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――その時。 彼には、何が起こったのか分からなかった。 ただ。 ベオの。 知り合ったばかりの、イグナーダの落ち着いた声が聞こえ。 その言葉を。 その台詞を理解するまでに、少々時間が掛かったという事。 その短な間に。 彼女は、小さく舌打ちをして、空中に飛びあがったという事。 彼女の薄紫色の髪の毛が揺れ、見た事の無いピアスが見える。 真ん中から真っ二つに切り落とされた、逆十字。 真っ二つになったそれを繋ぎ合わせたが繋がらず、歪な縫合の痕が主張している。 ――壊れて、いる。 それは、分かった。 そして。 普通の人間の背中には、羽等生えていない事もまた、分かる。 ――何故? それだけが、ずっと分からなかった。 彼女が自分を何処へ連れて行きたかったのか。 それだけが。 どうしても。 ――分からなかった。 薄暗い林の中で、少年の真っ白な白衣は際立っていた。フィリエラに言われるままについて歩いてきたベオは、彼女の正確な勘に驚き、そして、見覚えのあるハーフエルフの少年の隣にいる人物を見て、更に驚く。 夜風に遊ぶ薄紫の髪。挑発的につり上がる朱い唇。 ベオは、その女にも見覚えがあったのだ。 だから。 ベオは言ったのだ。銃を取り出して、狙いを定めながら。 ――その女こそが、昨日隣の部屋に居た女だ、と。 つまり。 親玉だ、と。 リーフは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。ぎこちない笑みを貼り付け、隣の女を見やる。 女は、ベオを見て表情を消した。ちっと舌打ちをすると、ばさりと大きな翼を広げて浮かび上がる。明るい満月をバックに、黒い翼はよく映えた。 蝙蝠の比翼のような形をした、暗い影の結晶。 そんな、黒い翼で空中にゆらりと留まりながら、ステラはリーフに話しかける。 「ゴメンね、邪魔が入っちゃった。さっきの話は、また今度ゆっくり、ね」 口調だけは、リーフのよく知るステラと何処も変わりは無い。だが、表情は違う。ころころとよく変わるその顔には、今は何も浮かんでいない。能面のような無表情。それはまるで、腹話術師が何処かでステラを操りながら話をしているような、奇妙な光景だった。 「今度があると、思うか?」 「あるわよ。必ず、ね」 自信たっぷりな口調とは裏腹に、やはり彼女は無表情のままだ。何処かアンバランスに見えてつり合わない。 「さっきのレッサー・ヴァンパイアは、お前の仕業だな? 足止め用ならもっと頭数を用意しておく事だ」 「足止め? 別にそんなんじゃないわよ。あたしはただ、お腹が空いちゃっただけ。まぁ確かに、一寸小細工はさせてもらったけど、頭数を増やすだなんて。そんな無駄に食い散らかすような下品な真似はしないわ」 髪を掻きあげ、無造作に言ってのける。リーフがぴくりと反応した。 「……お腹が、空いちゃったって……?」 「だって。食べないと死んじゃうから。食べ物があれば食べなきゃ。我慢してたら生き残れない、そうやってあたしはずっと生きてきたのよ?」 無表情な口元から生み出される言葉は、やけにリアリティを持っていた。声が途切れ、躊躇うような沈黙が流れる。ステラがリーフに視線を移した僅かな隙を、ベオは見逃さなかった。 かちりと激鉄を上げ、真っ直ぐに彼女の頭を狙う。 「残念だが、次は無い」 ――パァーンと、発射音が辺りに鳴り響いた。 カツン、と小さな音がリーフの耳に届く。 ステラのピアスが地面に落ちた音だ。 こんな林の中でそんな小さな物が落ちた音がこんなにも響くものかと不思議なほど、その音は彼の耳に鮮明に聞こえた。 ステラは、吹き飛ばされたピアスの留め金に手をやり、初めてはっきりと口を笑みの形に歪める。その紅い瞳には、姿勢を崩して尻餅をついたベオと、彼の腕に飛びついたままのリーフの姿が映っていた。 「ありがと、リーフ。これで、今度があるわね」 前半と後半では、向けられた相手が違う。尤も、リーフは彼女の方を見ていなかったし、ベオももう諦めた様子で彼女を見てはいなかったのだが。 だから、彼女の会心の笑みを見た者は、その二人以外の人物だったという事になる。 その笑みを見た全員が全員、リーフが見なくて本当に良かったと心から思える、総毛立つような笑みだった。 ステラはその台詞を最後に、音も無く月の向こうへと飛び去った。見ていた者も、後を追おうとはしない。この場で空を飛ぶ相手を追跡出来るのはエルゥとリーフだけであるし、そもそもエルゥはそんなに空を飛ぶのが得意ではない為、例え追いかけたとしてもすぐに振り切られてしまうだろう。 だから、誰も追わない。 「……もう、離してくれても良いだろう?」 自分の腕にしがみ付いたままのリーフに、静かにベオは言った。少しだけ時間をおいて、リーフはのろのろと彼の腕を解放した。そのまま、地面を見つめて座り込んでしまう。 本当に――。 昨日は、俺の部屋だと、思ったんだ。 俺を迎えにやって来たんだ。 ――何故? ステラが、ヴァンパイア? そんな事は――無い。 それは、幼い時から一緒にいた、自分がよく知っている。 でも。 さっきの、アレは。 ただの人間なら、羽なんて生えるわけがない。 別人、かな? もし――そうなら。 どれだけ、嬉しい事だろう。 ――だけど。 そうじゃない。 どれだけ違っていても。どれほど良く似ていても。 間違える、わけがない。 あれは。 ステラ、だ。 彼女以外の、何者でも無い。 脱力したように座り込み、ただ地面を見つめていたリーフの耳にエルゥの耳障りな声が届く。見覚えの無い派手な色のチェックスは、どうやら先程ベオの弾丸が弾き飛ばしたピアスを拾ったようだった。 「何や、これ。壊れたのくっつけたんかいな」 先程ちらりと見えた歪な形を思い浮かべ、確かにそんな風に見えたと心の中で呟く。十字架のようだけど十字架じゃない。壊れた十字架。いくら精巧に直しても、決して元には戻らない、壊れた十字架。 きっとあれは、そんな十字架だ。 「本当。壊れてるみたいね」 そう、白い耳と尻尾を持つラムリエの女が言い、一緒に覗き込んだ褐色の肌のイグナーダが頷く。ティルはそれを見つめ、ぽつりと言った。 「だけど、さっきの人……。ヴァンパイアだったとしたなら、こんな十字架の形したアクセサリーなんて身につけてて大丈夫なのかな?」 「言われてみればそうやな」 「ヴァンパイアってさ、十字架に弱いんじゃなかったっけ?」 壊れた十字架だからだ、とリーフは思う。 もうそれは、十字架の形をしているだけの、壊れた物だから、大丈夫なのだと。 その答えは、ベオが出してくれた。 「ヴァンパイアは、十字架そのものに弱いんじゃない。十字架を持つ者の、信仰心に弱いんだ」 色々伝わっていくうちに、肝心な箇所が抜け落ちてしまったようだがね、と先程と同じ静かな声で続ける。 「それに……その十字架は、一寸特殊だ」 彼の静かな声に、一瞬だが力が入ったのが感じられた。そこに何か嫌な予感を感じて、リーフは顔を上げて彼らの方を向く。 「ん〜、まぁ確かに特殊やがな。こんなケッタイな十字架、よう見かけへんで」 「……本当に、何も心当たりが無いのか?」 エルゥの方を向いたままの台詞だったので、その言葉が自分に向けられたものである事に気が付くまでリーフは数秒の時間を必要とした。やっと理解したベオの言葉に、彼は首を横に振る。 「やっぱり、俺には何も……」 ふむ――と深刻な顔で頷き、ベオは一度辺りを見回した。その場にいる全員から視線が集まっているのが感じられるのだろう。彼は一度顎を撫で、もう一度、ふむ、と言った。 「何も心当たりが無いのなら――忘れる事だ」 「――そんなッ! そんな事出来ません! 出来るわけないじゃないですか! ……あれはステラだ。ステラなんですッ。貴方は、何か知っているんでしょう?」 「知ってしまったら、後戻りは出来なくなる。今ならまだ、間に合う」 君の為に言ってるんだ、と諭すような台詞だった。リーフは両手を握り締め、ベオに向き合う。 「ステラはさっき、また今度って言いました。知らないままでもどうせ、彼女は俺の前に現れるんです。だったら――」 ――何もかも、知っておきたい。 次に彼女に会うまでに。知っておけるだけの情報を、全て。 リーフから真っ直ぐに視線を向けられて、ベオは小さくため息をついた。これは、誤魔化して終わるような事態じゃないと、心の中で独りごちながら。 「それなら。君がそこまで言うのなら、私が知っている事は話してあげよう。だが、まずは宿に戻らないか? 部屋でゆっくり話をしても良いだろう?」 ティル達を見、そう提案した。それは暗に、彼らには聞かせたくないと言っているのと同義語である。先程彼が言った、知ってしまったら後戻りは出来ない、という言葉はリーフを諦めさせるだけのはったり等では無かったという事だ。ステラには、あの十字架には本当に簡単に踏み込んではならない、安易に関わってはいけない大きな秘密が隠されているのだ。 重苦しい空気を、美少女が一言でぶち壊した。 「わらわは、知りたいぞ」 言い切って、フィリエラがベオに歩み寄る。彼女はベオを見上げて、もう一度同じ台詞を繰り返した。 「わらわは知りたいぞ。わらわには、知る権利があるからの」 「権利?」 妙に威圧的な話し方をする目の前の少女に、一瞬気圧されたように息をのんだ。美少女は似合わない険しい顔で、何か嫌な予感がするのじゃよ、と相変わらずの時代錯誤な言葉遣いで続ける。 「さっきのヴァンパイアじゃが……。アレは本当に、ヴァンパイアじゃったか?」 「……え?」 彼女の言葉に、思わずリーフが声を上げる。 「それは、一体どういう……?」 フィリエラは難しい顔のまま小首を傾げ、分からん、と言った。 「はっきりとは、言い切れん。じゃがの、何か、違うような気がしたのじゃよ。何処か、ただのヴァンパイアでは無いような気がな」 じゃから、とベオに言う。 「わらわは知りたいのじゃ。アレが一体何なのかを、な」 「……って、ちょいと待ちぃや! 何勝手に話進めとんねん! わいらはそんなん知りとうないわッ」 「フィー様! 探し物を探すのが優先です」 同時に抗議の声を上げた二人をちらりと見、うるさいのぅ、と呟いた。 「喚かなくても、そんな事は分かっておるわい。……ティル。お主は、どう思う?」 ぼそりと言って、唐突に矛先を黙りっ放しのティルへと変えた。いきなり振られて、彼は困ったように隣に立つエルゥを見たが、親友はぶんぶんと長い首を横に振るだけで何もアドバイスはしてくれそうにない。軽く頭を掻くと、意を決したのか答えを返す。 「俺も、知ってみたいよ。さっきのアレは、何処か変だったと思うよ、やっぱり」 「ほぅ。さっきのは、口からでまかせでは無かったという事じゃな」 にやりと高圧的な笑みを浮かべ、フィリエラが言う。言われたティルは、照れ隠しのようにまた頭を掻いた。エルゥがティルを見上げ、さっきのアレって? と小声で質問をする。 「……十字架の事だよ。どうして、十字架が何とも無かったんだろうって話」 こちらも、小声で返す。ただの勘だったんだけどね、という言葉は割愛して自分の胸の中にだけ仕舞っておく事にした。 「さ、これで二対二じゃ。リリィも下僕も、話を聞くという事で異論は無いな?」 何故半々でそういう結果になるのかは全く分からないところだが、リリィはもう反論する気が失せたようだった。エルゥもエルゥで「誰が下僕や!」と怒鳴り返しはしたものの、その内容について突っ込むつもりはこちらも無いらしい。つまり、二人とももう諦めたのであろう。 そんな彼らを見て、フィリエラは満足そうに「さて、そういう事じゃぞ」とベオに言う。 「さぁ、話してくれるな?」 ベオは、否定も肯定もしなかった。ただ、小さく息を吸い込むとぽつりぽつりと語り出す。 「この十字架は、『銀の十字結社』という組織の者が身につけている物だ。要するに、組織の者である証、と言ったところか――」 |