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ある朝の。




 いつのまにか、気配が、在る。
 いつの間にか慣れた日常がある。

 
 睡眠時間は多分短い。
 けれど、スクリーン越しに射し込む朝の陽光と、ベッドサイドに置かれた時計のカチリ、という音だけで予定どおりに目を醒ます。アラームが鳴るのを待つ必要はない。ほんのわずかに目を眇めて、そして彼は起き上がった。
 乱れた漆黒の髪が、さらりと白皙にかかる。

 ベッドから滑りおりて、フローリングに素足のまま立つ。
 光を乳白色に乱反射していたロールスクリーンをあげて、眼下に広がる動き出した街を一瞥すると、彼は踵をかえした。朝日が直接射し込んできて、眩しいほどの光のラインを切り取る。
 いつものように鍛錬のメニューをこなして、ボタンを外しながら部屋を出る。パウダールーム奥の洗濯機に脱いだものを放り込んで、バスルームに入った。ただ汗を洗い流すために、ざっと頭からシャワーを浴びる。
 綺麗にたたんでかけてあるバスタオルを取って無造作に全身の水気を拭い、濃紺のバスローブを羽織って寝室に戻る。そのままウォークインクロゼットに入って適当に着替えを選び、ベッドの上にバスローブを放って身支度を整える。

 作業は機械的で、思考はほんのわずかを残して現実から乖離している。
 今日のタイムテーブルをたどり、やるべきことをピックアップして当てはめていく。邪魔が入ることもたまにはあるが、だいたいにおいて彼の予定は予定どおり遂行される。
 バスルームに入る時に、確認するように気付いた慣れた気配とわずかな音を思考に留めて、シャツの最後のボタンをとめた。

 寝室を出てリビングに入ると、キッチンから見慣れた姿が現れる。
 それは、見計らっているのだろう。いつもタイミングを違えることはない。
 カジュアルすぎないきれいめのスタイルに、エプロンをかけた格好で、彼女の瞳はまっすぐに彼をとらえる。
「あ、おはよ、ナル」
 にこりと笑って、そうして麻衣は持っていた皿をダイニングテーブルに置いた。
「ご飯の支度できてるよ。こっち来て」

 トーストにサラダ、プレーンオムレツ、それに紅茶。
 パンの種類が変わったり、スープがついたりすることはあっても、このメニューはほとんど毎日変わらない。
 朝というのは一日のうちで最も時間の区切りがつけやすくて、食事ということに重きを置かない彼に確実に栄養を摂らせる絶好のチャンスでもある。その点で、麻衣は朝食について絶対に妥協をしないし、ナル自身も特に抵抗はしない。

 上質の磁器の触れあう金属質な音と、やわらかな沈黙と、あたたかな湯気。
 それだけが、明るい光に溢れるダイニングに満ちる。

 食器が空になるのを見計らって、麻衣は立ち上がった。
 お湯を火にかけ、食器類をシンクに下げて、あたためたポットにあたらしい茶葉をいれる。
 沸いたお湯をポットに注いで砂時計をくるんと返して、砂が落ちていくのをじっと見つめる。

 華奢な体がキッチンを動き回るのを、ほとんど足音を立てない無駄のない動作を、闇色の瞳が見るともなく追っていく。片手にしていたカップを戻すのとほぼ同時に、麻衣が熱いポットを持ってきて、新しいお茶をいれた。
 今度はポットをことんとテーブルにおいて、彼女はすとんと椅子に腰を下ろす。
 一口だけお茶を飲んで、麻衣は目の前の漆黒の瞳をまっすぐに見つめた。
 にこりと笑って、口を開く。
「今日の予定は?」
「いつもと同じ」
「外出の予定とかは?」
「特にない」
 ふうん、とうなずいて、彼女は軽く首を傾げる。
 細い髪がわずかにこぼれると、光に透けて金色に光る。
「麻衣は」
 問い返されて、麻衣は軽く目を瞬いた。
「あたし?あたしも予定通り。……講義終わったら行く。から……オフィスにつくのは四時半くらいになると思うけど。多分」
 言葉を切って、問いを重ねる。
「何かあったっけ?」
「今のところは特にない」
「よね。何かあったら連絡してください、所長」
 麻衣はくすりと笑ってそう言って、それから付け加えた。
「あとね。安原さんもそのくらいの出勤のはず、だよ。リンさんは朝からだよね」
「いや。リンは今日は大使館」
「一日中?」
「昼過ぎには戻るはずだが」
 そっか、と受け流しかけた麻衣は、ぴたりと動きを止める。
「……ちょっとまって。てことはお昼、ナルだけ?」
「そういうことになるな」
「うわ」
 がっくりと肩を落とした麻衣は、ため息をついた。
「駄目じゃん」
「何が」
「お昼ご飯!絶望的」
「いまさらだろう」
「開き直るな」
 諦めを多分に含んだ瞳で睨み付けて、リンさんにメール入れとこ、とほとんど聞こえよがしのいたずらっぽい瞳で、呟く。
 それは聞こえなかった振りをして、ナルは立ち上がった。
「僕はそろそろ行くが?」
 言われて時計に視線を走らせる。
「うん。そうだね」
「お前は?」
「今日は時間あるから、洗濯して適当に片付けものしてから行く。何かしておくことある?」
「いや。……どうせ夜も来るんだろう」
「うん」
 綺麗に笑って、頷く。

 優雅な動作で立ち上がったナルは、寝室に向かう。
 追いかけてきた麻衣に、ベッドの上のタオルとバスローブを押し付けて、彼はテーブルに置いてあったネクタイを手に取った。麻衣はそれを見ずに寝室を出てパウダールームに向かう。時間があるとはいっても、余裕があるわけではない。
 洗濯機に抱えたタオルを、それから脇に置いてあったランドリーバッグから自分の洗濯物を入れた。洗剤をセットして、スイッチを押す。洗濯槽が回りはじめたのを確認してから、よし、とうなずいて、くるりと身を翻した。
 パウダールームを出ると、玄関で靴を履きかけたナルと合流する。
 うん、ナイスタイミング、と呟いて、彼女はにこりと笑って手を振った。
「いってらっしゃい。それじゃオフィスでね」
「ああ」

 応える低い声と一緒に、音もなく扉が閉まる。
 それを見届けて、麻衣は踵を返した。明るいリビングに滑り込む。
「さて、と。食器洗ってとりあえずはベッドの片づけ!」
 気合いをいれるように。
 言葉を口に乗せて、白い顔に笑みを浮かべた。

 
 朝の日常は繰り返されて、そうしてそれが当たり前になる。
 いつのまにかそこにある気配は、在ることが当然になる。
 
 それでも。
 朝の光を浴びてきらきら輝く硝子のような日常が、どれほど貴重で壊れやすいか知っているから。
 何気ないいつもの会話や、当たり前のようにそばにあるあなたの気配。
 それが、何より大切になる。

 だから、その日常が日常であるように祈りをこめる。




 count9999hit、野上萌さまに捧げますv
 リクエストは「ナル×麻衣で、日常。」でした。ご、ごめんなさい(平謝り)甘くない甘くない……ナル×麻衣なことは確かにしても。うう(泣)それにしても「日常」って本当に書くの難しかったです。ごめんね、萌ちゃん(涙)
 というわけで(?)おまけがちょこっとありますのでどうぞよろしくです。別バージョンです(爆)→ そして別の朝。
2003.6.29 HP初掲載
 
 
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