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第四章




 二つ目の記憶は、屋敷のざわつき。
 
 ざわざわと、落ち着かない気配。
 普段なら優しい笑顔を絶やさない、世話役のみよが厳しい顔で見張っている。
「なにがあったの?」
「なにも。ただ、たいせつなお客様がいらっしゃるので、ちがやさまはおもてに出ないようにということです」
「ねえさまは?」
「………楓さまは、表にいらっしゃいます」
「ぼく、ひとりなの?」
「みよがおりますから。大丈夫ですよ」
 にっこり笑った笑顔は―――いつものものとは違っていたけれど、なにも言うことはできなかった。
 庭に出ることも禁じられ、数刻の間ふたりきりで遊んで、唐突に外のざわめきが大きくなるのに気付いた。
「あ」
「お客様がお帰りですね」
 明らかにほっとしたような表情を見せたみよの顔を見上げて、そして子どもは彼女の袖を引いた。
「ねえ、見に行っても良い?こっそり」
「……お見送り、ですか」
「うん。見つからないようにするから、庭の生垣のすきまからならいいでしょ?」
 好奇心にきらきらした子どもの瞳を見下ろして、みよは微かに苦笑した。
「よろしいですよ。でも、すこしだけお見送りしたら、すぐに、まっすぐこちらにお戻りなさい」
「はあい!」
 元気な返事と一緒に縁から飛び降りると、ぱたぱたと生垣に向かう。隙間の向こうには、父の背中が見えて、その向こうに見たこともない青年が立っていた。
 その青年の、整った顔立ちと、子供の目から見ても明らかに豪華な衣裳。
 ――――えらいひとだ。
 胸裡に呟いて、彼はみよとの約束通り踵を返そうとした。

「また来るよ」
「………申し訳、ございません」
「無理を言っているのはこちらの方だ。そなたがあやまることはない」
 意味の分からない会話が耳を掠めたけれど、彼はそのまま自分の部屋へとかけだした。


    †


 時間の感覚は、狂ってきている。

 記憶のかけらの投影はランダムに、そして執拗なまでに繰り返されて、冷静な思考力を保つためだけに相当の精神力を割かれる。そのことに、ナルは内心苛立ちはじめていた。
 その上、精神だけでなく肉体ごと取り込まれた弊害なのか、ひどい倦怠感と、圧力を感じ始めている。耐え難い、物理的な痛みを伴いはじめた苦痛は、既に無視できる範囲を超えている。
「……長くは保たないな………」
 自嘲気味な呟きは、誰にも届くことはなく、空間に拡散して、消える。

 障壁の範囲は調べ尽くして、球体であることも、透明であることも、そして、その向こうに「白い闇」が広がっていることも把握した。
 球体はあのガラス玉、そしてそれに込められた「ちがや」と呼ばれる少年の思いが小宇宙となってのこったのだと、一連の記憶を追っていれば推測するまでもなく分かった。
 専門外だ、と内心に呟いて、明晰すぎる頭脳に再構築された記憶の断片を整理する。

 麻衣が来れば、もうすこし状況がはっきりすれば、脱出の糸口も掴めるかもしれない。

 麻衣を待つ。
 それだけの想いで、全身を苛みはじめた苦痛を、慮外に置いた。


    †


 三つ目の記憶は、姉の憂い顔。

 「たいせつなお客様」が二回続けて来てから、優しい姉の顔から笑顔が減った。

 あんなに一緒に遊んでくれたのに、そばにいることも少なくなってしまった。彼女から弟の部屋に来てくれることはなくなったし、憂いに沈んだ表情で、それでも何かを考え続ける彼女の側には行きづらくなった。
 そばに行っても、気付いてくれることさえ珍しくなってしまった。

 だいすきなねえさまなのに。
 こまっているのならたすけてあげたいのに。

 戸口から距離をおいて見つめるけれど、彼女は弟の存在にすら気付かないで、宙の一点だけを見つめる。
 いつか気付いてくれるかもしれない、そう期待してじっと見つめていると、いつのまにかみよがうしろからそっと近付いてきて、さ、こちらへ、と手招いて離れさせられる。
 どうして、と聞くことすら許されない空気に、まだ幼い子供は萎縮する。

 彼の、安全でなによりうつくしかった世界は、容赦なく変わろうとしていた。


    †


 ひどい頭痛に眉を顰めて―――ナルは、慣れた気配を感知した気がして振り返った。

 障壁の外、前回よりもはるかに近くに、少女の気配を感じる。姿は見えなかったが、名前を口にする。
「………麻衣?」
 呼びかけと同時に、目の前に少女の姿が現れた。

 障壁の外、それでも、目の前であることに代わりはない。そして、前回よりずっと、気配は近い。
 首にかけた小さな袋を手のひらに包み込んで目を閉じていた麻衣が、そっと、目を開けた。琥珀色の瞳がなにか惧れるようにゆっくりとひらいて―――そして、気が抜けたように虚空にぺたんと座り込む。
「麻衣?」
「…………ナルだあ……………」
 力が抜けたように呟いても、綺麗な琥珀の瞳はナルの顔から離れない。
「あたしのこと、見える?」
「見える」
「何いってるかも聞こえるよね」
「聞こえる」
「…………よかったあ…………」
 呟いて、のばした華奢な指先は障壁に阻まれる。
 少しだけ細い眉を寄せて、それから麻衣は苦笑した。

「障壁に触れるようになっただけマシかな。………見えるようになっただけでも、声が聞こえるだけでも、大進歩なんだよね。真砂子には感謝しなきゃ」
「……原さんを呼び戻したのか」
「うん。詳しい話は後でするけど。これね、あのガラス玉なの。作ってくれたのはリンさん」
 細い指先が、胸元の小さな紙包みを示す。
「ナルがサイコメトリしたのじゃなくて、別のだけど。これを持ってたら、ここで話ができるかもしれないって発案してくれたの、真砂子なんだよ」
 ナルは敢えてコメントせずに、話題を変えた。
「………状況は?」
「まえ、説明したの、聞こえてた?」
「聞こえた。さっぱり要領を得ない説明だったがな」

「悪かったね!こっちだって混乱してたんだから!」
「…………」
「だいたい、誰かが無謀なことしなきゃこんなことになってないでしょ!」
「…………」
「すごく………ものすごく吃驚したんだからね!」
 答えを待たずに、強い口調で、けれど泣きそうな瞳で、息もつがずに勢いに任せて言葉をぶつける。
 麻衣の瞳を見返して、ナルは何も反論せずに息をついた。
「…………悪かったな」
「ほんとに。………心臓止まるかと思ったんだから」
「わかった」
 感情を見せない低い声が耳に響く。

「………ごめん。状況だったよね」
 息を整えて、麻衣は声のトーンを落として続けた。

「結局、ガラス玉の持ち主についてはよく分からなかったんだけど、時代的には四百年くらいまえのものじゃないかって安原さんが。詳しい説明は戻ってからね。あと、過去帳もしらべてくれたんだけど、やっぱりそれくらい前になると残ってなくて、ナルの情報待ちな感じになっちゃってる。それから、真砂子の霊視でも、他の霊の干渉は感じられないって。綾子も、祠のところの樹に聞いてくれたんだけど、肝心の樹の方が若くてよく分からないみたい。でも、悪いものじゃないことは確かだろうって」
「お前は?」
 言葉を遮るように問われて、麻衣は一度二度、目を瞬いた。
「え?」
「お前の意見は?」
 凪いだ声のトーンは変わらない。
 麻衣はぱちりともう一度瞬きして、そして微かに笑った。

「あたしも、悪いものじゃないと思う。………ただ、障壁、球形だよね」
「そうだな。……破るのは難しいか」
「うん。リンさんもそう言ってた。それに、下手に破るとナルが危ないでしょ。………生身のまま取り込まれたくせに。大丈夫なの?」
「今のところは」
 凪いだ声のトーンも、口調も変わらない。けれど、麻衣は溜息をついた。
「今のところは、ね。………何か指示ある?一度戻って、それからそっちに行けるかどうか試してみるから」
「データはどうなってる」
「ナルの指示はそのまま。あと、昨日から、かりてきたビー玉を、サーモグラフィーと赤外線カメラと、それから電波のレーダー?名前わすれたけど、電磁波測るやつ」
「ああ」
「で、データ取ってる。あ、あと暗視カメラ」
「麻衣にしては上出来だな」
「他はともかく、電磁波のは結構いいデータとれてるみたいだよ。他に指示は?」
「そのままでいい。………それから麻衣」
「なに?」
「無茶はするな」
「今回は、ナルにだけはいわれたくない」
 琥珀色の瞳はうって変わって怖いほど真摯で、ナルは反論を封じられる。
 漆黒の瞳を数瞬見つめて、麻衣はにこりと笑った。
「他に指示はないんだよね」
「ない」
「それじゃちょっと待ってて。すぐ行くから」
 昨夜と同じように、麻衣の笑顔が白い闇に溶けて消える。
 ナルは胸裡に深く溜息をついて、消えていく気配のさきを見送った。

 少女の姿が目の前で薄れて、そして消える。
 おそらく、自分がしたのと同じことをするつもりなのだろう。麻衣のいうとおり、今回に限っては、彼女の無茶を咎める権利は、自分にはない。
 そして、時間をおかずに彼女は戻ってくるだろう。
 結界を解く鍵は、まだ見つからない。

 焦燥の裏で、また、記憶のかけらが箱庭のような小宇宙に映される。


    †


 四つ目の記憶は、「たいせつなお客様」に初めて引き合わされた時。

 みよに連れられて、奥の座敷に通された。
 たいせつなお部屋だから子どもは入ってはいけませんと普段から厳しく言われている部屋に、上等な着物を着せられて連れて行かれれば、どうしても緊張する。そして、思いがけない「冒険」にわくわくする。

「茅さまをお連れ致しました」

 からり、と引き戸を開いて、みよが手をついて、床に額が触れるほど深く頭を下げた。

「ああ、この子が楓どのの弟か」
「はい。まだ幼い子どもにはございますが」
「いや、利発そうな子だ」
 生垣の向こうに見た青年が上座に座って、微笑を浮かべてこちらを見ていた。

 背中の向こうで引き戸は閉まってしまったし、みよはもういない。どうしたらいいのかわからずに立ちすくんでいると、父親の隣に控えていた姉が静かに歩いてきて、弟の手を引いた。
「だいじょうぶよ、いらっしゃい」
「かえでねえさま」

 直接、話をするのは久しぶりだった。
 姉の顔は綺麗になった気がしたけれど、細い優しい手の感触は憶えているそのままで、彼は安心して姉の隣に座る。
「ちがや、お殿様にごあいさつなさい」
 やさしく促されて、幼い子どもは教わったばかりの作法でぎこちなく頭をさげた。
「はじめておめにかかります。ちがやともうします」
「良い子だな。幾つになる?」
「しんねんに、九つになります」
「そうか。………しっかりした子だ」
「ありがとうございます」

 穏やかな微笑みに礼を述べ、父親は息子を姉の後ろに下がらせた。見上げた姉の瞳には優しい微笑みが浮かんでいて、彼は安心して緊張を少しだけほどいた。

 けれど。
 後から思えば、このときには既に、何もかも決まっていたのだ。
 幼かった彼を蚊帳の外において、何もかも。
 けれど、彼は彼の世界がもうすぐ壊れることを、無垢な小宇宙に修復不能なひびが入ったことを。
 まだ、気付くことも許されなかった。

 壊れそうな優しい世界は、まだ完全で安全な小宇宙である夢を見る。


    †


 「ちがや」は、夢を見ている。
 壊れると分かっているのに、夢を続けたがっている。
 この硝子玉を埋めたときには無意識だっただろう、幼い頃の夢のつづき。
 
 失いたくない。

 それだけの想いで、過去を繰り返して、完全でやさしかった小宇宙を壊せない。
 失った事実と、記憶は変わらないから、気付かないまま傷ついた幼い心は築いた宇宙を壊せない。

 失いたくない。
 側に居るのがあたりまえだったのに。
 ただ、うしないたくない。

 韻く想いは、最初からずっと変わらない。
 訳の分からないまま、唯一無二の存在を、自分ではどうすることもできない領域で奪われた。
 恨みにも、憎しみにもならずに、ただ、圧倒的な喪失感だけが残る。それに耐えられないまま、変わりようのない記憶を繰り返す。

 けれど。
 ウシナッタハズハナイ。
 そんなふうには、記憶を歪んではいない。現実を事実としてきちんと受け入れられるほどには、「ちがや」は純粋で強かったのだろう。
 
 ここにあるのは封じられた幼い心だけで、憎しみも恨みも悲しみすらもない。だからこそ「結界」はかたく、これまで崩壊することも濁ることもなく、そして、それ以上にこれを解くのは簡単で、難しいだろう。
 恨みや悲しみは浄化できても、「失いたくない」という想いを否定することも浄化することはできないのだから。


    †


 五つ目の記憶は、姉に呼ばれた日。

 あらたまって姉に呼ばれるのは、憶えているかぎり初めてのことだった。
 姉の部屋で、向かい合って座ったのに沈黙が続いて、なにか良くない予感が募る。愛しげに、切なげに彼を見つめていた彼女は、そっと溜息をついた。
「かえでねえさま?」
「ちがや……」
「どうしたの?ぼくを呼んだの、なにかあるんでしょ?」
「あのね、ちがや。ねえさまが、ここからいなくなったら………どうする?」
 静かな、しずかな声。
 幼い子どもは息を飲んで………そして、問いかけた。
「かえでねえさま、おうちからいなくなるの?」
「………ええ、いなくなるの」
「どうして?いやだよぼく。どうしていなくなるの!?」
 泣き出しそうになった弟の肩に手を触れて、楓は頷いた。
「泣かないで、ねえさまのお話を聞いて?」
「……………」
「ちがや?」
「はい」
 小さなこぶしをぎゅっと握りしめて涙を堪えた弟を、彼女は哀しい瞳で見下ろした。
「この前、いらしたお客様、憶えている?」
「おとのさま?」
「そう。………あの方の所へ行くの」

 「今」なら、何故と聞くまでもなく、姉がどうして望まれたのか分かる。
 姉は、美しかったのだ。おそらく狩りにでも来て見初めた領主が、姉を求めて通い詰めていたのだろうとわかる。それで、姉がずっと悩んでいたのだろうとも、考えるまでもなく推測できる。
 けれど、当然ながら、まだ幼い子どもだった茅には分からなかった。

「どうして?」
「………あの御方はね、私達のご領主さまなの」
「うん」
「あの御方の所に、去年お輿入れがあったのね。分かる?」
「うん。都のお姫さまがおよめいりって」
「よく覚えているわね」
 わらって、彼女は頷いた。
「そうよ。都から、茜姫さまとおっしゃる姫さまが、あの御方の所にお嫁入りなさったの。でもね、茜姫さまはまだ御歳十二でいらっしゃるから、お生まれになった都を離れて心細い思いをなさっているの」
「十二?お嫁入りには、早いよねえ?」
「そうね。でも尊い方々はそういうものみたい」
「ねえさまは、その、あかね姫さまにお会いしたの?」
「ええ、一度だけ、こちらにお殿様とご一緒にいらっしゃったのよ。………それでね、お殿さまが、姫さまの、姉がわりの話し相手を捜していらっしゃったの。私はちょうど歳も四歳上でちょうどいいし、うちは先祖を辿れば姫さまのおうちから出ているから」
「………それで、ねえさまが行くの?」
「そういうことになったの。………ごめんなさい、ちがや。私はあなたのねえさまなのに、領主さまと姫さまにどうしてもって頼まれてしまったら、お父さまでもお断りはできないの。ごめんなさい」
 細くて温かい腕が子どもを軽く抱き締めて、離れる。
 楓は白い手箱を取り出して、弟の前に置いた。白い手がふたを開けると、中に詰められたガラス玉が燈明の光をはじいてきらめく。
「これ、お殿様に私が頂いたものだけれど、ちがやは気に入っていたでしょう?あなたにあげるわ。………ねえさまがいなくなっても、父さまと母さま、それにみよの言いつけをよく聞いて、立派になってね」
 楓はそれだけ言うと、静かに立ち上がって奥の部屋に姿を消した。

 綺麗に澄んだガラス玉。
 きらきらと、幼い手にこぼれる美しい光の珠。
 けれど。
 優しかった世界は、もう二度と戻らない。

 姉が閉めた引き戸が、かたんと音を立てるのを、彼はただどうすることもなく、聞いた。


    †


 幾度目なのかも分からない。
 記憶のかけらは再び拡散して、ナルは傍らの温もりの存在に気付いた。

「麻衣」
「うん、ちゃんと来れたよ。ちなみに、誰かみたいに実体で吸いこまれたりしてないから」
「生憎と、僕は研究が専門なもので」
 にっこり笑顔の皮肉に皮肉を返す。それから、ナルは麻衣に手を伸ばした。
 しなやかな長い指先が、やわらかな髪を梳いて、ほおに、そして華奢な肩にそっと触れる。
「面白いな」
「何が」
「実体が幽体に触れる」
「……………馬鹿」
 凪いだ声と、やさしい指先。
 視線は外れたまま、溜息だけが同調する。
「確かに馬鹿だな。………見ていたのか?」

 展開されていた記憶のかけら。
 集中していたから、麻衣がいつ「ここ」に来たのかは気付かなかった。

「すこしだけ。最後の方だけかな。………でも、だいたいどういうことかは分かった」
 琥珀の瞳に、わずかに痛みを含んだ微苦笑が浮かぶ。
「ナルが同調しちゃったのは、あの男の子でしょ?それで、多分あの子のお姉さんが「領主さま」のところに行かされるんじゃない?」
「よく分かるな」
「よくある話だからね。あの女の子、美人だし。核になってる子のお姉さんでしょ」
「日本の歴史的背景から考えると?」
「そういうこと。ガラス玉の年代から考えてもね。……さっきも言ったけど、歴史的なことについては、ここから出てから、多分安原さんが詳しく説明すると思う」
「分かった。………今はとりあえずここから出ることが先決だな」
「うん」

「それで、何か考えた?」
 見上げてくる少女の瞳に、苦笑を返す。
「データがなさ過ぎるからな。見ている限りで分かったことは、核があの子どもだということと、どうしても失いたくなかった世界をこの障壁の中で繰り返しているということだけだ。ただし、意志の入らない、ランダムな記憶の再生だが」
「どうしても失いたくなかった世界?」
「そう」
「………お姉さんを?」
「手の届かないところで、失った、という傷だろう。……核になっているのは、あの子どもの、硝子玉を埋めた時点の彼の思念だろうな」

 自分にはどうしようもないところで、たいせつな存在が奪われる痛みなら、身に沁みて知っている。
 壊れそうな心を守るための結界を、自分もまた、心に抱えている。

 顔を上げていたわけでもないのに、表情を読みとったようなタイミングで、ナルが麻衣の頭を軽くはたいた。

「考え込むな。同情してもどうなるものでもない」
「わかってるよ」
「記憶は歪められていない。込められた思念が強すぎて、出口を見失っているだけだ。………上手く誘導できれば、結界はほどける」
「上手く誘導できれば?」
「そう。恨みも憎しみもない。歪みもない。姉に対して固執しているわけでもない」
「…………珍しいくらい問題の少ない霊だね」
「ここまで行くと、すでにゴーストですらないな。………専門外だ」

 麻衣はくすくす笑って、見慣れた美貌を悪戯っぽく見上げる。
「捕まり損?」
「データによる」
「…………一応ね、あたしがこっちにくるまでのは、綺麗にとれてたけど?異常はほとんどないんだけどね、ただ、電磁波のは特に有望みたい。さっきもいったけど」
「それならフィフティだな」
「研究馬鹿」
「何を今更」
 美貌に、綺麗すぎる笑みが浮かぶ。
「珍しい現象なことは確かだろう?」
 麻衣は漆黒の瞳を数瞬見つめて、それから溜息をついた。
「所長がそうおっしゃるんならそうなんでしょうね!」
「そうでも考えないとやってられない」

 低い声で返された答えは意表をついていて、麻衣は思わずナルの顔を見上げた。整いすぎた冷たい白皙は、なんの表情も映していない。
 何か言いかけた麻衣の唇を冷えた指先がおさえて、視線だけで「箱庭」を示した。

 視線の先で、最後の記憶のかけらが、再生される。




 最後の記憶は、去っていく姉を乗せたくるま。
 
 話をすることさえできなかった。
 別れの挨拶をすることさえも、できなかった。

 おそらく「おとのさま」から贈られたのだろう、みたこともないような豪華な赤い着物を着た姉は俯いたまま、父親と、涙を抑えた母親に一礼すると、一言も漏らさずに迎えのくるまに乗った。
 
 姉は美しかった。
 そして、もう二度と逢えないのだと、誰に聞かなくても分かっていた。遠くに、自分の手の届かないところに行ってしまったのだと、幼いながらも解った。

 そうして、彼の小宇宙は壊れてしまった。
 やさしい姉は戻らず、そうして幼い子どもははっきりと外を見る。

 そこは安全でも優しくもなかったけれど、今までの世界とはくらべものにならないほど、どこまでも広かった。


    †

 去っていくくるまを凝然と見送る子どもの背を、琥珀色の瞳が見つめる。記憶のかけらが映す光景が消えても、麻衣はしばらく動かなかった。

「ナル」
「これが、最後?」
「僕が今まで見た中では、時系列的には最後だな」
「ここまでの記憶を、ずっと繰り返してるの?」
 振り返らないまま尋ねる麻衣に、ナルは口調を変えずに答えた。
「今まで見た中では」
 ナルの答えを聞いてから麻衣は一瞬目を伏せて、そして口を開いた。
「この子を説得しても、結界には影響しないと思う」
「………どうしてそう思う?」
「だって、込められてるのは、ガラス玉を埋めたときのあの子の心だから。あそこで投影されてるかけらは、その時の記憶だと思うから」
「そうだな。………記憶は記憶でしかないから、どうしようもない、か」
「うん。………違う?」
「いや。僕が出した結論も概略としては変わらない」

 ひとことで彼女の意見を肯定して、ナルは麻衣の瞳を見下ろした。

「それで、それならお前はどうする?」
「わかんないけど………。せめて、これを埋めた時点のあの子に会えないと」
「会えたら、説得できるのか?」
「わかんない。けど、それしか方法思いつかない」

 限定された打開策。
 他に策がなければ、それがどれほど危険でも、やってみなければ先は開けない。

「この状態の上に、さらにトランスインするつもりか?」
「だって他に手、ないもん」
 開き直ったらしい麻衣はきっぱり断言して、違う?と小首を傾げてみせる。

「ナルにはできないでしょ。たとえそうじゃなくても、説得とか苦手だし、どう見たってよれよれだし。ちがう?」
「……………」
「で、ナルができないんだったら、あたしがやってみるしかないじゃん」
「危険なことは」
「もちろん分かってるよ。最悪の場合、あたしが取り込まれるってことは知ってる。当たり前だけど、それはあたしも嫌だから気をつける」
「………とりあえず僕だけ戻せばいいとか馬鹿なことは考えていないだろうな」
「一応はね。………まあ、ちょっとは思ってるけど」
「麻衣」
「あたしが一人で戻るより、ナルが戻った方が戦力的に強いの。とりあえずは病院に行く方が先だと思うけど。あたしは生身じゃないから、そんなに急がなくても何とかなるから。でも、ナルはかなりきついでしょ。………それに、所長は調査員を見捨てたりしないでしょ?」
「麻衣」

 繰り返して名前を呼ばれて、麻衣はまっすぐに闇色の瞳を見上げる。
「なに?」

「………最善策は?」
「もちろん、彼を説得して、結界を解かせること」
「それが分かってるなら、いい」
 麻衣はくすりと笑って、彼の耳元に唇を寄せる。
「見捨てないでね」

 一言だけ囁いて、温もりの気配だけを残して。
 麻衣は、空間に溶けるように、消えた。


    †



 ガラスの中だと、麻衣は思った。
 透明で、けれど屈折していて、あわい青い色に染め抜かれた世界。

「障壁の中、かな」
 ちいさく呟いて、「鍵」を探す。
 しばらく浮遊を続けて、麻衣はランダムに探すことを諦めた。どこまでも続いているような障壁は、おそらく印象に違わず出口などないのだろう。
 危険があることは承知の上で、名前を、呼ぶ。
 もしかしたら、小宇宙を作る思念は、既に名前を失っているかもしれなかったけれど、他に方法を思いつかなかった。

「ちがやさん」

 高い声は、曖昧で透明なガラスの屈折の中で、反響することもなく消えていく。

「ちがやさん、茅さん!」
 諦めない麻衣の前に、何度目かの呼びかけで、はじめはぼんやりと、そして次第にはっきりと、十二、三才の少年が姿を現した。

「茅は僕だ。呼んだのは……お前さまか」
「はい、そうです。お姉さまから頂いた珠を埋めたのは、あなたですか?」
 はるかに年下の子どもに、麻衣はていねいな口調で問いかける。
「そうだ」
「なぜ、そんなことをなさったのですか」
「………楓姉上が、いま幸福でいらっしゃるか、そんなことは分からない。あの頃は分からなかったが、殿様は誠意を尽くされたと、今は分かる。ただ、あの硝子玉はあのときの姉上を思い出させて、あの時、お別れも言えなかったことが悔やまれたから」
「そうしたくなくて、区切りをつけたかったのですね?」
「そうだ」
「そうしたら、その思いが籠もって、こんなところができてしまった?」
 おさえた声で問われて、彼は頷いた。

 分かっていても、何がどうなっているのかはよく分かっていないのだろう。戸惑った表情は変わらない。
 その茅に、麻衣は重ねて問いかける。

「今、中に、ひとが居るのは分かりますか?」
「わかる。……おさないころの僕に同調したのか………呼んだつもりもないのに」
 嘆息した少年を、麻衣は真剣な瞳で見つめた。

「あの人を、元の場所に戻せますか?傷付けないように」
「それは簡単だと思う。同調してここに入ったなら、僕が同調を解けば戻れるだろう?」
「では、そうして下さいますか。外に、あの人を待っている人がいます。それに、生身であなたの世界に居るのは、とても苦しいものなのです」
「それは気付かなかった」
 ほんとうに初めて気付いたように、麻衣を見上げて、茅は頷いた。
 澄んだ黒い瞳を屈折したガラスのきらめきに透かすようにして、それから長いまつげを伏せる。組むように額においた小さな手と、水干の袖が少年の表情を隠す。

 時間にして数瞬、それから彼は手を下ろして、麻衣を確認するように見上げた。

「あの男は外に出た。………初めてだったから、少し手荒になったかもしれないが、無事なはず、だ」
 微妙なトーンに気付かなかったわけではなかったけれど、麻衣はほっと力を抜いた。
 緊張していた貌が綻ぶ。

「良かった………。ありがとうございます、茅さん」
「お前さまは出なくて良いのか」
「もちろん、出なければなりませんけれど。………あなたはこの、硝子玉のなかの世界を、作りたかったのですか?」
「これは、望んだことではない。………姉上も、きっと望まれない。でも、どうしたら良いのかもわからないのだ」
 困惑した表情の子どもに、麻衣はやさしく笑いかけた。

 これからが彼女のプロとしての「本番」で、絶対に気は抜けない。
「それでは、世界を、ほどきましょう」
「お前さまにはそんなことができるのか?」
「あたしにはできません。でも、あなたがそうしたいと思うなら、手伝うことはできます」
「どうすればいい」
 ひたむきな少年の瞳に見上げられて、麻衣はふわりと笑って目線を合わせるように膝をついた。




「ちがや、あなたはなにをしたかったの?」

 口調が変わる。
 やさしい女の声が、空気を変える。
 
 茅の意識の焦点が「麻衣」から、はずれた。
 少年はためらいがちに、けれど素直に口を開く。

「姉上に、せめて、お別れの挨拶をしたかった」
「それなら、そうしておいで?」
 今、ガラスを透かして見える記憶の残影は、最後のもの。ちょうど、赤い着物を纏った楓が、涙を抑えて両親に一礼してくるまに向かおうとしていた。

「できるのか?」
「できるよ。………あれは、あなたの記憶だから」
「姉上に、お元気で、と伝えることができる?」
 麻衣は頷いて、少年の、綺麗に結った黒髪を撫でた。
「あなたは、ここから続く世界を知っているし、それが冷たいばかりじゃないって知っているでしょう?だから、絶対に大丈夫」
「そうしたら、この、世界は?」
「多分、ほどけて、なくなる。………それは、いや?」
「………嫌ではない。姉上のお顔はしっかり覚えているし、あんな哀しいお顔をずっとさせておきたくない」
「それなら、大丈夫。行っておいで。早くしないと、くるまが出ちゃうよ」
「………そうしたら、僕は僕の所に戻るのだな」
「そう」
「お前さまは?」
 ふ、と。
 茫洋としていた茅の瞳が、目の前にいる娘を捉える。向けられた気遣うような瞳に、麻衣はにこりと微笑んだ。
「大丈夫。この世界がほどけたら、元の所に帰れる。だから、心配しないで、お姉さまにご挨拶、しておいで」
「……わかった。ありがとう」
「ううん。良かった」
 本心から、そう言った。
 綺麗に綺麗に、白い貌が笑みを浮かべる。
 少年も笑顔を返して、小さな身体をくるりと翻して、そして――――消えた。


  †


 急速に意識が遠のく。引き離されるような感覚に抗わず、目を閉じる。
 目を閉じていても、あのガラスのような屈折した空間から出たことは分かった。

 あの、障壁が消えたのだ。

 ちがやは、姉に別れを言うことに成功したのだろう。
 よかった、という思いで、ふわりと笑みが浮かぶ。
 白い闇に身体が溶けていく気がして、麻衣は意識をその流れに任せた。



 どうしようもない倦怠感が全身を縛っているのを、徐々に知覚する。
 やっぱり無理があったかなと内心で苦笑して、浮上していく感覚に身を任せた。

 瞼の裏に光が透けて見えて、もう大丈夫だと安堵する。側に、慣れた気配を感じて、力が抜ける。

 ゆっくりと、目を、ひらく。

 心配そうな、綾子と真砂子の顔が視界に飛び込んできて、麻衣はわらった。

「………ただいま〜〜〜」

「………ただいまじゃございません!!無茶苦茶をなさらないで!!お気楽にもほどがありますわ!」
 柳眉をつりあげて、反射的に怒った真砂子に、麻衣はかるく首を傾げる。
「無茶苦茶って………あれ?なんで知ってるの?」
「ナルが目を覚まして以来おかんむりで、男どもは酷使されてるわよ」
「あたくしは!報告して参りますわ!!大馬鹿な誰かさんが目を覚ましたと!!」
 さっと立ち上がった真砂子の袖が宙を切って、麻衣は首を竦めた。 
 ぱしん、と障子の音をさせて、けれど足音はほとんどさせずに真砂子の気配が遠ざかっていく。

「あちゃ。怒らせちゃったかな」
「あれでも、死ぬほど心配してたのよ。さっきまで泣きそうだったんだから、あの子」
「でも、着替えたんだね、真砂子」
 ちゃんと持ってきてはいたんだ、と呟いた麻衣に、綾子は頷いて、かるく笑った。
「あの子にとっては、仕事着というか戦闘服だからね。何かあった時を覚悟してたんでしょ。あとで謝りなさいね。………ナルにもね」
「みんなには心配かけて悪かったと思うけど。ナルには謝られる覚えはあっても謝る覚えはないんだけどな」
 首を竦めて、それから麻衣は眉をひそめた。わずかに考えて、綾子を見上げる。
「ナルといえば、みんなを酷使できる状態じゃないはずなんだけど。救急車で病院運ばれてるかと思ったのに。それこそあっちの方が無茶だよ。リンさんなにも言わなかった?」
「そんなに具合悪いわけ?そうは見えなかったけど」
「…………あの馬鹿!」
 がばっと起きあがろうとして、くらりとめまいが襲う。
 布団に突っ伏して事なきを得た麻衣を寝かせなおして、綾子が呆れたように叱りつけた。
「馬鹿はあんたよ、麻衣。幽体で、さらにトランス状態なんて奇妙な真似をするなんて、常識的に考えてまったく信じられないわよ。寝てなさい」
「だって、ナルほっといたら倒れるの!!すごい負担だったはずなんだから!!」

「それはこっちの台詞だな」
 からりとひらいた障子の向こうで、冷たい漆黒の瞳が布団の上の少女を見据えた。
「僕は、最善策は、と確認しなかったか」
「それはあくまで、最、善、策、でしょ!」
 最善策というのは、読んで字の通り最善の策であって、常にそれを取れるわけではない。
「ちょっとした都合でちょっと順番が前後しただけ!次善策くらいとれて、問題はなかったの!あとで説明するけど!」
「喚かなくてもいい。聞こえる」
「………」
「それで、本当なんだな?」
「うそついてどうすんの?」
「僕は本当かどうか聞いているんだが」
「本当。誓ってもいい。………だからお願いだから休んで。ていうか病院!!!」
「お前は黙ってろ」
 煩げに眉を顰めたナルの肩を、滝川がぽんと叩いた。
「まあ、ナル。麻衣の顔見たら、気が済んだだろ?」
「………ぼーさん」
「実はふらふらだろ?お前さん」
「…………」
「まーさーか。隠せてると思ってたわけじゃないよな?あの剣幕じゃ、麻衣が戻るまでは何言ったって無駄だと思ったから止めなかったけどな、顔色最悪だぜ?なんだったら鏡もってきてやろーか」
「……………」
「実地調査の締めと、あとのデータまとめを順調にやりたいなら大人しく病院に行きなさい、というのが、リンの伝言」
 畳みかけるように反論の接ぎ穂を奪って、滝川はにやりと笑った。
「病院の手配は住職さんと少年に頼んであるから心配ない。リンはもう車。麻衣は俺たちが見てるし、こっちは大丈夫だから、安心して点滴でも注射でもなんでも受けてこい」

 軽く息をついただけで滝川には一瞥も与えずに、漆黒の青年は、鋭い視線だけを少女に向ける。
「いいんだな?」
「報告はちゃんとするし、あたしは大丈夫。それより、ごめんね」
「別に」

 ふい、と踵を返したナルは、もう振り返らなかった。
 差し出した滝川の手は振り払ったが、いつもより明らかに歩調が遅い。
 馬鹿みたい、と呟いて見送った麻衣は、ぱたりと仰向けに布団に倒れ込んだ。

「麻衣!?」
「へーき。………ナル、大丈夫かな」
「大丈夫よ。明日は無理かもしれないけど、確実に明後日には復活するでしょ。そしたら報告書書きが待ってるわよ」
「そうかな。………あんまりね、みんなに心配かけるようなこと、したくなかったんだけどね」
「仕方なかったんでしょ。あんたはあんたにできる精一杯のことをしただけなんじゃないの?」
「うん」
「それだったらいいわよ。私も納得してあげる。みんなもそうだし、ナルも馬鹿じゃないんだから、その辺の区別くらい付くわよ。ねえ、真砂子」
「区別が付くからこそ余計に腹を立てているんですわ。あなたがた二人とも、信じられないくらい馬鹿ですわね。いつものことですけど」
 黒髪の美少女がぴしゃりと言って、優雅な動作で袂を払って麻衣の枕元に座った。

「まさこ〜〜〜っっ」
「情けない呼ばれ方をするのは嫌いですわよ。…………お話は元気になってからしか聞いてさしあげません。今日は休むことですわね」
「同感ね。………それとも、ナルと一緒に病院送りになりたい?」
「それは絶対に、嫌」

 きっぱり断言して、どこかしがみつくように布団の端を握りしめた麻衣に、綾子はくすりと笑う。
「それならここで大人しく寝てなさいな」
「松崎さんのおっしゃるとおりですわね。………明後日には確実に、鬼の所長が復活なさいますわよ」
「そうね。………とりあえず、所長代理、ごくろうさま」
 厳しい、けれど優しい笑顔。
 温かい空気にふわりと微笑んで、麻衣は目を閉じた。

「うん。ありがと。おやすみなさい」

 囁きは空気に溶けて、きっとナルにも、そして茅にも、届いただろう。




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