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プロローグ




 小さな、世界。
 広い外界と比べれば小さすぎる、けれど、自分にとっては世界の全て。

 澄んだちいさな硝子玉のような世界は美しく無垢で。
 そして、脆い。

 弱い衝撃でも、ひびが入って。
 こなごなに、砕けて。

 散る。


    †


 そこにあったものが何なのか。

 名誉なのか、不名誉なのか。
 幸せなのか、不幸せなのか。
 良いことなのか、悪いことなのか。
 それさえ判らなかった。
 
 解っていたことはただひとつ、やわらかに微笑む姉に、もう二度と、決して会えないだろうということ。
 それだけは絶対確実に確かなことだと、幼い子どもは知っていた。



 裏山に登り、大きな木の根元、小さな社のそばに、びーどろの珠を埋める。姉の白い手がさらさらとこぼすように渡していったそれが、高価なものであることは知っていたけれど、それでも、ひとつ残らず土の中へ。
 自分でも何のためにそんなことをしようとしているかは分からなかった。
 姉が自分に残していったのはこれだけだということも、しかも美しく珍しいその色とりどりの珠が、彼女を連れ去った男が姉に贈ったものだと言うことも問題ではなかった。姉が家を出たのはもう五年以上も前で、それを贈られたときに瞳を輝かせて見入ったのは自分なのだから。

 まだ小さかった手のひらをころころと伝って溢れたつめたい感触を、鮮明におぼえている。

 あのときも今も。
 あの男を―――領主を恨む想いはなかった。
 彼は、自分の目から見ても、誠心誠意を尽くしたのだ。彼の身分を考えれば姉の意志など無視して奪い去ることもできたのに、時間をかけて彼女を説得した。
 
 だから姉は、自分から、この家を出たのだ。
 まだ幼かった自分には、領主の正室である高貴な姫君のための「姉がわりの話し相手」として呼ばれたのだと、みずから説明して。
 もちろんそれは嘘ではなかっただろう。けれども、真実でもなかった。疑いようもなく、彼女は領主の側室として望まれたのだ。そして確実に、姉自身もそれを理解していただろう。

 ―――だから、領主さまを恨んではいないし、憎むつもりもない。

 それは、何度も自分の心に確かめたことだった。


 けれど。

 あの日に、姉が去った日に―――もしかしたら、領主が自分の家を初めて訪れたその日を境に、彼の小さな宇宙にはひびが入った。
 無垢でやさしかったちいさな世界は、ぱりんぱりんと透き通った音を立てて壊れて、砕けて散った。


 びーどろの珠は、あのころの優しい世界の象徴なのかもしれない。
 珍しい透明な硝子玉に目を輝かせて姉にねだった頃、彼の平和な小宇宙が完全だと信じていた頃の。

 それをこうして埋めて、恨みのためでは決してなくて、幼い想いと決別するために、自分はこれを埋めているのかもしれない。

 形ばかりの元服の儀式を明日に控えて、大人になるために、小さな優しい、自分だけの宇宙ではなくもっと広く大きな世界を見るために。


 澄んだびーどろの珠に、幼い心を封じて――――。



    †


「あ!」
 そう、叫んで。
 見つけたのが正確にはいつだったか、良く憶えている子はいなかった。
 子どもの時間観念などそんなものだ。
 いつもの遊び場だから、余計に記憶に残らなかったのかもしれない。いつものように、思い思いに好きなことをしていたから。


「なあに?」
「何か、あった?」
 口々に、自分の遊びを中断して集まってくる子もいれば、視線だけよこす子もいる。自分のことに集中して、気付かない子もいる。

「うん。掘ってたら、ほら!」

 興奮気味に、土ごとすくい上げた女の子の小さな手には、ビー玉が一杯になっていた。
 見慣れたものより一回り大きい、土に汚れたそれは、けれど奥の澄んだ輝きを隠さない。

「ほんとだ、ビー玉、だよね」
「でも、おっきいよ」
「洗ってみようよ!こっからなら小屋の洗い場が近いよ!」
「怒られないかな」
「ビー玉洗うくらい平気だよ!水しか使わないし、手を洗うのに使っても良いってこの前おじさんが言ってた」
「じゃあ大丈夫だよね。行こう!」
 発見者の女の子が、ガラスの珠をハンカチに包んで大事に抱えて、子どもの足でもさほど時間のかからない距離にある洗い場にたどり着く。
 全員の注視を浴びながら、彼女は慎重に水を出して、ひとつずつ丁寧にガラス玉を洗っていく。多少は傷ついてはいたけれど、思っていたよりずっと綺麗なガラスの輝きがあらわれて、子どもたちは目を輝かせた。
 こんな「発掘品」は、子どもたちにとっては宝物だ。

「うわあ。きれい」
「ほんとだ。ビー玉ならうちにもあるけど、こんなの見たことないよ」
「どうしよう、これ?」

 一人の呟きに、全員の視線が少女に集まった。

「え?あたしが決めるの?……でも、土掘って見つけただけだし、ここのおじさんもおかあさんたちも、何も言わないよね。ビー玉だもん」
「うん、ビー玉だもんな」
 もっと大事そうなものなら、報告しなければいけないと思うけれど、ビー玉なら普通の遊び道具だ。

「………かず、足りるし。一個ずつしちゃおっか。記念!」
 くすりと笑った女の子の笑みに、子どもたちの笑いが重なる。
「うん、そうしようよ。………何色がいいかな」
「でも、そんなに色は種類ないよ」
 淡い青と濃い青、そして緑と赤。
 数のわりに色の種類は少ない。けれど普通のビー玉もそんなに種類があるわけではないから、不思議なことでもない。
「そうだね。でもきれいな色ー!」
 早々に淡い青の珠を手にした年長の少女が、それを掲げて光に透かした。

 青い珠は、何年ぶりなのか、子どもたちには量り知るすべもない陽光を浴びて、きらりときらめく。

 全員で分けても、ガラス玉は十数個余った。それは元のところに戻そうと全員一致で決めて、掘り出した女の子が元の場所に丁寧に埋めた。
 そのころには夕暮れが近くて、皆いつものように家路について、新しい小さな宝物を、自分の「宝箱」に納めたのだ。


 その夜から、子供たちは、夢を見た。
 それぞれ持ち帰ったガラス玉の色に溶けた夢は、明瞭ではない、けれど小さくて平和な、絶対的に安心できる、壊されてはならない世界。

 別に悪夢というわけでもない、あまりはっきりしたものではないけれど印象に深く残る夢。

 ほとんどの子どもは何の気なしに母親相手に口にして、親同士の話の中で夢が繋がる。けれど、悪夢ではなかったから深刻な話題にはならない。
 ただ、子どもらが同じ夢を見るなんて珍しいこともあるもんだ、と。 

 そして、小さな噂が広まった。
 「小さな集落の、ほとんどの子どもが、同じ夢を見た」


    †


 びーどろの珠が、転がる。
 小さな世界が転がって落ちて、こなごなに、砕けた。





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