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第二章




 せめて、どんなものなのか分かってからにしてよ!
 止めようとする部下の少女に、たいしたことはないと返して、手っ取り早い手段だろうと長身の青年の苦い視線を封じる。触れていた小さな硝子玉に意識を集中して――――あっというまに、飲み込まれた。

 いつもとは違う、と思った瞬間。
 動揺する暇も抵抗しようとする余裕もなく、意識の端に呆然とした琥珀色の瞳が焼き付くように残って。
 記憶が、途切れた。


    †

 
 ふ、と意識が戻る。

 何かに呼ばれた気がしたのは気のせいなのか、世界は恐ろしいほど静まりかえっていた。
 あるのは箱庭のような見慣れない農村の風景と、静寂と、暖かな光を纏った「場面」の断片。

 ここが閉鎖された空間であることは、調べなくても感覚的に分かった。あとで調べる必要があるにせよ、今この状態から出口を探すような真似はしない。

 記憶の断片が、時折箱庭のような世界で展開される。
 おそらくかなり以前なのだろう。
 真砂子が普段着ているものとは少し形態の違う和服の、幼い子供と、その姉らしい娘と、その両親らしい夫婦。時折出入りする「その他の」人々の服装と比べれば、そしてわずかに見え隠れする使用人の存在から推測すれば、土地の有力者の一家なのだろう。他愛もなかったであろう、日常。
 この「世界」の核をつくっているのはあの子供で、自分はそれに、何かの要因で同調したのだ。理由が何かは今のところ不明だったが、それだけは確かな事実だった。そして、そうである以上、再生されていく断片的な映像に注意しなければならない。核になっている子供の視点から見えない部分は綺麗に切り取られた記憶は全体像にはほど遠いものではあるだろうが、原因を掴むためには俯瞰よりもかえってその方が都合がいい。

 冷静にそこまで考えて、ナルは溜息をついた。
 白皙の頬に、漆黒の髪がこぼれおちる。
 立てた膝に肘をついて、白い手で額を抑えた。

 無意識に、最後に見た琥珀色の瞳が、脳裡に浮かび上がった。
 彼女は、怒っているだろうか。―――――泣いて、いるだろうか。
 いや、他のメンバーがいるから実際に泣いてはいないだろう。心配をかけないようにと精一杯の虚勢を張って、何がなんでも自分を連れ戻そうと………また無茶をするだろう。
 
 打開策が見つからない。
 何故同調したか分からない以上、いつ現れるかも分からない記憶の幻影と箱庭を見つめているほかに何の方策もない。
 圧倒的に情報が不足している。
 そう考えて、秀麗な口元から苦笑を含んだ溜息が漏れた。
 情報が少ないからとサイコメトリを試みたのだ。その挙げ句同調して、こんなところに飲み込まれていたのでは、笑い話にもならない。

 さて、どうしようかと思考を切り換えようとして。
 唐突に意識をひかれた。
 何かに呼ばれた気がして、ナルはかるく振り返る。その視線の先、おどろくほど近くに見慣れた少女の姿を見つけて、愕然とする。
 彼女にこちらが見えていないことにはすぐに気付いて、そして、そこに障壁が存在することに、気付いた。
 
 障壁は存外に強固に、彼女と自分との間を隔てる。

 声は、聞こえる。必死に繰り返して自分の名を呼ぶ。感情を抑えた瞳の奥に、明確に読みとれる強い焦りと、不安。
 繰り返し、繰り返し――――自分の名前だけを。
 呼ぶ。

「ナル、ナル!………いないの?聞こえないの?ナルってばナル!!!!」
 気配は感じるのに、と彼女が呟いたのが聴こえて、彼は障壁に手を伸ばした。

「麻衣」
 名前を、呼ぶ。
 障壁は強固でも、その破壊は不可能でも、これほど近ければ声だけは届く可能性があった。
「麻衣」
 不可視の壁にあてた指先に、手のひらに、全精神を集中して、名前を呼ぶ。
「麻衣」
 三回目の呼びかけに、麻衣が反応した。
 弾かれたように振り返って、視線が交叉する。
 漆黒の視線は麻衣の瞳に焦点を結んで、けれど麻衣の瞳は焦点を合わせられない。
「ナル?そこにいるの?ナル?」
「麻衣」
 気配を捉えられるだけで声までは聞こえないらしい麻衣の表情が、緩んだ。必死な、祈るような表情が、今にも泣き出しそうに崩れる。透明な壁の向こうの白い闇に、くずれるように座り込む。
「ナル、だよね?そうだよね。………何か言ってるよね。ごめん、聞こえないよ」
「麻衣」
「とりあえず無事?大丈夫だよね。………わかんないけど、大丈夫だって信じるからね。あたし、なんとか頑張るから。………ナルからは聞こえてるかもしれないから、わかってること報告するね」

 中空に、華奢な手が伸ばされる。
 気配だけは、麻衣にも確かなのだろう。正確に、ナルの指先のさきに、細い指先を伸ばす。
 触れているような気さえするのに、温もりさえ感じられるような気さえするのに、それは、慣れた記憶がもたらす錯覚にすぎない。
 麻衣からは壁の存在すら感知できてはいない。
 それでも彼女は、うまく視点を定められない視線を、気配に向けて、報告をはじめる。
「安原さんが子どもの話聞いてきてくれたから、その話と、ここの郷土史の大雑把な説明するから。聞こえてなかったら無駄だけど一応!」
 
 絶対の障壁を隔てて、触れそうで触れない、指先。それでも離す気にはなれなくて、そのまま彼女の話を聞く。

 ガラス玉を見つけた女の子の話、子どもたちの夢の話、詳しい経緯、そして大雑把な土地の説明。
 彼に先入観を与えないように配慮したつもりか、彼女自身や彼女の回りにいるはずのメンバーの意見はかけらも入っていない情報が、順を追って提供される。

 暗記してきたらしい内容を一気に話し終えると、麻衣はその勢いのまま宣言した。
「安原さんが、ガラス玉の年代とか、いま詳しいことを調べに東京に戻ってくれてるの。それから、あした、真砂子が来てくれて、もう一度詳しく見てくれることになってる。それが終わったら、あたしもそっち行くから!」
「麻衣?……ちょっと待て」
「いい?行くからね。ちゃんと脱出方法考えといてね」
「こなくていい!自分で出るからお前はそっちに居ろ!」
 声は聞こえるはずがないと分かっているのに思わず口に出して制止してしまったナルは、次の麻衣の表情に思わず絶句した。

「ナルが止めるだろうってことは想像つくし、リンさんたちも絶対反対だろうけど」

 そういって、麻衣はふわりと笑ったのだ。
 そこにいるナルが見えているかのように、その笑顔は正確に彼を囚える。

「でも、行く。あたし今所長代理だからね、ナルが文句言う資格ないんだよ。勝手に消える所長が悪いんだからね。……でも、集められるだけの情報はちゃんと持っていくから、真砂子に見てもらって安原さんの話聞いて、それからだから、どうしても明日の夜以降になっちゃうけど。……………それまで」
 言葉が、途切れる。
 一瞬だけ俯いて、麻衣はひどく強い瞳で正面のナルを見据えた。
 見えていないなど信じられないほどつよい、視線。

「無事じゃなかったら許さないから」

「…………麻衣」
「無理、できないから、今はもう戻るね。明日の夜か明後日に、またね」
 座り込んでいた少女が、立ち上がる。伸ばしていた指先を、振り切るように離して、そして、もういちど笑った。
 
 残像のような笑顔を残して、麻衣の姿は白い闇に溶けるように、消える。
 ナルは障壁から離せなかった指先をようやく引き戻した。
 おもわず漏れた溜息を、その彩を、自分でも無視する。
 今は、考えない。

 視線を返した先で、また、記憶のかけらが再生されはじめる。混沌としたまま、気まぐれのように再生される記憶の断片を見ていれば、時間順に再構成することは可能になってくる。漆黒を纏った天才博士は、記憶のかけらに意識を集中した。重要なものとそうでないものを、フィルターをいくつか用意して振り分けて、時系列で整理していく。

 かならず来るといった麻衣が来る前に、作業は終えなければならなかった。


    †


 一番最初の記憶は、困った顔をした姉が、綺麗な小物を前にして座り込んでいる光景。

「どうしたの?かえでねえさま」
 そう問えば、困ったような顔をしたまま、首を振った。
 長く伸ばした髪は緩く束ねられていて、ゆるやかな動作に従ってまるく撓んだ。
「ううん、なんでもないのよ。ちがやはね、気にしないで良いの」
「そうなの?でも、きれいだねえ、それ」
「そう?」

 姉の笑顔のわずかな曇りに気がつかなかったわけではなかった。けれど、幼かった自分にはその微妙な色合いまでは読みとれなかったし、そんなことより、姉の前の珍しい綺麗なものに惹かれた。
 弟の視線に気付いたのだろう。姉はいつものような優しい声で笑った。

「珍しいものよね。壊れやすいものだから、気をつけるとお約束するなら、触ってごらんなさい。かまわないわ」
「ほんと!?」
「いいわよ。でも、本当に、壊れるとあぶないから、ちがやが怪我をしてしまうから、気をつけてね」
「うん、ありがとう、ねえさま!」
 きらきらと瞳を輝かせて小さな手を伸ばす。
 最初に触れたのは、つめたくて透き通った珠だった。おそるおそる陽にかざせば、きらきらと昼の星のようにかがやく。

 おそらく舶来の、びーどろの珠が、白い塗りの手箱にひと盛り。それはとんでもなく高価な贈り物だったのだろうと、気付いたのはずっと後だった。



    †



 ふ、と。

 意識が切り替わるように沈んだ。

 知らずにジーンに逢っていた頃からだろう。
 白い闇のイメージはいつからか定着して、動かない。

 トランス状態に入るのだけははやくなったなあたし、と麻衣は苦笑して、それから心を引き締めた。

 調査の手がかりを探すために。
 何が起こっているのかを知るために。
 そして、何よりナルを助けるために、何かを掴まなければならなかった。たとえ、それが気配の残滓でも、砂粒のような手がかりでも、ないよりはずっとましだ。そして、自分自身のために、彼が無事だという確証が欲しかった。
 冷静に、ともう一度自分に言い聞かせて、麻衣は目を閉じた。見えるものが何もない空間で目を閉じてもあまり意味はないのだろうけれど、その方が集中できる気がして、視界を封鎖する。

 どこまでも広がる、前後も左右もない空間の中で意味もなく彷徨っても無駄なことは解っていた。
 何もないように思える空間の中で、異質な気配を見つけるために、精神の網を拡げていく。一分の漏れもないようにていねいに、そして早く。この空間の中で長時間集中を保って無事でいられるほど修業を積んだわけではないし、平静を保っているのがいまは難しいことは、麻衣が自分でいやになるほど自覚している。

「ナル」

 ちいさく、けれどはっきりと名前を呼ぶ。
 感覚を可能な限り明敏にする。
 探しているのは彼の気配であって、他の何でもない。

「ナル、ナル!」
 繰り返して名前を呼び続ける。

 ジーンを呼んでもよかったのかもしれなかったと後で思ったけれど、その時はナルを呼ぶことしか頭になかった。

 先鋭化した感覚の網に、慣れた気配の残滓のようなものが触れて、麻衣は目を見開いた。一瞬でその場所まで「移動」して、また同じことを繰り返す。
 名前を、呼ぶ。
「ナル!」
 今度は呼応するように、明らかに彼の気配を感じた。
「ナル、ナル………いないの?聞こえないの?ナルってば、ナル!!!!」
 手を伸ばしても、指先には何も触れない。
 感じることさえできない障壁に阻まれているようで、触れることは叶わなくても、これだけは確信できた。

 間違いなく、「ここ」に、伸ばした指先の向こうに、ナルはいる。

 名前を呼ばれたような気さえして、思わず緩みそうになった心を、内心だけで叱咤する。滲みそうになった涙は綺麗に隠して、きっと障壁の向こうの彼には見えない。

「ナル?そこにいるの?ナル?」
 肯定も否定も聞こえない。
 けれど、彼の方でも麻衣の存在に気付いているという確信は、なにより強い。
 何だか解らない、けれど殻のような障壁の向こうに彼がいることだけは、麻衣には疑いようもなく確かなことだった。

 自分に彼の声が聞こえないように、彼からも自分の声は聞こえないのかもしれなかったけれど、一方的にこちらの調査の進行状況と、調査が一段落したら迎えに行くことを宣言して、麻衣は目を閉じた。
 涙は見せないで、笑顔だけを残して。

 彼は絶対に今は無事で、きっと言葉は届いている。




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