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発端は、ひどく些細なことだったはずだ。 たまたま、調査途中に聞いたうわさ話の舞台が帰り道になければ、そして、多少興味を持った研究馬鹿な天才博士が立ち寄ってみようなどと思わなければ、おそらく関わりのないまま終わったはずの。 立ち寄った、宿など一軒もない小さな集落で、やはり偶然に出会った親切な寺の住職が宿坊を宿泊所として提供してくれても、多分そのまま簡単に資料をあたって終わるはずだった。本格的な調査に入るつもりは、おそらく彼にもなかっただろう。 一瞬の、些細な気まぐれが、すべてを変える。 † かつん、と落ちて。 板敷きの床をころころと転がって、止まった。 その、透明な硝子の珠を、呆然と見つめる。 それを持っていた筈の、しなやかに綺麗な指先も、漆黒の姿も影も―――一瞬にして、目の前で、消えた。 どのくらいの時間か、立ちつくして。 くずおれるように座り込んでかすかに震える腕を伸ばした彼女を、はっと我に返った同僚が強い口調で制止する。 「谷山さん!」 言葉だけでは間に合わないと思ったのか、彼はとっさに華奢な身体を背後から抱きかかえて引き離した。 「リン、さん?」 腕のなかでふり返った彼女の顔に、表情はなかった。ただ琥珀色の瞳が凍り付いたまま長身の同僚の隻眼を見上げる。 リンは息をついて、そのまま、ゆっくりと口を開いた。 自分にも存在する動揺が彼女に伝わらないように細心の注意を払って、努めて冷静に、言葉を選ぶ。 「谷山さん、それに触っては駄目です。危険です」 「どうして」 「ナルが何をしようとしたか憶えてますね?」 「……サイコメトリ」 「あなたにも、ナルほど強くないにしても、同じ能力があります。二の舞になる可能性があります。危険です」 ゆっくりした、けれど強い口調で繰り返す。 鏡面のようだった麻衣の瞳が、ゆっくりと彩を取り戻していく。それを確認してからリンは抱えていた身体を離した。彼女の瞳を強い視線で見下ろす。 「酷なことを言うようですが、落ち着いてください、谷山さん。今、この状況で、あなたにまで消えられるわけにはいきません」 先行していた調査では、めずらしくいつものメンバー全員を揃えていた。そのあと、同行していたメンバーのうち真砂子とジョンは、二人とも用事があるから、と所長の寄り道にはつき合わず、先に東京に戻っている。戻る前、一応霊視した真砂子は、特に気になる霊はいないと言い残していった。 そして、安原はナルに頼まれた調査をしに、綾子と滝川は買い出しと運転手を兼ねて同行している。 ここにいるのはリンと麻衣だけで、だからこそ、不必要な混乱は避けられた。 「…………リンさん」 肩に置かれたままの力強い手に、細い手が縋るように重なる。ふ、と俯いた麻衣の表情は、淡い色の髪に隠されて、長身のリンからは見えない。 「何でしょう」 「ナルは…………大丈夫、だよね」 細い声が、僅かに震えた。 彼女が何より保証を求めているのは分かっても、リンには無責任な言葉を返すことはできない。無責任なひとときの慰めを口にしても無意味であることは分かっているし、そして彼女は、この方面の知識を持たない「普通の女性」ではないし、依頼人でもないのだ。 「………分かりません。吸いこまれた、としか、私には」 みえませんでした、と続いた言葉。 麻衣は、唇を噛んだ。 「……リンさんも、そう感じた、てことは………多分そういうこと、だよね」 「無責任な確言はできませんが、そう見えました。谷山さんもそう感じましたか」 「うん」 「………安原さんが帰ってこられたら、多少の情報は期待できるでしょう。「これ」が、どういうものなのかさえ、わからないのですから」 リンの視線の先にあるのは、床に転がったままの硝子玉。 「………だから、良く分からないものを安易にサイコメトリはするなって、言ったのに」 あの馬鹿。 麻衣は唇を噛みしめて、おもわずこぼれそうになった涙を飲み込んだ。泣いている暇は、ない。 絶望に心は染めない。強いのは怒りの彩。 大丈夫だと安請け合いした大馬鹿な「天才博士」には、ことが片付いてから文句を言えばいい。この怒りを、ぶつけられればいい。 そう、しなければならない。何がなんでも。 同僚に頼っていた手を離して、拳を握りしめる。 「ええ。……連れ戻したら、是非そう言い聞かせて下さい。私が言っても聞かないものですから」 「うん、そうする。あたしが言って効力あるかどうかは分からないけど!」 言って、麻衣はようやく顔を上げた。 やわらかに淡い髪が、ふわりと散る。 表情を完全に取り戻した小作りの貌に、澄んだ瞳の奥に、今にも泣き出しそうに不安な心を量れても、今は敢えて無視をするしかない。 リンは視線だけで麻衣を制すると、板敷きの床に転がったままだった硝子玉を慎重に取り上げて、紙に包んだ。「札」を書くのに使うための白紙はそれなりに浄化してあるものだから、そのまま置いておくより安全だろう。 「紙越しでも、あなたは絶対に触らないでください」 釘をさされて、麻衣は一瞬だけ躊躇ってから頷く。 「………一応は、了解。でも、もしどうしてもそうしなければならなくなったら、やるけど」 「…………それはあなたの判断ですから、私が止める権利を持つことではありません。ですが、その時は必ず相談してください」 「うん、分かってる」 にこりと笑った麻衣にかすかな微笑を返して、リンはわずかに口調を変えた。 「―――ところで谷山さん、ナルが調査をはじめた。ということは、この調査は継続しています。そうでなくても、ナルが消えている以上、やめるわけにもいきません」 「そうだよね。でも、どうしよう……?」 ナルが調査の初期に使いものにならなくなったことはあるが、これほど訳が分からないまま彼に消えられるのは初めてだった。本格調査をするつもりは最初からなかったから、打ち合わせは不十分だし、簡単な調査もはじめたばかりで、予備資料もデータもない。そして、調査に関する方針も指示も何ひとつ提示されていない。 彼が、サイコメトリで何を見たのかも、分からない。 状況は良くはないし、絶望的なまでに情報はない。 けれど、最悪ではないのだ。 悲観するのは早すぎるし、簡単に諦めるつもりもない。 「ナルがもどるまで、あなたが調査の責任者を代行してください、谷山さん。この村での対外的には、私か安原さんが何とかした方が良いと思いますが」 「え?でもあたしじゃなくてリンさんの方が」 「調査員というポイントでは、確かに私もあなたも同じ立場ですが、私の専門はメカニックです。この場合は、あなたが指揮を取る方がいい。幸いSPRへの正規登録も済んでいますし、書類上問題はありません」 「…………」 麻衣は軽く目を瞬いて、それから頷いた。 トップがいない以上、所長の不在中の責任の所在を明確化することは必要だ。―――それが自分だというのにどうにも納得が行かなくても、リンがこう言うからには何か事情があるのだろう。この状況で、些末なことで自己主張するほど馬鹿ではない。 「とりあえず、安原さんたちが帰ってくるまでに、整理しておこう。………パニック間違いなしだし」 「はい」 華奢な「所長代行」の最初の指示に、リンは縁起の良い微笑で応えた。 † 宿代わりの寺に、外に出ていた三人が戻ってきたのは夕闇が濃くなってからだった。 「ただいまー」 「コンビニもないわこの村………。親切だから助かるけど」 「だいたいの経緯は掴んできまし………っと、住職さん。お世話になります」 帰ってきた三人と三者三様の第一声を、麻衣ではなく寺の住職が出迎える。 「お疲れさまでした。奥座敷でお待ちです」 「すみません、お世話になります」 滝川が軽く会釈するのに彼は穏やかに笑みをかえして、そうして言った。 「早く行かれた方がよろしいでしょう。おふたかたとも先ほどからお待ちですから」 二人、という住職の言葉には誰も気にとめることなく、そのまま奥座敷に向かう。 「戻ったぞー」 声と一緒にがらりと襖戸を引き開けて、そして滝川は不審な顔をした。 そこにいるはずの、白皙の美貌が、ない。 そのかわりのように、硬い表情の少女が座って、その背後にリンが座っている。その位置関係は、まるで彼が麻衣を支えているようにも見えて、いまだ漠然とした不安をかき立てる。 「おかえり、ぼーさん。安原さんは?」 「はい、ここです。資料はだいたい揃えました。……あれ?所長は?」 軽く室内を見回した彼に応えたのは、麻衣だった。 「あたしが、代理です」 澄んだ声は、硬い。 冗談を言っているにはほど遠い麻衣の瞳に、三人は表情を変えて二人の前に座りなおした。 「ナルはどうした」 「何があったの、麻衣。その顔じゃ、出かけてるっていうわけじゃなさそうね」 「綾子………」 琥珀色の瞳が一瞬だけ揺れた。 リンが何か言いかけたが、麻衣は軽くかぶりを振って彼を制して、口を開く。 「消えたの」 トーンの高い硬い声は、きわめて端的に、事実だけを、明らかにする。 「消えた!?」 「どういうことですか、谷山さん」 思わず詰め寄った男二人に対して、綾子はただ息を呑んだだけだった。 「ちょっとあんたたちひっこんでなさいよ!」 彼女は、気色ばんだ男たちに一喝してから、硬い表情で唇を噛んだままの麻衣の表情を見つめる。 それから、そっと膝を進めた。 華奢な肩と、血の気の引いた唇。 完全に白くなるほどきつく握りしめて、冷たくなった小さな手に軽く触れる。 「大丈夫?麻衣」 「あたし?うん、あたしは平気、ありがと」 麻衣はにこりと笑って、そして三人を見た。 笑みは表層だけで、「所長」が乗り移ったような硬い表情は変わらない。 「落ち着いて、聞いてくれる?ぼーさんも、安原さんも」 「……わかった。麻衣がいいって言うまで口ははさまん」 「わかりました。しばらく黙って聞いてます」 「うん。ありがと。…………ナルは、消えたの」 表情を見せない声が、事実を繰り返す。 「ここにひとつだけ、借りてきてたビー玉があったでしょ。………安原さんの調査を待ってる間、することもないからって―――リンさんもあたしも止めたんだけど。………サイコメトリして、一瞬で」 「………あんたの目の前で消えたの?」 「うん。リンさんと、あたしの目の前で」 先刻より明らかにきつくきつく握りしめた手はさらに白くなって、血の気がない。表情を喪ったようなこづくりの可憐な貌を一瞬見つめて、元の位置に戻っていた綾子は溜息をついた。 「麻衣。………あんたのせいじゃないんだからね。分かってるわね」 「………うん」 「ナルが何を見たかは分からないのか?」 口を挟んだ滝川に視線を向けて、麻衣は一瞬苦笑に似た表情をひらめかせた。 「一瞬だったから表情も見えなかった。あとで呼んでみようとは思うけど、できるかどうかは分かんない。とにかく、なにも分からないの。どうなってるのかも、ナルが何を考えてたのかも、全然。………とりあえず真砂子には連絡をいれたから。都合がつき次第、来てくれることになってる。何がなんでも明日のお昼には着くからって宣言してた」 真砂子の剣幕を思い出したのだろう。かすかに笑って、麻衣は言葉を続ける。 「あと、ジョンにも一応連絡は入れたけど、今のところ憑き物には関係なさそうだから呼んではない。必要になったらいつでも呼んで下さいって言ってくれたけどね」 「………ナルを呼ぶの?呼べるの?」 「正直言って、分からないよ。けど、やってみないと分からないから。ナルが応えてくれたらベストだけど、気配だけでも掴めるかもしれないし。少しでも状況が分かるかもしれないから、ちょっと危険でもやってみる価値はあると思う」 「今までやってみなかったの?」 「うん。安原さんの情報を待ってからにしようと思って。今のままじゃ多分何を見ても分からないし、もしナルに会えても、何も解決できないだろうから。………安原さん、情報、集まりました?」 淡い、けれどつよい視線がすいと滑って安原を捉えた。 彼は麻衣の言葉を待っていたようにしっかりと頷いて、手元のファイルを確認する。 「はい、一応。子どもたちがどういう状況でビー玉を見つけたのか、ということの他には、あの場所の歴史的変遷くらいしかここでは調べられませんでしたが。あと、何人かの子どもに、夢の話を聞いてきました」 「それじゃそれを聞かせてください。………ナルほど理解早くないと思いますけど、よろしくお願いします」 「大丈夫ですよ。………それじゃ、はじめていいですか?」 「ちょっと待って、安原君」 確認した安原を、綾子が止める。 彼女はすっと立ち上がって、ゆっくり歩いて麻衣のそばに座った。そっと、華奢な手を取って、きつくきつく、握りしめたままの手を、ゆっくりとひらかせる。 やわらかな手のひらに血がにじんでいるのを認めて、綾子は綺麗に整えられた眉を寄せる。 ちいさく溜息をついてから、淡い色彩の麻衣の頭をかるくはたいた。 「話を聞く前に、あんたが落ち着きなさい、麻衣!血が出るほど爪立てるなんて!……ちょっと破戒僧!救急箱!」 「……………………………だって、………」 ショックと、ふりかかってきた責任。 大きすぎる二つの負担は、心を押し潰しそうになる。 それを懸命に支えて、支えきれない想いが溢れて握りしめた、手。 黙ったまま滝川が持ってきた救急箱から消毒液を出して、綾子は慣れた手つきで手早く消毒して、さらに包帯を巻く。これは明らかに、治療目的ではなくまた傷付けるのを防ぐための予防措置だった。 滝川は何も言わずにやわらかな髪をくしゃりと撫でて、ぽんぽんと頭をやさしく叩いて元の席に戻る。その背を追いかけた少女の瞳にわずかに涙が滲んで、彼女はきつく唇を噛んでそれをおさえた。 両手分の処置を終えて、綾子は麻衣の瞳をつよい視線でのぞき込む。 「本当に、このまま聞いても大丈夫なの?」 「うん。このまま聞く。「所長代理」だから。………今は、駄目だから、平気だから」 震えそうな声は一瞬だけだった。 綾子は溜息をついて、軽く警告するだけに留める。 「無理してるとあとでガタが来るわよ」 「うん、自分の限界は分かるからそうなる前に何とかする。ありがと、綾子」 一瞬だけ微笑んで、琥珀色の瞳を年上の同僚に向ける。 「ごめんなさい、安原さん。始めてください」 いつもとは異質なまでに硬い淡い瞳を見返して、安原はかるく頷いた。 「それでは、噂の夢の実態と、経緯をまず説明します」 可能な限り抑えた声でそう言って、安原は調査ファイルを取り出した。 「ビー玉を見つけたのは、西本佳世ちゃんという八歳の女の子、です。これは本人からも、他の複数の子どもたちからも確認が取れました。ただ、見つけた時期ですが、正確に覚えている子はいませんでした。それぞれ言っていることを総合すればだいたい判るんじゃないかと思いますが、学校がはじまってからしばらくたってた、ということですから、九月の半ばじゃないかと思います。場所ですが、いつも子どもたちが遊び場にしている裏山です。………あ、その裏山の奥には鎮守のお社があるそうですが、そこまでは子どもたちは行っていません。それで、鎮守守り役の方から伺ったんですが、この集落の、五歳から小学生までの子どもが十七人、集まってくるそうです。……集団で何かして遊ぶ、というよりも、めいめいが好きなことをしている、という感じだと仰っていました。………それで、その女の子なんですが、綺麗な石を集めるのが好きなそうで、特に深い意味なく土を掘っていたそうです。道具に使っていたのもその辺にあった木の棒で、いつものことだとか」 「それで、ビー玉があったってわけか?」 「ええ。掘っていたら、偶然たくさんのビー玉があった、というわけです。佳世ちゃんは、埋めてあったように見えた、と言っていました。調べてみないと確かなことは分かりませんが、彼女の記憶からすると深さはだいたい二十から三十センチメートル程度だったみたいです。まあ、あくまで小さい子の記憶ですから、確かとは言えませんけどね。一応、深くはなかったかと聞いてみたんですが、やわらかい土だから、気にならなかったと言っていました」 「ということは、そんなには深くなかったか、よっぽど柔らかいところに埋まってたかですね」 「はい。僕もそう思います」 麻衣の推測に頷いてから、安原はもう一度ファイルに視線を走らせてから言葉を継いだ。 「それで、水洗いしてみたらあんまり綺麗だったから、みんなでひとつずつ分けることにしたんだそうです。ビー玉だったから、怒られないと思ったと言ってました。これは、佳世ちゃんだけではなく、他の子たちも」 「ああ、ビー玉なんておもちゃだからな、大人に怒られたりしないと思ったってワケか」 口を挟んだ滝川に視線を流して、一瞬の沈黙をおいてから安原は頷いた。 「僕も、多分そうだと思います。………所長代理?」 呼びかけには、冗談めいたやわらかみを含ませる。 麻衣の心は分からないから、細心の注意を払って。 軽く目を伏せて聞いていた麻衣は、目線を戻して頷いた。安原の心配げな視線に気付いて、血の気のない口元に微笑をのせる。 「あたしも、ぼーさんや安原さんの言うとおりだろうと思います。………もし、大事なものだと思ったら大人に報告しなきゃいけないって思うだろうけど。でも、ビー玉みたいな、普通に見るおもちゃだったら、秘密の宝物にしちゃおう、ていうような感覚だったんじゃないかな」 麻衣はそれだけ言って、沈黙した。 少し考えて、慎重に口を開く。 「十七人の子、分かりましたか?」 「あ。はい。名前、住所、年齢、全部確認は取れています。話は、この中の九人から聞けました」 「噂になっていた、同じ夢を見るというのは、そのビー玉を分けた子ども、全員ですか?」 「ほぼ全員、毎日のように見るという話を、お母さんたちがしていましたし、話を聞いた子どもは全員がそういっていました。ただ、噂通りということになりますが、嫌な感じはしないそうで、あまり気にしていないようです」 「どんな夢かは?」 「これも、噂通り漠然としていますが、子どもが言っていることは共通していました。―――ガラスを透かしたようなイメージと、その中に世界にいるような印象と、青い色彩、です。……あ、正確には、青という子が大半でしたが他の色を言う子もいました。それで、ちょっと調べてみたんですが、それぞれが持っているガラス玉の色と共通しています。青いものをもらった子がほとんどだったから、結果的に青が大半になったみたいですね。全員から話を聞いたわけじゃないですから断言はできませんけど、おそらく間違いないでしょう。………それから、安心感」 「安心感?」 「子どもたちの意見を総合すると、すごく安全で居心地のいい場所、みたいです。絶対に壊されたくない、と、特に十歳前後の子が口を揃えて言っていました」 壊されたくない、と思う、ということは、壊されるかもしれないという危惧の存在を示す。 壊されるかもしれない、ガラス玉のように澄んだ世界。 澄んだ、ビー玉。ガラス玉。 硝子の、珠。 ちいさな。 球体。 球―――世界。 連想ゲームのように、頭の中を言葉が回っていく。 思考は、まとまらないままにくるくるとらせんをえがく。 ナルならきっとすぐに解決するのに、と無意識のうちに内心で呟いて、麻衣は軽く唇を噛んだ。比較しても仕方ないのに考えてしまうのは、どうしても思考が囚われるからだ。 かたわらを見上げたら、漆黒の瞳に出会うような幻想に、心を惹かれるから。 ぱちん、とかるく頬を叩いて、麻衣は振り切るようにふるふると頭を振った。 「谷山さん………」 「大丈夫です。ごめんなさい。………安原さん、そのビー玉ですけど、普通のとは違いますよね?」 「はい。ちょっと調べきれなかったんですが、かなり古いものみたいです。僕はこういうことには素人なので、いまはそれ以上のことは分かりませんが、調べた方がいいですか」 「はい。………それが最終的に役に立つかどうかは、今のところ分からないんですけど」 「ええと、あるかどうか分かりません、というより、むしろない確率の方が高いんですが、ここの過去帳をあたってみようと思うので今から東京に戻るつもりです。そのついでに考古学の知り合いに聞いてみましょう。………なにしろ時間がないので、詳細まで分かるかどうか微妙ですが、だいたいの年代ならなんとかなるかもしれません。どっちにしても、明日の夜には戻りますから、そのときには中間報告をできると思います。………ほかにありますか?調べもの」 「安原さんにお任せします」 「はい。任されました。他の子にいくつか借りてきたので、それを持っていきます」 彼一流の自信ありげな笑顔で、安原は頷いた。麻衣もつられるように笑って、軽く頭を下げる。 「お願いします」 「それじゃ至急行ってきます。今からなら終電に間に合いますから。………滝川さん、すみませんけど車お願いします」 「ああ」 立ち上がり際に何も言わずにもう一度麻衣の頭をくしゃりと撫でて、滝川は先に立って部屋を出ていった。安原も続いて部屋を出て、座敷には三人だけが残される。 「厄介なことになったわねほんとに」 「………大丈夫だと、思います」 「確信?」 まっすぐに向けられた綾子の瞳に、リンは苦笑する。 「限りなく希望に近い、ですが。大丈夫な気がします」 子どもたちの夢に、危険な感触はない。 だからといって、囚われた彼が安全だという保証はどこにもない。それでも、悪意がないなら大丈夫だと信じたい。 「大丈夫だよね」 自分に言い聞かせるような、硬い声。 呟くような高い声は、密やかにでも部屋に韻いて、麻衣は微笑った。 「それじゃ、やってみる。うまくいくかどうかは分かんないけど」 「うまくいくかどうかよりも、くれぐれもあなたが巻き込まれないように注意してください」 「はい、リンさん。…………ね、綾子」 「なに?」 「あとで甘えていい?」 正確には甘えたいわけではないけれど、自分の弱さは口惜しいけれど、崩れそうになった時に支えてくれる手があるという安心感が欲しかった。 考えたくないけれど、もし何も得られなかった時に、崩れないという自信はどこにもなかった。 向けられた麻衣の瞳に、縋るような色はない。綾子は少し笑って頷いてみせる。 「いいわよ。頑張ってらっしゃい」 「ありがと。それじゃやってみる」 普通の状態よりも、「夢を見ている状態」になった方が麻衣の霊視能力が格段に上がるのは、いまも変わっていない。 麻衣は、部屋の隅に積んであった座布団を背もたれにして座った。胸の前で手を組むように軽く指を絡めて、目を、閉じる。トランス状態への集中は、厳しい訓練のお陰で大した問題ではなくなっている。 時間は、かからない。 麻衣の意識が、白い闇に沈んだ。 |
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