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意識を緩めて、目を開ける。 トランス状態から、肉体と精神を一致させる。もう一度目を閉じて、力を抜いて。 琥珀色の瞳を、ゆっくりとひらいた。 目の前に心配そうな綾子の顔があった。 そしてその向こうで、同僚の黒い隻眼まで自分を見つめていることに気付いて、麻衣はかるく驚いた。リンまで自分を見守っているとは思わなかった。 「綾子、リンさん、お待たせ」 にこりと笑って、麻衣は立ち上がる。身体を預けていた座布団の山をきちんとなおして、元の位置に戻って座った。 「疲れたんじゃありませんか?話は少し休んでからでも」 リンの言葉には笑って首を振って、それからかるく苦笑した。 「報告できるほどの情報はないから、大丈夫だよ」 「で、ナルは見つかったの?」 「見つかったって言うか………微妙なんだけど、いることは分かった。多分無事だと思う」 澄んだ、けれど確信に満ちた声が言葉を紡ぐ。 麻衣の顔が、変わっている。つい先刻の、見ているだけで胸が苦しくなるような強張った表情から、いつものとまではいかなくても、彼女らしい力を湛えた表情に、それだけで大丈夫だと安堵させられる。一瞬の間をおいて、リンと綾子はそれぞれかるく息を吐いた。 二人とも身体に入っていた力が抜けて、表情が和らぐ。 「それじゃ大丈夫ね。あたしは台所でも手伝ってくるわよ」 綾子は麻衣の頭をぽんと叩いて、そして颯爽と広間を出ていった。 これからの話で自分にできることはないという冷静な判断なのだろう。綾子のああいうとこ、潔くてかっこいいよねと麻衣は呟いて、いってらっしゃいと手を振った。 リンはちいさく笑って軽く頭を下げる。 「お疲れさまでした」 「ううん、平気。心配かけてごめんなさい。………それで、ナルなんだけど、ほんとに、実際会えたわけじゃないの。話もできてないし、ナルの声も聞いてない」 「どういうことですか?」 「あの空間に、ナルがいたことは確かだと思う。うん、確かに証拠はないんだけど、あたしの声は聞こえてたんじゃないかと思う。………思い込みかもしれないけど」 「けれども会えなかったと?」 「うん。私からは確認できなかったけど、多分、なにかの障壁に閉じこめられてる」 「それは谷山さんの印象ですか」 「………うん。単なる印象。………でも、上手く説明できないけど、絶対っ」 言い募りかけた少女を、リンは大きな手を彼女の額の前に翳して、おさえた。 やわらかく微笑んで、頷く。 「疑っているわけではありません。私には判断の付かないことですが、あなたの印象は信用できます。ナルでも重視したでしょう」 感情的になりかけた麻衣は、かるく深呼吸して俯いた。 一瞬だけ目を閉じて、ひらいて、そうして顔を上げる。 「ありがと、リンさん。ごめんなさい、ちょっと、感情的になっちゃったみたい」 「いいえ。………それで、障壁、ですか」 「うん。そこに気配はたしかにあるのに、姿も見えないし声も聞こえない。だからそう思うの。でも、私からは障壁にさわれない。……ナルからはどうか分からないけど」 「ナルの声も?」 「聞こえなかった。………向こうには多分聞こえてると思うんだけど…………。これは思い込みかもしれないから何とも言えないけど」 名前を呼ばれたような気がした。 呼びかけに、応えがあったような気が、した。 それに、願望が全く含まれていなかったとは、言えない。 「それで、ここからはあたしが単に考えたことだけど。あの障壁は、あのガラス玉なんだと思う」 「………ガラス玉?………ああ、なるほど。球形ですね、確かに」 「うん、そう」 納得したように頷いたリンに、麻衣は肯定を返した。 球体は、宇宙を顕す。 ナルが取り込まれたガラス玉のなかに形成された世界があるとすれば、それは球形であるというだけで強固な障壁を作り得る。そしてそれは、完全な結界に封じられているのと同じことだ。 結界を、障壁を壊すためにはガラス玉を壊さなければならない。けれど、そんなことをすれば、その中に形成された宇宙もまた崩壊する。 あのガラス玉は完全な球体ではないから、もしかしたらそこまで厳密な効果はないかもしれないが、可能性の低すぎる賭にナルの命運をかける気はない。 「ということは、無理に障壁は壊せませんね」 「うん。私からじゃ認識もできないんだから、壊そうとして壊せるものかどうかもわからないけど。でも、もし壊したらナルも危ないのは確かだと思う」 「……………」 「だから、あたしが行くから」 「谷山さん」 「他に方法ないでしょ?」 麻衣はにこりと笑って同僚を見上げた。 「障壁、あることは分かっても触れないし壊せないし、それだったら中に入るしかないと思う」 「………………」 「あたし、間違ってる?」 「………………いいえ」 「だったらあたしが行くしかないよね」 きっぱりと言った少女の完璧な笑顔は、遠く本国の上司を彷彿とさせる。リンは深く溜息をついて、即答を避けた。 「…………それはそうですが。一応、安原さんの報告を待ってください」 「それは、もちろん分かってます。ナルと合流するんだったらちゃんと情報もっていかないと意味ないし、真砂子にも見てもらわないと。他の霊が関係してたらそんなに単純な図式じゃなくなるし」 「単純な図式ですか」 「うん。リンさんはどう見てる?」 問われて、リンはわずかに間をおいて、答えた。 「ナルがしようとしたのはサイコメトリですから。同調してしまったガラス玉の持ち主の、意志、あるいは思念で構築された世界に取り込まれたのではないのかと」 「あたしもそう思う。でも、今のところその可能性は低いと思うけど………もし、別の要因があったら、不用意に飛び込むのは危険だし、飛び込むとしても、それだけの備えって言うか対処をしてからでないと、ナルもあたしも、下手したら子どもたちみんなが危ないから」 「そうですね」 リンは苦笑する。 麻衣は落ち着いているし判断は的確だ。 いつの間にか随分と成長したのだと、彼は今更のように認識した。感慨にふけっている暇はないが、それでも、瞳はやさしく和む。 「わかりました、谷山さん。あなたに所長代理をお願いしたのは私です。……ただし、しつこいようですが、無茶はしないでください」 釘を刺されて、麻衣はかるく首を竦めた。 「信用ないなあ、あたし……。あとで所長に怒られるのはできるだけ避けたいし、戻れなくなるのも嫌なので、ちゃんと自重します」 「そうしてください。私もあとでナルに怒られるのは嫌ですからね」 リンは小さく笑った。 彼女を危険に晒したことを無言のうちに責められることはある程度覚悟していたが、この調子では、かの天才博士は何の文句も言えないのではないだろうか。 「それじゃ、今日の仕事は、ぼーさんと綾子に状況の説明をちょっとして、状況整理して報告書をちょっとまとめたらおわり、かな?」 「データの計測はどうしますか」 「………今は?」 目線だけで問いかける。 琥珀色の瞳を向けられて、リンは軽くうなずいた。確認するようにモニタに視線を流して、答える。 「ナルに指示されたままです。ガラス玉を掘り出したという辺りに、サーモグラフィーと赤外線カメラを設置してあります」 「じゃあそれはそのままで。あとは、ガラス玉を、サーモグラフィーと赤外線カメラ、それと、電波の計測できるやつ、あったよね?」 「電磁波計測ですか?今回はありますね」 「それもお願いします。………役に立つかは謎だけど」 「ケースとして珍しいですから、やらないよりはいいでしょう。実効性のあるデータが取れるかどうかは分かりませんが、わかりました。それと通常の暗視カメラも設置します」 「よろしくお願いします」 麻衣はぺこりと頭を下げて、ようやく、肩の力を抜いた。 † 朝食の準備は綾子がしてくれた。 いつものように手伝おうとした麻衣に、あんたは座ってなさいと言って手際よく簡単なメニューを並べる。 住職が持ってきてくれたお櫃から滝川がご飯をよそい、リンが丁寧にお茶を淹れてくれて、麻衣は笑った。 ささやかな、けれどあたたかい心遣いが、嬉しい。 あまり会話もなく、けれど意外なほど穏やかな空気を保って食事は進んだ。暗黙のうちに「調査」の件は食後と決めているようで、だれも口を開こうとはしない。 その静けさのなか、住職のものとは明らかに違う足音とかすかな気配に、しかもかなり記憶にあるそれに気付いて、麻衣は塗箸を右手、染め付けの茶碗を左手に持ったままかるく首を傾げた。 品の良い茶碗に盛られたご飯は、半分ほどに減っている。 「麻衣!!!」 ぱしん、と音を立てて襖がひらいて、珍しく洋装の真砂子が端麗な美貌を強張らせて飛び込んできた。 「あれ?」 「あれ、じゃありません!」 「随分早かったね、真砂子。もしかして、始発で来てくれたの?」 「当然でしょう!」 「ありがとう」 「まあ、座ったら?どうせこの時間じゃ朝食まだなんじゃない?お汁と卵焼き、まだあるわよ。ご飯もあるし」 すっと立ち上がった綾子を無視して、真砂子はつかつかと麻衣に歩み寄った。すとんとそのそばに座って、見慣れた淡い色の瞳を、じっと見つめる。 ―――ごまかしなど絶対に許してくれないその強い視線をしばらく受け止めて、麻衣はくしゃりと表情を崩した。 微妙な苦笑が口元にのぼって、持ったままだった茶碗と箸を座卓に戻す。 「大丈夫、だよ?」 「嘘ですわね。眠ってないでしょう」 「………眠ってないんじゃなくて、眠れなかっただけ」 「同じことですわ」 怒鳴る気も怒る気も失せたのか、ただ、溜息混じりに呟いて、日本人形のような少女はその顔を傾けて、心配げに麻衣の顔を見つめ直した。 「麻衣」 「大丈夫。ナルを連れ戻すまでは絶対に平気。だから、ご飯も食べてるし、ね?」 だから心配しないでよ、と繰り返しても、苦笑は、消えない。自分で見ないふりをしているこころの深層がどんなに不安定かは自覚しているから、誤魔化しても無駄なことは知っている。 真砂子はもう数瞬麻衣の瞳を見つめて、それから視線を緩めてまた溜息をついた。 「…………落ち着いては、いますのね?」 「うん」 「それなら、とりあえず良いですわ」 「お汁と卵焼き持ってきたわよ。食べる?真砂子」 やはり上品な塗りのお盆に、ほかほかと湯気を立てた卵焼きと汁碗を乗せて綾子が戻ってきた。 手際よく麻衣の隣にスペースを作り、それを並べて塗箸をおく。 黒髪の美しい少女はもう一つ溜息をついて、それから座卓に向かって座り直した。 「頂きますわ」 「んじゃこれ飯な」 滝川の大きな手が、麻衣と同じ染め付けの椀をことりと彼女の前におく。 リンの手もいつのまにか動いていて、深い緑色を湛えた白い湯飲みを、音もなく置いた。 「どうぞ」 「ありがとうございます。いただきます」 少女の白い手が伸びて、綺麗な仕草で湯飲みを取り上げる。 あたたかいお茶を一口含んで、ほう、と吐息が漏れて。 真砂子は湯気の立った椀に箸をつけた。 † 「どう?」 朝食のあとの簡単なミーティングを済ませると、麻衣はまず真砂子を座敷に連れて行った。 純和風の部屋にはどうみてもそぐわない―――それなのに見慣れてしまった機器の「視線」のさきに白い和紙が敷かれて、いくつかのガラス玉が置かれている。 真砂子はまず最初にそれを注視して、それからその周囲を見渡した。癖のないぬばたまの髪が白磁の頬にかかって、さらさらと音を立てる。 しばらくの間をおいてから、彼女は息を詰めて自分を見つめている麻衣に向き直った。 「かわったところは、ありませんわ。ここを出る時に見たのと同じ。………あなたも何も感じないんじゃありませんの?麻衣」 「………そっか。うん、あたしも何も感じなかったけど。でも、真砂子のほうがあたしより確かだから」 「光栄ですわね」 衒いはなく、くすりと笑って彼女は首を傾げた。 洋装は珍しくても、仕草は和服の時と同じで、どこか独特の落ち着いた印象を与える。 「眠っている子どもに影響するのであれば、その時に視れば違うのかもしれませんけれど、すくなくとも今はなんの異常もありません。データの方はどうなってますの?」 「リンさんがチェック中。多分そろそろ終わるはずだから、ベースに戻ろう。綾子も戻ってくる頃だし」 「松崎さんはどこへ?」 「鎮守の祠の近くに生きてそうな樹があったら、お伺いを立ててくるってさっき出てったの。やっぱりもうじき戻ってくるんじゃないかな」 「それじゃベースに戻りましょう」 「うん」 麻衣は頷いて、座敷の襖戸をそっと閉める。 すぐ隣のベースの戸を開けると、リンがひとりコンピュータに向かって検証作業を続けていた。 「リンさん」 澄んだ声に呼ばれて、リンが振り返る。 「……どうでしたか?」 「ううん。やっぱりなにも」 「あたくしが見る限りでは、変わったことはありません」 「そうですか。では、余分な霊が介入している可能性は低い可能性が高くなりましたね」 「うん」 麻衣は頷いて、それから、ベースを見回した。ここにいるはずだった長髪茶髪の姿がない。 「あれ?ぼーさんは?」 「住職の所へ。伝わっている言い伝えなどがないか聞いてくると。こんなに小さな村にこの宿坊は立派ですから、なにか前身があるだろうと言っていました」 「あ、それはそうだね。思いつかなかった」 麻衣は苦笑して、それから。 驚くほど瞳を和ませて、ふと、笑った。 「麻衣?どうなさいましたの?」 「え?」 「お顔。この非常事態に、嬉しそう」 「ああ」 くすりと笑って、彼女は両の頬を両手ではさみこむ。 「そんなに嬉しそう?」 「ええ」 「………だって、みんな一生懸命だから」 麻衣はちいさく笑う。 「ナル、愛されてるなあっておもって」 傲岸不遜で研究馬鹿な天才博士。 けれど、みんな彼を大切に思っている。 研究データのためなどではなく、飲み込まれた彼を助けるために。それだからこそ、こうやって無理を押しても、自分にできることを必死に見つけて、動いている。 真砂子は一瞬絶句して、リンは軽く苦笑した。 「……………」 「そうですね。だから、私たちは全力を尽くします。あなたはひとりではありません」 「うん。ありがとう。頑張ろうね」 「………ええ」 溜息混じりに肯いて、まっすぐの黒髪をさらりと払って真砂子は言った。 「もちろん、できる限りのことは致しますわ。言いたいことはたっぷりありますから、戻って頂かなくては困ります」 釘の一本や二本、刺してやらないと気が済みません。 美しい強い表情に、麻衣は笑う。 ありがと、と呟いて真砂子の腕に抱きついて、それから視線をリンに戻した。 「で、リンさん」 「はい」 「データはどうなってる?」 「精査はしていませんが、ざっと確認した限りでは、暗視カメラで捉えられる範囲で異状はありません。赤外線カメラもサーモグラフィーのデータも同様ですね。注目すべき変化はありません。朝に向かって気温はゆるやかに下がってはいますが、これは気象上の変化でしょう。山の上のカメラのデータにも、異常は見られませんでした」 「異常なし?」 「ええ。細かいデータは報告書として提出しますし、今後もデータは継続してとりますが」 「お願いします。………あと、電磁波の計測もお願いしたと思うんだけど」 「はい」 リンは頷いて、それから麻衣の瞳をまともに見返した。 隻眼の黒い瞳が和んでいるように見えて、麻衣は軽く首を傾げる。 「リンさん?」 「さすがです、谷山さん。細かい分析にかけてみなければはっきりしたことは言えませんが、何らかの電磁波が、ガラス玉を中心として発振されているのは確実です。これは単なる私の推測ですが、これが子どもの脳波に影響して、夢という現象になった可能性があります」 リンはかすかに苦笑した。 「ナルがどんな結論を出すか、面白いところです。………とにかく谷山さんのお手柄です」 「そう?」 よかった、と微かに笑った麻衣は、それでもわずかに首を振った。 結局の所、彼がもどらなければ何の意味もない。けれども、唇を噛みしめても、内心は言葉にはしない。 「それじゃ、分析の方はリンさんに任せます」 「了解しました」 リン自身にとっても興味深いデータなのだろう、すぐにモニタに視線を戻した彼はキーボードを叩きはじめた。 「ただいまー」 あまり間をおかずに、綾子が戻ってきた。 苦笑気味のその顔をみれば、だいたいの結果は分かったから、麻衣は笑って尋ねる。 「おかえり。収穫なし?」 「一応生きてる樹はあったんだけどねー。一番古い樹に聞いてみたんだけど、あのガラス玉、自分が生まれた時より前だって。樹齢は二百八十年くらいあるんだけどね。とにかく分からないみたいよ。ただ、この辺の昔の話は聞けたわ」 「昔の話?」 「もちろん、樹の御霊は人間と違うから、はっきりしたことは良くわかんなかったんだけど、どうもこの辺に、昔はかなりな有力者がいたみたいよ。時々、その有力者が来て、ほこらと自分の世話をしてたって。あと、……これは私の推測半分なんだけど、ここは領主クラスの狩り場だったみたい。その有力者が誰かを案内しているのをみたような記憶が御霊の中にあったわ」 「…………綾子。それって、もしかして、聞いたんじゃなくて、同調したの?」 「そうよ。その方がイメージ掴みやすいでしょ」 「危険じゃないの?」 心配そうに眉を顰めた麻衣に、綾子は笑って首を振った。 「樹はべつに危険なものじゃないから、大丈夫よ。あんたは心配しないの。………ところで真砂子。あんたの霊視は?」 「異常なし、ですわ。データの方も異常なしだそうです」 「なにそれ。もしかしてお手上げなの?」 完璧に整えられた眉を顰めた綾子に、麻衣はえへへと笑って首を振った。 「それが、そうでもなかったの。まだわかんないんだけど、電磁波のほうで何か掴めそう」 「それじゃ、とりあえず、夢の理由の方は説明がつくってことね」 「うん、多分。この辺はあたしは全然わかんないから、リンさん任せになっちゃう。……あとは、安原さんの情報と、綾子の情報がうまく合えばいいんだけどね。あと、ぼーさんがいま住職さんに話聞いてくれてるから、それと」 「それじゃ、安原君待ちなわけね」 「うん、そうなる」 麻衣は頷いて、言葉を継いだ。 「安原さんが戻るのは多分夜になるだろうから、そのあいだに、子どもたちに、昨夜夢見たかどうか聞いてくる。安原さんからリストは貰ってるから、ビー玉借りた子とそのままの子に差が出れば、夢の原因をガラス玉にもってくる要素になるよね。もちろん先入観は禁物だけど」 「それは、今すぐよりも午後の方がいいわね」 「うん」 麻衣は頷いて、それからわずかな沈黙を置いてから年長の同僚に視線を向けた。 「それまで、リンさんはデータの監視を続けて」 「はい」 「それから、綾子はこの周りでもっと古い樹がないか調べてくれる?」 「了解。ナルを助けるためね?」 「うん。できれば強行策はとりたくないけど、一応考えなきゃいけないから。その樹じゃ駄目なんでしょ?」 「そうね。できないこともないと思うけど、数があった方が確実ね。分かった、やってみるわ」 「真砂子はあたしと一緒に村回ってくれる?ついでに、他に影響のでそうな霊がないかみて欲しいんだけど」 「わかりましたわ」 真砂子が頷いて、ちょうどタイミング良く襖が開いた。全員に対する麻衣の指示を聞いていたのだろう、にやりと笑って自分を指差す。 「おーい、所長代理さま。おれは?」 「居残り」 突然だったというのに、驚きもせず間髪入れずに答えた麻衣に、滝川は敷居の所に崩れ落ちた。 「…………麻衣〜〜〜〜」 「連絡拠点だよ。安原さんから連絡あったときに動ける人いないと困るし、ね?それに、話聞くの小さい子ばっかりなんだもん」 綾子の樹探しはひとりのほうがいいだろうし、子どもたちに話を聞くにも、麻衣と真砂子という少女二人のほうが好都合だろう。こんなに小さな村では、長髪茶髪の大柄の男など目立ちすぎる上に珍しいのだ。好奇心が先立つようなら問題ないが、子どもが怯えてしまったら何にもならない。 「わーかった。あと、リンのサポートだろ?」 「うん。多分大丈夫だと思うけど、お願い」 万が一、霊が潜んでいた場合、そして、それが活性化して暴れた場合。 対抗できる勢力はなければならない。 そして、ナルが封じられたガラス玉はリンが持っているのだ。リンはそれを絶対に守らなければならない。 妹か娘同然に可愛がっている少女の澄んだ瞳に、滝川は優しく笑んでうなずいた。 「まかせろ。大丈夫だ」 「ありがと。それで、住職さんに話聞けた?」 「寺の縁起と、言い伝えレベルだけどな。いろいろ昔話なエピソードを聞いてきた。どれかひとつでもうまくガラス玉の年代と対応すると役に立つと思うんだが」 「それじゃ、忘れないうちに教えて。記録するから」 「じゃあ古い方から行くな」 滝川が話し始め、麻衣がペンを取る。 それと同時に、綾子も真剣な瞳で聞き入った。自分のもつ情報と符合する部分がないか、細心の注意を払う。 真砂子は一歩距離を置いて、すぐに動ける位置を保った。 † 安原が戻ってきたのは、昨夜ここを出たのとほぼ同じ時刻だった。ここに着けるぎりぎり最終というところだったのだろう。 「遅くなりました」 からりと戸を開けて一礼した安原は、昨夜は居なかった真砂子に目を留める。 「ああ、原さん、こんばんは。こんなに早くまたお目にかかれるとは思ってませんでした」 「あたくしもですわ」 「………珍しいですね。お似合いですが」 「服のことですか?」 「はい」 「それをおっしゃったのは、安原さんが初めてですわ」 真砂子は微笑して、言葉を継いだ。 「無駄に目立ちたくはありませんでしたから」 始発の新幹線に、艶やかな和服の美少女が乗っていれば嫌でも目立つ。そうでなくても真砂子の顔は比較的知られているのだ。 「余計な面倒は避けたかったので。この格好の方が荷物が少なくてすみますし、急いでいましたから」 「それは確かにそうですね。失礼しました」 一礼した安原に、麻衣が声をかける。 「安原さん、お疲れさまでした」 「いえ。すみません、結局、あんまり役にたちそうにありませんし」 ベースの床に資料ファイルを置いて、安原はかるく頭を下げた。 「さっきリンさんには電話で伝えたんですが、過去帳は見つかりませんでしたし、この村についてのデータもほとんどあつめることができませんでした」 「いえ。時間がなかったんですから、仕方ないです。分かったことだけで構いませんから、報告をお願いします」 麻衣の表情が真剣なものになっている。 安原も微妙な苦笑を消して、ファイルをとって開いた。 「まず、ガラス玉の年代ですが」 「はい」 「うちの大学の考古研に知り合いがいるので、見てもらいました。知り合い以外にも聞いたんですが、この時代のガラスそのものが珍しいそうで、はっきりと年代を言うことはできないそうです。ただ、分析してみないと分からないとは言っていましたが、舶来ものである可能性が高いので、それを考慮すると十六から十七世紀にかけてだろうということです。………議論になっていましたが、僕が聞いている限りでは、江戸初期だろうというのが有力なようでした」 「江戸初期って、もしかしなくても舶来製品って貴重品じゃないですか?」 「そうですね。ガラスの細工としては非常に単純ですが、庄屋クラスや、中級以下の武士では手を出せたものじゃなかったでしょう。商人が財力を持つのはもう少し先ですから、考慮対象外ですね。あと、出た場所から考えると、公家っていう線も薄いです」 安原は言葉を切る。麻衣は軽く考えて、自分の手元のファイルを開いた。 「安原さんがいない間、こっちでもできる調査をしていたんですが」 「はい」 「ぼーさんがここの住職さんの言い伝えを、それから綾子があの祠のそばの樹の御霊に、聞いてきてくれたんですけど」 「……はい」 前者はともかく、後者は相当一般的とは言い難い。それなのに自分の中に違和感がまったくなくなっていることに微かに苦笑して、彼は視線で続きを促した。 「まず、樹の方ですけど。このあたりは昔……つまり、その樹が若木の頃ですけど、有力者がいたらしいです。どの程度の「有力者」なのかはわかりませんけど」 「はい」 「それから、住職さんの昔話の中に、このあたりには都から落ちてきた高貴な方がいたっていうのがあったんです。その真偽はとにかく、その家の最後の代に子どもがいなくて、お屋敷を寄進されたのがこの寺だってことなんですが、こっちは確かみたいです。ええと、寄進の年代は……」 「縁起によれば、宝永二年だそうだ。江戸中期だな」 行き詰まった麻衣に、滝川が助け船を出した。 「一致しますね。………その、もともとの高貴な人というのは、応仁の乱あたりの、貴族の落人ってところでしょうか」 「そういうこまかいとこの日本史苦手なんです。だからあとで教えて下さい」 麻衣は開き直ったようにきっぱり言って、話を続けた。 「で、あと、もう一つ。その家に、とても美しい姫がいて、見初めた領主が通い詰めたっていう話がありました」 「そういう話が事実としてあれば、そのときにこのへんの領主がその娘に贈ったっていうのは」 「ありそうな話ですよね」 「ええ。江戸初期のこの辺の領主家の系図、探してみるように東京に電話します。バイト料出すって言ったら、研究室に残ってると言ってましたから。もしその「姫」が領主に側室にでも迎えられていて、子どもでも生んでいたら記録が残っているかもしれません。そっち方面からだったら言い伝えをたどれる可能性もあります」 「お願いします」 はい、とこたえながら携帯を取り出した安原は、メモリから番号を呼び出してかけ始めた。 「だいたい、情報は出そろったわね」 「うん。あとはナルの情報待ちだね、ほんとに」 「…………麻衣」 苦笑した麻衣に、わずかに逡巡して、それから意を決したように真砂子が声をかけた。 「なあに?」 「昨夜、夢の中では障壁が邪魔になって会えなかったっておっしゃいましたわよね?」 「うん。多分ガラス玉だと思うんだけど……」 「もし、………これは本当に、もし、ですけれど。あたくしの思いつきで、もしかしたら余計に危険なことかもしれませんけれど、いいかしら?」 「うん。何?」 麻衣の瞳が真剣になる。 真砂子は軽く視線を落とす。逡巡は消えないまま、それでも形のいい唇を開いた。 「ガラス玉が障壁になっているのでしたら、麻衣がガラス玉を持っていたら、すくなくとも話くらいはできるようになるのではないかと思ったのですわ。根拠はありませんけど、おなじガラス玉ですから、呼応するかも」 真砂子はそこで言葉を切って、言葉を継ぐ。 「ずっと考えてはいたんですけれど、反発の可能性もありますから。でも、そのガラス玉が全体として同質のものなら」 個体として特別なのではなく、ガラス玉が全体として同質の意味を持つなら。 「反発の可能性は低くなる、ですか」 「はい」 安原の問いに、真砂子は頷く。 「それはありえるわね」 「しかし、私たちならともかく、谷山さんが、不用意にガラス玉に触れるのは危険です」 「もちろん、それはそうです。ですから、珠は何かにくるむのですわ。清めた紙か、さらしがあればいいのですけれど」 綾子の同調にも頷かないリンに、真砂子が説明を重ねる。 「紙ならありますが………」 リンはなお躊躇した。どれほど可能性が低くても、麻衣が直接的な危険に晒される手段は避けるべきだった。 そして、それまで黙って話をきいていた麻衣が口を開く。 「リンさん、ナルが飲み込まれたのじゃないやつを紙にくるんでくれる?やってみるから」 「………それは決定ですか」 「うん。ガラス玉持って、もう一度やってみる」 きっぱりとこたえた麻衣に、リンは軽い溜息をついてから頷いた。 「わかりました」 あえてそれ以上は抗弁せずに、リンは立ち上がって隣の座敷に向かう。 程なく戻った彼は、ナルが飲み込まれたのと同じ青いガラス玉をひとつ、丁寧に紙にくるんだ。さらに薄い紙を裂いて、丁寧に紙縒の紐をつくって、紙の包みに結びつける。 守袋のようにつくったそれを、華奢な少女の胸元にペンダントのようにかけて、ほそい首の後ろで紙縒を結わえる。そして、これで大丈夫でしょう、と呟いた。 「ありがとう、リンさん」 振り返って笑った麻衣は、部屋のすみに綾子が座布団で作った場所に座る。 「麻衣」 不安な色の滲んだ真砂子に呼ばれて、麻衣はかすかに笑ってみせた。 「ナルと話せなかったら、また他の手を考えればいいから、気にしないで。それより、ありがと、真砂子。………みんなも、あたし無理はしないから、心配しないでね」 麻衣はにこりと笑って目を閉じる。 胸元の和紙の包みを両手に包み込んだ。 大切な、鍵。 今度はそれを持って、もういちど白い闇に身を沈める。 |
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