この程度の軽口なら、安原や滝川相手に自分だって言う。そして、ルエラが提案したような行動にナルが同行しないことは火を見るより明らかだし、もしも彼が同行するなどと言ったら、きっとこの季節に雪が降る。 そう思っていても、自分自身が参加して彼を疎外することは。 まして「この家」であからさまに無視してみせることは。 たとえ冗談だと断るまでもなくはっきりしていてもどうしても容れられなかった。 ─────ジーンに怒られちゃうから、といったら、ナルは怒るかな。 そんな発想が頭に浮かんで、麻衣はちいさく苦笑して、今度はまっすぐ漆黒の瞳を見上げる。 「そうよね、麻衣ちゃんはナルがいた方がいいわよねえ。………ナル、あなたも来る?」 「…………僕はそんなに暇じゃない」 「まるで私が暇みたいな言い方ね?」 「違うのか?」 「失礼な。暇じゃないわよ?あなたの帰国で調整にどんなに苦労したと思ってるの?」 「それは僕のせいじゃないな。……その、まどかが調整した予定のせいで僕は多忙なんだが」 「仕方ないでしょう?一応努力はしたのよ、これでも」 怖いほど整った白皙に浮かんだ皮肉な笑みに、まどかは肩をすくめた。 確かにぎっちりつまった予定は彼女自身が調整したものだし、その殆どがナルの嫌う雑事なことは確かだ。けれど、彼ほどのVIPが滅多に帰国しないのでは、たまの帰国で雑事や人との会合が増えるのはどちらかといえば不可抗力だ。 「まどかさん、ナルの予定、そんなにすごいんですか?」 「分刻みだな」 口を挟んだ麻衣に答えたのはまどかではなかった。 怜悧な瞳は無表情のまま、麻衣を掠めもせずまどかに向かう。 「まどか。予定の詳細をまだ聞いていない」 「ああ、そうね。………それもあって朝から来たのよ、私」 「それなら私たちは席を外すわね?マイ、ちょっと見せたいものがあるの。一緒に来てくれる?」 「あ。はい、ルエラ」 席を立ったルエラは優しい笑みを少女に向けて。 かたりと立ち上がった麻衣は軽く会釈を残して、ルエラに促されるままリビングを出ていった。 二人を見送ってからまどかが示した予定は、ほぼ予想通りの品揃えといえた。 見事なまでに分刻みでぎっしりつまった日程は、反論の余地を許さない。一つ狂えばおそらく最終日まで全部狂う。 抵抗できないことは分かっていたからコメントはしない。 白皙は相変わらず無表情でも彼が不機嫌なことは明白で、まどかは首をすくめた。 「本当にこれで精一杯だったのよ」 「………」 「気にしなくても、麻衣ちゃんはルエラと私が責任をもってエスコートするから、ね?」 「無理に呼んだ責任を取るのは当然だろう」 漆黒の瞳が冷えた。 限りなく氷温にちかく、自分に据えられた視線に、まどかは軽く息をついた。 彼自身の帰国はともかく、麻衣を巻き込んだことに彼が少なからず苛立っているのは分かっている。 「………麻衣ちゃんまで呼んだことを怒ってるの?」 「さあ」 「…………悪かったわよ。私もそんなつもりはなかったんだけど」 「つもりもなく呼んだとでも?麻衣の旅費がSPRから出ていることに僕が気付かないとでも思っていたのか?」 理由もなく、決して安くはない旅費を出すはずはない。しかも麻衣は正規の研究員ではない。 抑えた声は事実を指摘していて、彼の上司は溜息をついて彼の推測を肯定した。 「………彼女に、お偉方が興味を持っているのは確かだわ。けれど今回はあくまで、デイヴィス博士を補佐する研究員という資格なのよ」 「体の良い口実だな」 切り捨てた凄絶なまでの美貌が、氷点を遙かに下回る笑みを形作った。トーンは変わらないまま、声に潜む気配だけが氷の刃のような鋭利さを閃かせて。 「僕は麻衣を実験台に提供する気はないんだが?」 「分かってるわよ。私もそれを許すつもりはないわ。責任持って阻止するから、心配しないで。そのことについてあなたが何か手を回す必要はないから」 ナルが表立って手を回せば、麻衣の存在は悪目立ちしてしまう。どれほど秘密裏に行動しようとしていても、"デイヴィス博士"は良くも悪くも注目を惹く存在なのだ。 きっぱりと言い切ったまどかの瞳から常の笑みは消えている。冷静なその表情は有能な彼女のもう一つの顔で、まどかが責任を持つと言ったことは、たとえどんな手段を使っても必ず実行することを、直属の部下でもあるナルはよく知っていた。 「………恃んでも?」 「もちろん。………そういう意味でもエスコートはきっちりするから」 「分かった」 「あ。その代わりといってはなんだけど?」 「………何だ?」 まどかの表情が、纏う雰囲気が、がらりと変わった。 にっこりと笑顔を咲かせて、部下に最後通牒を突きつける。響く、楽しげな声は抵抗することを許さない。 「仕事はしっかりしてね?あなたのフォローまでは出来ないから」 自分のことは自分で面倒を見ろ、ということだ。 彼女の言葉は、いつもなら期待できる諸々の雑事に対するサポートが全く期待できないことを意味している。それがどんなに煩雑なものか考えるだけで嫌になっても、それがどんなに不本意でも。 彼に反論の余地も抵抗する権利もない。 漆黒の美貌を纏う天才博士は、軽く溜息をつくことで了承の意を示した。 |
count1500hit、東西紀さまに捧げますv 頂いたリクエストは「ナルと麻衣が一緒にイギリスに行く話」。 ……間違ってはいないけどだから何、という展開になりつつありますが(汗)というか何で長くなってるんでしょう、これ……(滅)とりあえず前編だけアップします。後編は出来れば来週くらいには何とか(大汗)今しばらくお待ち下さいませv 少しでも楽しんで頂けることを祈って。 2001.7.13 HP初掲載
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