――白い、闇の十字架。


 ――黒い、光の十字架。


 二つの十字架は交差して、ゆっくり重なって行く。


 やがて綺麗に重なった十字架は、細かく振動を始めた。


 ……まるで、


 泣いてでも、いるかのように――


「――ッ!!」
 そこで、コハクは我に返った。思わず辺りを見回し、場所を確認してしまう。ざわざわざわと店の中の騒がしい音が耳に入り、彼はほぅっと息を吐き出した。
 ……また、だ。
 最初は、夢でしか見なかったのに。
 ――白昼夢。
 最近は、昼間も見るようになった。
 いつも同じ光景。二つの対極の位置にある白と黒の十字架が重なるイメージ。初めてそれを夢で見た、二週間ほど前から気になっていた。
 不吉な予感。
 災いの前兆。
 何故だか、そんな気がしてならない。
 そんな予感がそれ以来ずっと消えず、彼はフィリルアーにやって来た。
 とある人物を捜し出すために。
 この広い大陸に来て、人を一人捜し出すなんて、普通に考えたら到底出来ない事だろう。それでも、コハクはフィリルアーにやって来た。何かが起こるかもしれないというのに、それを知っていて何もしないでいるのは嫌だったのだ。
 それに、姉さんの『神託』もある。
「……あのぅ……どうか、しました?」
 頭を抱えて考え込んでしまったコハクを心配そうに見つめ、おずおずと声を掛けた青年。もちろんそれは、先程隣で昼食を取っていたノース=フリップであるが……
 そう。
 キールについて彼に出会ってしまったのが、最大の不幸だったのだろう。
「……いえ……少し考え事をしていただけです」
 そう言って、軽く頭を振る。そうすると、今まで髪に隠れていた右目の斜め下にある泣き黒子が露になった。紫がかった薄い群青の髪と、名前と同じ綺麗な琥珀色の瞳。それに挟まれて、黒い色の泣き黒子が奇妙に目立つ。
 コハクの答えに、ノースは苦笑いを浮かべた。
「考え事、ですかぁ〜。僕の、所為ですか、もしかして?」
「……どうして、そう思いますか?」
「僕の、というよりは、彼の、という気がしますけど……。まぁ、僕と彼は同じようなものですから」
「……今、彼はどうしています?」
「さぁ……。出るに出られなくて、暴れてるんじゃないでしょうかね?」
「まさか……あんなところに人がいるとは思いませんでしたからね。手加減無しで……」
 コハクの台詞は、途中で途切れた。その視線は、ちょうどノースの頭上辺りで固定されている。そんな彼を、ノースは不思議そうな顔をして見つめた。
「……手加減無しで……?」
「――あ……」
 ノースの言葉が語尾上がりになって、途中で止まったコハクの言葉を促す形になった時。
 ふわりと、自分の頭に何かが触れたような気がして、ノースは思わず上を見上げた。
 目に入ったのは、一面の白。
 自分の頭上から、人が落っこちてきたのだという事を理解する事が出来ないまま、ノースは落下してきた人間と一緒に床に倒れる羽目になった。顔中を、今の白いものは何だろう、という疑問で一杯にして。
「……人が、落ちてきましたよ」
 危ないですよ、と言いそびれ、コハクはぽつりと呟いた。もちろん、その台詞がすでに意味の無いものになっている、という事は重々承知の上であったが。
 ざわざわと、店の中の視線がこちらに集まっている事に気がつき、コハクはここから逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。今ここで逃げ出してしまえば、ノースとも関わりが無くなってしまう訳だし……。
 そのノースはといえば、彼の真上に出現した挙句、断りもなく彼を押しつぶしてくれた少年……リーフの小柄な身体の下からようやっと這い出たところだった。コハクが逃げ出そうかどうかと迷っている時ににっこりと少し情けないような味の混じった笑みを向けて来たので、その笑みを受け止めたコハクも結局ここから逃げ出すわけには行かなくなってしまった。
 しょうがないので、ノースと一緒に落ちてきた少年を覗き込む。
 と、ちょうど同じタイミングで当の少年も目を開ける。がばっと身体を起こすと同時に彼は自分の右腕、右の二の腕を押さえた。それにつられるように、二人の目線もそちらへと向かう。
 少年の白衣はすっぱりと切れ、赤く染まっていた。
「怪我を、しているのですか?」
 それが、コハクがリーフにかけた第一声だった。声をかけられたリーフの方は、コハクの方を見もせずにきょろきょろと店内を見回していたが、それが一通り終わった時、やっとコハクの方をまともに見た。それはむしろ、周りを見ていたら彼がちょうどそこにいたから見た、というような感じだったとコハクは思う。
「ココは……キールの、水晶亭ですよね?」
 リーフが口にした水晶亭というのは、彼が泊まっている宿屋の名前である。つまりは、彼の瞬間移動テレポートの目的地の事である。自分が問うた事柄と全く違う答え……それも質問で対応されて、コハクが「え?」という表情を浮かべている間に、横からノースが「そうですよ〜」と相変わらずな口調で答えた。
「もっとも、水晶亭は二階からですけどね〜」
 水晶亭とは冒険者宿とバーが一緒になっている場所で、一階がバー、二階からが宿になっているという建物だ。だから、今ノースが言った事はそれを指しているものだろう。
 その答えを聞き、リーフの顔にふっと安堵の表情が浮んだようにコハクには見えた。が、それも一瞬。この突然虚空から現れた少年はすぐに何かに追いかけられているような表情をして、ふらふらと上へ上がっていこうとする。その時のリーフは、「俺、急いでるんです」という言葉を身体中から発しているようなものだった。誰が見てもその声の無い言葉は、彼の少し大きめに見える白衣を鮮やかな赤で演出している右腕の怪我と同じぐらいには明白に主張していた事だろう。
「あ……ちょっと待って」
 歩き出したリーフに、「その怪我は?」ともう一度聞こうとして手を伸ばす。その時、彼の白衣に触れ、そのポケットからカツンと小さな音を立てて何かが落ちたのが見えた。その「何か」を拾ったのはノースである。横で傍観していた彼の方が、白衣に手をかけていたコハクよりもそういった反応は早かった。
「コレ……落ちましたよ」
 そう声を掛けられたのも気がつかなかったらしい。少年はふらふらとした足取りの割りには驚くようなスピードで、階上へと上がっていってしまった。後に残された二人は気まずく顔を見合わせ、
「一体、何を落としたんです?」
「……さぁ?」
 にこにこっと首を傾げ、差し出した手のひらの上には、変わった形をしたピアスが乗っていた。十字架を縦に割り、上下にずらしたところでまたくっつけたような形をした、銀色のピアス。
 ――壊れた、十字架。
 それを見て、ひゅっと小さく息を呑む。そして、弾かれたようにリーフの昇っていった階段を見上げた。
 彼を逃がしてはならない。
 『神託』の答えはここにある。
 直感、もしくは第六感としか言い様の無い漠然とした確信がそう告げていた。その感に引きずられるようにしてコハクは脇に立てかけていた六尺棒を手に持つと、先程リーフが上っていった階段を一気に駆け上がった。


「帰り、遅いね」
 水晶亭の二階にある一室。その窓際でティルが口にした言葉は、ここにいる誰もが感じ始めていた事だった。朝食の時、リーフがちょっと用事があると言い、珍しくフィリエラがそれについて行くなどと言い出したので、リリィもそれに同行すると言ったのだがそれは当のフィリエラ自身に拒否された。
「なにかのぅ〜。いつもいつもお主と一緒というのにも飽きてきたのじゃよ」
 そう、本当につまらなさそうな顔で言い捨て、彼女は街へ行ってしまった。それを聞いたリリィが絶句しているところへエルゥがちょんちょんと口を出す。
「あんな〜、リリィちゃん、もーちょっと普通にフィーちゃんに接してやったらどうなん?」
「……普通?」
 リリィは少々怪訝な顔をした。彼女にとって、今までのフィリエラに対する態度が普通だったのだから無理も無かった。代々巫女である彼女の一族にとってのフィリエラ――終末の聖母ラストマリアは絶対な存在だったから。小さい時から、ずっとそうやって聞かされて育ったリリィにとって、エルゥの言う「普通」という言葉の意味が意図するものは一体何なのか、よく分からなかったのだ。
 その反応に、エルゥは小首を傾げた。
「普通は普通や。わいらと接するのと同じように接したらいーんやないかって言っとんのやで」
 単純に不思議だった。リリィとフィリエラの遣り取りを見て、いつも思っていた事だった。
「わいらはな、フィーちゃんが終末の聖母ラストマリアやって頭っから信じとるわけやないんや。だから……いや、そんな事は関係おまへん。わいらと同じように接してやらんとフィーちゃん、可哀相やで?」
 可哀相。その言葉に、リリィはぴくんと反応を示した。
 ――いい、リリィ。終末の聖母ラストマリア様は普段はこの中でお休みになっておられるの。きっと、お一人で寂しい思いをしていらっしゃる事でしょうから、ちょくちょくここへ来てお話でもして差し上げるのよ。
 まだ幼い彼女にそう言った話をして聞かせたのは、彼女の母だったのかそれとも祖母だったのか、記憶はぼんやりとして釈然としない。
 そして幼い自分はその人物に向かって、こう返事をしたような気がする。
 ――でも、眠ってるんでしょ?眠ってたらお話しても聞こえないよ?
 ――眠る前にご本を読んであげるでしょう?リリィはいつも途中で眠っちゃうけれど、お話を知っているような気がしない?
 ――……うん。夢で、続きを見るの。
 そうでしょう?と記憶の中の人物はやんわりと微笑んだようだった。誰の笑みだったのかは覚えていないのに、それがとても暖かい力を持った笑みだったという事を、彼女は鮮明に記憶していた。
 ――だからね、貴女もお話してあげて。自分の事や世界の事を。フィー様に伝えてあげて。
 ――うん。一人っきりは可哀相だから、あたしがお話してあげる。夢を見て、楽しく眠れるように。
『一人っきりは、可哀相だから』
 確かに自分はそう言った。まだ幼かったあたしは――
「一人だけ特別扱いされるちゅうのは寂しいもんや。どんな類いの『特別』扱いであっても寂しいんとちゃうかいな?」
 すぐに、ちゅうのは無理でも、少しずつ普通に接していったらいーんちゃうかな、とエルゥは言い、そこでこの話を切り上げた。
 それから約六時間半。すでに一日の四分の一が過ぎてしまっている。昼食を取った時に一緒になったまま、ティルとエルゥ、リリィとべオの四人はティル達の部屋に集まっていた。特に何をするわけでもないが、ティルとエルゥを抜かし、それぞれ同室になっている相方が出かけて行ってしまっているので、何となく残った者同士で一緒になったのである。
 リーフは出かける前、多分昼食過ぎには戻って来る、と言っていた。しかしすでに昼食はおろか、そろそろおやつの時間に差し掛かろうかと言う時刻になってきている。何故だか本人も気がついていなかったようだが、リーフは狙われているようだし……。そういったところから、先程のティルの台詞が生まれてきたのだった。
「べオさん、リーフ何処に行くって言ってたか聞いた?」
 ティルの問いに、べオはあっさりと首を横に振る。口数は少ないが、嘘をつくような人物ではない(そして今ここで彼が嘘をつく理由も見つからない)ので、ティルはまた窓の外をぼーっと眺めた。
『ここを出たら港町キールに向かうとしよう。面白い事が起こりそうじゃからの』
 あの言葉。
 カーラ村でフィリエラが面白く無さそうに呟いたその言葉が、ティルの頭にこびり付いていた。
 フィリエラは面白い事、という言葉を使いはしたが、彼女のあの時の様子から言って本当に面白い事が起きるわけではあるまい。要するに、面倒な事、厄介な事……そう言った事柄を揶揄する意味を込めて、面白い事、と表現したのだろう。
 ここ、キールに着いたのは昨日の夕方である。すぐに水晶亭に宿を取り、そのまま夕食になった。昨日の今日である。何かが起こるにしては早すぎやしないだろうかとか、考えてみたら面白い事が起こる、と予言したのはフィリエラ本人なのだから、もし今それが起こるのだとしたら、わざわざリーフと二人だけで出かけたりはしないんじゃないかとか、勝手な推測だけがぐるぐるとティルの脳裏を駆け巡っていた。
 いつもなら、彼女のそんな言葉ぐらいで二人の安否を気にする程お人よしではない。だから彼は、今の自分の状態が虫の知らせとか、そういった言葉で表されるような状態だとは気がついていなかった。後でこの時の事を思い出して、そういえばあれは虫の知らせだったのかなーと思う程度である。まぁ元々、虫の知らせ自体がそういったものであり、後で考えて初めて虫の知らせだったかな、と気がつくものなのであるのだろうが。
「……何処行くんや?」
「ちょっと、外の空気に当たってくる」
 リリィとのおしゃべりを止め、エルゥが聞いた。ティルは戸口に向かいながら簡単に返し、内開きの扉に手をかけ引っ張った。鍵は、掛かっていない
 ……いや。
 引っ張ろうと、した。
 引っ張る前に、手をかけただけで扉が開いた。目の前に押し出された扉にぶつかりそうになり、慌ててティルは身体をよじる。その所為で身体が扉の後ろ側になり、何故扉が勝手に開いたのか、彼がその原因を知るのはこの場で一番最後になった。
「……リーフ」
 リリィがぽつりと呟いた。

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