「………お花見、行きたいな」
すべての発端は、呟くように漏れた、この一言だった。
「お花見、行きたいな」
返事を期待するどころか、声をかけているつもりがあるのかどうかさえ分からない呟きが耳に入って、資料に集中していたはずのナルは麻衣の顔に一応は視線を向けた。
「ナル?」
どちらかといえば、反応が返ったこと自体に驚いた麻衣に、ナルは呆れたような視線を一瞬投げただけで、再び手元の資料に精神の焦点を戻す。
「……ナル?」
麻衣は、ためらいがちにではあったが問いを重ねた。
普段なら、仕事中の彼の邪魔をするような真似はしないが、ここはオフィスのソファで。
本当に邪魔されたくなかったら、所長室に戻るよね、と言い訳のように内心で呟く。
花見の実行を期待して、と言うよりは反応が返るのが嬉しくて思わず重ねた呼びかけに、再び漆黒の視線が返る。ただ、その瞳は何の表情も映さない。
「花見?」
「………駄目?」
「行けばいい」
どうぞお好きに。
麻衣は苦笑する。
そういうことを言ってる訳じゃないんだけどな、と思っても、口には出さない。
元々期待していたわけではなかったから別にショックでもない。
むしろ、一緒に行こうなどと言われたら、綺麗に晴れ渡った穏やかな春の空を見上げるだろう。────雨どころか雹が降る。
「それより、お茶を」
思考を遮る怜悧な声に、麻衣は肩をすくめて、華奢な体をくるりと翻した。
「分かった、すぐ淹れるね。何か希望は?」
「別に」
麻衣が希望を聞いても、返るのは同じ言葉だけだ。少なくともオフィスでは、ナルはリクエストをしたことはない。
うなずいて、麻衣は綺麗な笑顔をデスクワーク中の同僚に向けた。
「安原さんもいかがですか?」
綺麗に澄んだ少女の声に振り返り、安原は笑って会釈した。
「ありがとうございます、それじゃ、ついでみたいですから僕もお願いします」
「安原さんの希望は?」
「所長と同じのでいいですよ。もしくは、谷山さんが淹れてくれるなら何でも」
にっこり笑顔での言葉に、麻衣はあははと軽く笑ってうなずく。
「はい♪すぐ淹れてきますね」
軽やかな少女の姿は、澄んだ余韻を残して給湯室に滑り込んだ。
麻衣の姿が給湯室に消えるのを見送ってから、安原は給湯室から美貌の上司へ、視線の先を転換させた。
「所長」
呼びかけに間を置かず、白皙の美貌が返る。
───集中の度合いはあまり高くないらしい。
「お花見、行かれたらいかがですか?行きたがってますよ?谷山さん」
「別に、行くことを止めた覚えはありませんが?」
さらり、と玲瓏と響く声が、返る。
安原は一瞬だけ苦笑を深め、そしてにっこりと笑って見せた。
「やだな。誰がそんなことを言ってるんです?お二人でどうぞ」
「なぜ、僕が行かなければいけないのか理解に苦しみますが?」
「………谷山さんを、一人で行かせる気ですか?」
珍しく、安原の声から表情が消えて、それを感じ取ったナルは溜息をついた。
麻衣は、孤独を嫌う。何よりも、一人になることをいやがる。
────それは、にぎやかな、幸せな空気の満ちる場所ならなおさらのこと。
彼はそのことを、おそらくはほかの誰よりもよく知っていたし、彼女が孤独を嫌う理由もまた、理解していた。
「………それなら二人でどうぞ」
僅かな間をおいて返った平坦な声に、安原は苦笑した。
「やめてくださいよ。僕じゃ意味がないでしょう。………それに、あなたをおいてでは、きっと谷山さんは行こうとしませんよ」
「………安原さん。だとすればあなたが気にすることではないでしょう」
漆黒の美貌は、動かない。
おれる気がないらしいことを見て取って、安原は説得手法を変えることにした。
「そうなんですけどね。僕としては可愛い同僚の健康が心配でして」
可愛い、に若干のアクセントがかかっていて、ナルは眉を顰めた。
「…………」
「たまには、外に出て陽に当たることの医学的な重要性は、当然ご存じでしょう?」
「………それが?」
「僕なんかは、別に毎日フルタイムでこちらに来ている訳じゃないですし、休日もありますからね。外に出る機会もあるんですけど、谷山さんはそうじゃないですから」
ほぼ毎日、大学の授業がなければ完全フルタイムでオフィスに詰めているし、休日は休日で、外に出ることなど望むべくもないナルのそばにいる麻衣が、まともに陽に当たる機会は。
残念ながら、限りなくゼロに等しい。
「それに、たまには外で風に当たるのも大切だと思うんですよね。せっかく、いい季節なんですし」
「………それで、何が言いたいんですか?安原さん」
溜息混じりのナルの言葉に、安原は笑った。
論理で責めれば、ナルは無駄に対抗することはしない。
意地を張る、とか、駄々をこねる、という行動とは完全に無縁のナルを説得するのは、意外にたやすいのだ。こちらの言い分が理にかなっていさえすればいい。
ナル自身のことであれば「必要ない」の一言で切り捨てられるが、それが他人の────こと、麻衣のことになれば、ナルは切り捨てることができない。
「たまには、連れ出してあげてもいいんじゃないですか?ちょうど、依頼もないようですし。今日はもうお昼すぎてますから、明日の午前中からでも。平日ですからすいてますよ、きっと」
春休みは軒並み終わりましたから子供も少ないでしょうしね。
相変わらずの笑顔で付け加えると、ナルが溜息をついて────安原は、上司の説得にほぼ成功したことを確信する。
それでも白皙の美貌は何の感情も映さず、ただ秀麗な唇が、動いた。響く声の色も、変わらない。
「花見には遅いのでは?」
「ソメイヨシノの花は、確かにもう散ってますけど。今の時期は八重桜が綺麗ですよ。新宿御苑なんてどうです?そんなに遠くないですし、それなりの整備はされてますよ」
笑みを崩さずだめ押しをはかった安原は、やわらかい気配を感じて横を見上げる。
「何?新宿御苑がどうしたの?」
ポットを一つとカップを三客載せたトレイをもって戻ってきた麻衣は、安原の最後のせりふだけを耳に捉えたらしかった。
聞きながら、センターテーブルにトレイをおろし、そばにひざまずいてポットからティーコゼーをはずして、丁寧に紅茶を注ぐ。
「はい、ナル」
紅茶を満たしたティーカップをまずナルの前においた麻衣は、立ったままの安原にも笑顔を向けた。
「どうぞ、安原さん」
「ありがとうございます、谷山さん」
軽く会釈してから、安原は笑みを深くして、言葉を継いだ。
「良かったですね、谷山さん」
「はい?安原さん?」
訳が分からないまま麻衣が軽く首を傾げたその横で、ナルがまた溜息をつく。
最大効果を上げるだめ押し、という自分の判断が間違っていなかったことを知って安原は内心苦笑した。
「所長が、お花見に連れて行ってくれるそうですよ」
麻衣が、安原の言葉を理解するのにかかった時間はたっぷり5秒。
琥珀色の瞳を、瞬く。
一度、二度、三度。………そして。
「は!?」
何を言われたのかが分かっても、内容が信じられない、という以前にまず自分の耳が信じられなくて、麻衣は思わず聞き返した。
彼女の反応に笑いながら、安原は繰り返す。
「ですから、お花見。谷山さん、さっき行きたいって言ったじゃないですか」
「………そりゃ、言いましたけど……………」
半ば無意識のうちに呆然と応えて、麻衣は表情を一切変えていない白皙に視線を移す。
「ナル……?ど、どうしたの?」
「別に」
「………ほんとに、連れてってくれるの?」
「麻衣がそうしたければ」
「………一緒に行ってくれるの?」
ナルは溜息をついて、手元のファイルをぱたりと閉じて立ち上がった。
漆黒の怜悧な視線が、まっすぐに麻衣に向かう。
「行きたいのか、行きたくないのか、はっきりしろ」
「………行きたいけど、でも…………いいの?」
「同じことを何度も繰り返すのは嫌いなんだが?」
「知ってるけど、それは」
「それで?」
これ以上は聞く気はない。
そんなニュアンスを載せた声に、麻衣はびくりと反応して、一瞬だけ落とした視線を凪いだ漆黒の瞳に向けた。
「………行きたい。一緒に行って欲しい」
澄んだ声の韻きは、痛みすら孕んで、真摯で───ナルは白皙に苦笑を閃かせる。
「わかった」
応えた声は常と変わらず冷たく響いて、空気に、溶けた。
+ + + + +
心のどこかで、半ば本気で季節はずれの集中豪雨を心配していた麻衣の危惧は、当然のように杞憂に終わった。
朝、いつもより少しだけ早く目が覚めて、カーテンを開けて。
そこに広がっていた澄んだ空とうららかな春の陽射しに、それだけで嬉しくなる。
空に浮かぶのは綿毛のような純白の雲だけで、これなら夕方まで雨が降ることはないだろう。
昨夜から天気予報で自分でも呆れるほど確認した情報を、ようやく信用することにして、可憐な容貌に笑みが浮かんだ。
麻衣はくるりと身を翻す。ふわりと宙を舞って頬にかかったやわらかな髪を細い指先だけで払って、クローゼットに向かう。
やるべきことは沢山あるのだ、急がなくてはならない。
まずは、身支度。
そして、彼の家に行って、朝食の支度をして一緒に摂って、きっと不機嫌だろう漆黒の青年を光あふれる外に連れ出さなければならない。
とりあえず、彼が不機嫌なのは仕方がない。仕事中毒な彼にとっては、「忠実で有能な」部下二人に言い渡された一日休暇は不本意以外の何物でもないだろう。
けれど。
よく考えれば、ナルと二人きりで、しかも完全に仕事抜きで散策のために出かけるのだ。
仕事がらみか、何かのついででもない限りは、二度目があるとは思えない。
そしてその上に、なんと言っても、次があるかどうかさえ不透明な「デート」なのだ。
だから楽しまなければ勿体ないし、できることなら、ナルにも楽しんで欲しい。
そしてそのためには、麻衣自身が彼の「不機嫌」の砦を攻略しなければならないのだ。
「戦闘開始、かな」
麻衣は小さく呟いて、くすりと笑った。
*
ソメイヨシノが満開の頃には、花見客でいっぱいだったであろう園内は、今は人もそれほど多くはない。
平日の真っ昼間という時間帯であることを考えれば、当然のことかもしれないが。
それでも、花見時とは比較にならないほど人は少なくても、花が盛りの公園はそれ相応に賑やかだ。
ソメイヨシノはもう散りきって、透明な晩春の光の中に柔らかな若葉をのばしはじめていたが、八重咲きのサトザクラは今が盛りに美しく咲き誇っている。柔和な桜花と、赤みを帯びた桜の若葉と、そして辺りを支配する鮮やかな新緑が、綺麗なコントラストを生み出していた。柔らかな花びらをこぼれるように咲かせる八重桜の下では丸く刈り込まれたツツジのドームが色鮮やかに染まりはじめているし、優しい色合いのハナカイドウやモクレンの花も今が盛り。そこここの灌木を飾る小さな黄色い花も、目に楽しい。
桜の多いエリアや芝生公園の方に足を向ければ賑やかでも、散策路を択べば行き交う人もまばらになる。
鳥の声が、澄み切った空気に響く。その声と、時折響く人声のほかは、静かだ。
光と、風と、花と。
そして、緑。
コートの必要のない気温と、適度に乾いた空気が心地よく肌に触れる。
ただゆっくりと、晩春の空気の中を、よりにもよってナルと二人で何の目的もなくゆっくり歩いているという今の状況が、どうしようもないほど非現実的で、実感を欠いていて───麻衣は思わず、存在を確かめるように手を伸ばした。
華奢な手が、それでもどこか遠慮がちに黒いシャツに触れても、彼女が僅かに危惧していたような拒絶は返らない。
麻衣はほっと息をついて、ふわりと微笑って隣を歩くナルを見上げる。
珍しく思えるほど澄んだ空と光る風を背景にした、漆黒を纏う美貌の青年は───確かに絵にはなるのだが、とんでもない違和感が厳然と存在していて、彼女は内心苦笑した。
やっぱり、どうして連れ出せたのか、どうして来てくれる気になったのか、永遠の謎かもしれない。
見上げる琥珀色の瞳に、ちらりと漆黒の瞳が返る。
「麻衣?」
名前を呼ばれて、麻衣は驚いたように軽く目を瞬いて、笑った。明るい表情が、光る風に輝く。
「東京の空も、捨てたもんじゃないな、と思って」
「それが?」
「ナルは、そう思わない?」
「ロンドンよりはマシだな」
「そうなの?」
「さあ」
実のところ空の色になど関心を持ったことはない。空は空でしかなく、形容するべき対象だと思ったこともない。ロンドンの、明るいとは言いがたい空の断片的な印象はあるが、それが恒常的なものであると断言する根拠はないし、時間のせいなのか、季節のせいなのか、それとも気候のせいなのかすら記憶にない。回数を数えることすらばかばかしいほど通ったロンドンの空の中で、その空だけが印象に残っているのは、いまはもういない片割れのせいなのだろうが、その経緯は覚えていないし、理由にも興味はない。
ナルは、無責任な返答を帰して、何それ、と見上げてくる麻衣の瞳を受け止めた。
一瞬だけ、色違いの視線が絡み合う。
見上げる麻衣の瞳が、光を透かして空を映す。
その色が、いつもより淡く見えることに気づいてナルが内心目を瞠ったとき、視線が、ほどけた。
可憐な容貌が、スイッチでも切り替えたように、ぱっと輝く。
「麻衣?」
麻衣は、相変わらず平坦に、怜悧に韻く自分を呼ぶ声をすり抜けて、漆黒の青年の向こうに見つけた美しい花の元に駆け寄った。
今が盛りの花のもと、華奢な、けれど輝かしい華が、咲く。
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