「ファーランドに、渡りたい?」
 ベオの長い話を聞き終わり、口を開いたオズが言った言葉はそんなものだった。まさかね、と確かめるような響きを持ったその言葉は、普通と言えば普通の反応だろう。「本気?」と面食らったように呟くと、額に巻いている明るい黄緑色のバンダナをきゅっと締め直した。
「まぁ、ベオがこんな冗談言うような人じゃないの、分かってるけどさ」
 言われてベオはその通り、とでも言いたげな表情を浮かべた。そのあまりにあからさまな態度に、オズだけではなく黙ってベオに話を任せていたティル達も笑いを浮かべる。それは、今まで彼等が見た事の無い、彼等に見せた事の無い、ベオの一面だったから。
「はっきり言って、話は信じられないけどさ。でもま、条件次第では協力してあげるよ?」
「条件……?」
「多分、あまり難しい事を言うと、飲めないと思いますよ」
 怪訝そうに呟いたティルに、いつも通りのままでさらりと突っ込みを入れるコハク。二人の方を見やり、あははと笑うと「うーん、あまり難しい条件では無いと、思うよ」と少し考え込むようなポーズを見せて言った。
「僕もファーランドに連れて行って欲しい。これが、条件」
 ね、簡単でしょ?
 少年の大きな瞳がそう台詞を続けているのが、見て取れた。


 イスライア・アカデミーの中に足を踏み入れるのは一体何年ぶりだろう。
 昔と変わらないアカデミーの中を歩きながらふと、ケインの頭をそんな考えがぎり、感傷などらしくないと一人苦笑する。それでも、懐かしいと感じる気持ちはそう簡単に消えるものでは無く、目に映るもの、耳に聞こえて来る音、そしてこの、アカデミー独特の空気が彼の白衣をふわりと触って通り過ぎていく度、結局は同じ事を考えてしまうのだった。
 一度は生涯を捧げようと本気で思った場所だ。忘れようとしてそう簡単に忘れられるものでは無いだろう。懐かしいと思うぐらい、当たり前なのかもしれなかった。
 だが、その感情は彼に別の事をも思い出させてしまう。
 彼の心の奥底に封印したはずの、もう思い出したくない出来事までも。
 それはいつも、生々しい感覚と音を伴って襲ってくるのだ。
 まるで、思い出ではなく、今ここで同じ事が繰り返し行われているのでは無いかと錯覚してしまうほど、その記憶は生々しくて――痛々しくて。
 忘レテシマオウ――。
 忘レテハイケナイ――。
 忘レテシマエバ、許サレテシマウカラ――。
 許サレルダッテ?モウ十分、償ッタジャナイカ――。
 ――コレ以上、一体何ヲ望ム――?
 矛盾していた。未だに整理のつかない気持ちを抱え、心の奥底に仕舞いこんで鍵を掛けてしまったはずの思い出は、封印さえしきれないままぐらぐらと揺らいでいた。
 懐かしいと感じる場所。何度、帰って来たいと思ったか知れない居場所。
 そして、彼の記憶に直結している、唯一つの場所。
 ……奴を殺せば、気持ちの整理とやらがつくのだろうか。
 コロンと軽い音を立てながら頭に落ちてきた疑問は、音とは裏腹にずっとケインの心に重りのように圧し掛かっている質問だった。あの日以来、ずっとずっと彼の心に居座り続けている暗い疑問。エリザが見抜いていた、疑問。
 もう、決めてしまった事だ。今更、止めるわけにはいかない。
 それでも――
 忘れてしまえば良いのか。忘れてはいけないのか。
 その問いに対する答えは、まだ、出ない。


 キィ。
 軋んだ音を立てて開かれた扉の内側には、まず、本しか無かった。もちろん、探せば他の物だってあるのであるが、扉を開いてすぐ目に飛び込んでくるのが、膨大な量の本の山なのである。部屋の中にあるはずの机や本棚、そしているはずの人間ですら、本の山の中から掘り起こさないと見つけられないんじゃないかと錯覚してしまうほど、その部屋の中は本で埋まっていた。
 ああ。
 ここも、あの時のままだ。
 入り口で部屋の中を見回し(というのも、中に入るにも入れないほど本で埋まっていたので)ケインは一声「すいません」と声を掛ける。
 返事は無い。続けて二度呼びかけたが、中にいるはずの人物からの返事はやはり返って来なかった。もう一度呼びかけようとし、ふと、昔と同じ方法で相手を気付かせてみようかと思いついた時だった。
「ルフラン教授にご用事ですか?」
 丁寧な声が聞こえ、声の主の方へと向き直る。そこに居たのは、読破するのに一体何日かかるのだろうと首を捻りたくなるほどぶ厚い本を何冊も抱えた少年で、ケインの方を無表情に見つめている。その、人とは異なる耳の形や華奢な体形から言って、エルフかハーフエルフなのだろう。そんなに厚い本を一気に抱えて、腕が折れてしまわないかと思わず心配したくなるぐらい、その少年は本を一杯に抱えていた。
 多少面食らいながらも、ケインは応えた。
「ああ。ルフラン教授にどうしても聞いておきたい用事があってね」
「それはラッキーでしたね。教授、今は何とかこの中にいるはずですから」
 そう言って。
 少年は、目の前に積まれた本の山を無表情のまま蹴り飛ばした。重たそうな本がどさどさと盛大な音を立てて派手に崩れ落ちる。もうちょっと本を大切に扱えと思わないでもなかったが、彼が先程考えていた「昔と同じ方法」というのも今少年が取った方法と全く変わらないものだったので、ケインとしては複雑に苦笑を浮かべるしか無く。
 全く持って、何も変わってないな。
「教授。ルフラン教授。お客様ですよ」
 淡々と、よく響く声で学生が部屋の中へと呼びかける。そんな少年の呼びかけに、本が崩れ去って余計に人の居る場所が無くなった部屋の中から「誰?お客?」という答えが返って来た。
「どうぞ。お話があるなら、教授がいるうちに意地でも捕まえておいた方が良いですよ。いついなくなるか分からない人ですから気をつけてください」
「……ありがとう」
 助言なのか何なのか。相変わらずの無表情のまま、それすら分からないような台詞を残し、そのまま学生は歩いて行ってしまった。一人廊下に残されたケインはまた微苦笑を浮かべ、そしてやっとこ返事が返って来た部屋の中へと慎重に足を踏み入れる。
「ああ、悪いねぇ、今ちょっと手が離せないんだよ。何処か適当に寛いでてくれますか?」
 この、立つ場所を探すだけでも一苦労な部屋の中、何処をどーやって寛げと言うのか。仕様が無いのでケインは足を踏み入れたままの場所から動かずに突っ立ったまま、側に錯乱している本を一冊手に取ってみた。ずしりと分厚く、古ぼけたその本の表紙には、『ファーランド紀行』と書かれており、中を開くと未知の大陸と言われるファーランドについて想像されてきた事、考えられてきた事などがつらつらと書き綴ってある。多分この本の内容などは、今手が離せないと言いながら、本に埋もれた部屋の中で何かをしている人物の頭の中には一語一句全てがしっかりと刻み込まれているのだろうとケインは見当をつけ、それもまた昔と同じだと一人考えた。
 だからこそ、彼を訪ねて来たのだけれど。
「……で、何かな?何処か、分からないところでもありましたか?」
 訪ねてきたのが学生だと思ったのだろう。ルフラン教授、とケインが呼んだ人物は立ち上がり、白衣についた埃をぱんぱんと払いながら言った。ケインは手に持った本を元にあった場所に戻すと、ああ、本当に変わっていないと心の中で呟きながら答える。
「お久しぶりです。ルフラン教授」
「あれ……?」
 その声を聞き、まだぱたぱたと白衣を叩いていた男の動きがぴたりと止まる。そのまま、ゆっくりケインの方へと振り向いた。
「……ケイン君?ケイン君ですか?」
「ええ。教授になられたのですね」
「ああ……。本当に久しぶりですねぇー。元気でしたか?」
 シリウス=M=ルフランは顔中をにこにことほころばせながら問い掛けた。元々優しい顔立ちなのが、笑うともっと優しい顔になる。何処か、心をほっとさせるような笑顔になるのだ。もし、リーフを知っている人間が彼を見たならば、リーフの性質は父親似なのだと思うに違いない。
 シリウスは、本置き場と化している椅子の上から本をどけ、ケインに勧めた。勧めながら、この椅子もきっと、久しぶりに自分本来の役割が果たせると喜んでるんでしょうねぇ、と白髪混じりの頭を掻きながら笑う。
「教授こそ、お変わり無さそうで何よりです」
「ははは、堅苦しい挨拶は無しにしましょう。積もる話も沢山ある事ですしねぇ。決まりきった挨拶なんて、時間の無駄にしかならないでしょう?」
 問い掛けるように語尾を跳ね上げ、いそいそとお茶を淹れる。その、危なっかしい手付きにはらはらしながらも、なにせ大量の本が邪魔をしているので手伝うにも手伝えず。
 そんなもどかしい気持ちでケインが見ているとも知らず、シリウスは何とかお茶らしき液体を淹れ終わるとそれが入ったカップを何とも無造作にケインに差し出した。ちなみに、シリウスのカップは机に置いたままである。そういえば教授は極度の猫舌だったな、と考えながら、ケインは熱いお茶を一口飲んだ。
「……それにしても……。ホント久しぶりですねぇー。もうかれこれ……十年ぶりぐらいですか?」
 懐かしそうに目を細め、言う。
「多分、それぐらいかと思いますが。私も、正確には」
 本当は、十一年だ。エリザの言葉が思い出される。
「そうですか……。十年ですか……。長いようで、短いものですねぇ。君と一緒に研究をしていたのが、まるで昨日の事のような気がしますよ」
 シリウスの独特なリズムを持った話し方で紡がれる台詞は、ケインの中にじんわりと染み入ってくる。
 まるで、癒しの呪文のように、暖かな力を持った言葉。
 その言葉が、ふいにある一つの問いを投げかけた。
「何故……いなくなったんです?」
 それはケインが、最も恐れていた質問で。
 答えを返す事が出来ない質問で。
 だから彼は、曖昧に首を横に振る事しか出来なかった。
「君の研究は、もう完成間際でした。紋章魔法のプロセスも、紋章それぞれの意味も、もうほとんど解明されていましたよね。文書の上では、もう紋章魔法が扱えてもおかしくなかった」
 それなのに、何故?
「紋章魔法は――人には……この世界に今存在する生き物には、有り余る力です。例え発動させても、力を制御しきれずに暴走させてしまうでしょう。滅びた物には――滅びる道しか無かった、訳があるのですから」
「それが、理由?扱えないなら、研究しても無駄だと思ったのかい?」
 少し、悲しげな響きを伴った声だった。その声を聞きながら、ケインは感情を乗せない声で短く答える。
「そう思うなら――思って下さっても結構です」
 エリザにも言った台詞だ。目的を果たす為なら、周りからどう思われても構わない。そう、あの時から、アカデミーを出て行く決心をした時から、彼は心に決めていた。
 その言葉を聞き、シリウスは悲しそうに顔を歪める。
「……君自身が無駄だと思ってしまったのなら――残念です」
 ――ソウジャナイ。
 思わず、ポケットの中の紙を強く握り締めていた。コハクに見咎められた、あの紋章を書いている紙を。
『相手の能力を”消去”してしまうような強力な術は、宝珠魔法にも、符術にもありません。それが存在するのは、紋章魔法についての文献の中だけです』
 その通りだ。あの異国の少年は、ケインの術を見てすぐにそれと気がついた。
 確かにケインは紋章魔法を扱える。文献の中で見るのとは違う形だとは言え、不完全だとは言え。宝珠魔法などよりもずっと大きな力を扱う事が出来る。彼は、研究の中で、大きすぎる力をセーブして使う方法も見つけ出していた。
 ――見せてやれば良いじゃないか。今、ここで。
 本当は扱えるんだって、研究は形になってるんだって、教えてやれば良いじゃないか。
 一体、何を隠す必要がある――?
 そう囁くケインがいる。教授を、喜ばせてあげれば良いじゃないか、と。
 それでも、彼の口をついて出た言葉は、こんなものだった。
「ルフラン教授。今日ここに伺ったのは、ファーランドについてのお話を聞きたかったからなのです」
 強引に、話題を捻じ曲げた。これ以上、触れられたく無い話に付き合いたくは無かったからだ。
「ファーランド?何故、そんな事を?」
「渡らなければならないからです」
 一言で言い切った。彼を見るシリウスの目がまん丸になる。
 ああ、確かに即決だったな、と今更ながらにケインは思う。
「わ、渡るって……。本気で言ってるのですか、ケイン君?」
「ええ、本気です。これ以上無いほど」
 真正面から視線をぶつけ合い、先に目を逸らしたのはシリウスの方だった。彼は頭を抱え、ぼそぼそと小さく呟く。
「しかし……。渡るのには、決定的な部分が……」
 欠けている。
 それが解明出来ない限り、渡る事は不可能だ。
 そもそも――
「自分自身の学説を否定するようですけどね。ファーランドという大陸は存在するのかどうか、それすら証明はされていないんですよ。風の壁の向こうに見える大陸――。それは鏡界面に映ったフィリルアーなのじゃないか、という説もあるんです。僕はもちろん、ファーランドはあると思っています。けれどそれはまだ、研究段階であって、きちんと証明されている事実では無いんです。言い伝えや伝説などから推測された事柄でしか無いんですよ」
 どういう意味か、分かりますよね?とシリウスは問い掛けた。
 だが、少しの沈黙の後、ケインの答えた台詞はシリウスの問いに対する答えでは無い。
「その昔、フィリルアーとファーランドは、季球も含めて一つの大陸だった。それが突然の天変地異――貴方はグランドクルス、と呼んでいるようですが――が襲い、三つに引き裂かれて今の大陸が出来上がった。引き裂かれた後、何故フィリルアー、季球とファーランドの間に鏡界面が出来上がったのか、それはまだ謎のまま……でしたか」
「自分の学説ぐらい、流石に憶えていますよ」
「どうして……グランドクルス、という名前を?」
「大陸の、形で、ですかねぇ」
 シリウスは目の前の机の上(というより、机の上に置かれた本の上に、であったが)に地図を広げ、それぞれの大陸を隔てている海の形をなぞって見せた。地図の下側……つまり、南の方にフィリルアーと季球。それをまるで鏡に映したかのような位置に、ファーランドとキルヒ島。言われてみると確かに、地図上では海が十字型に存在しているように見える。
「一つの大陸だったものがこの形に分かれたのなら、ちょうど十字型に引き裂かれたのだろうと思いましてねぇ。だから、”世界を隔てる十字架グランドクルス”、と呼んでいるんですよ」
 まぁ、ファーランドとキルヒ島に至っては、本当にこの位置に存在するのかどうかの確認は取れていないのですけどね、とシリウスは苦笑を浮かべる。
「黒き光は神のいかずち。白き光は破滅の序曲。その日、黒き光が世界を引き裂き焼き尽くさん。――世界が引き裂かれた日の事を詠う伝承の一部です。黒き光や白き光、というのは何を指すものなのか分からないんですが、これに似たような歌や伝承がいくつも言い伝えられていますし、世界が昔は一つの大陸で、そこから今の形に分かれてしまうような事態が起こった、という言い伝えは真実だと、僕は思っているんですね」
「……黒き光に、白き光、ですか」
 ――あの時の。
 ケインの脳裏に、数年前の光景が浮ぶ。フリジットの中で暴走した魔法の光景。
 そして――ほんのついこの間、キールで出会った少年の使っていた光の魔法。
 黒き光に……白き光だ。
 今はまだ、完全じゃなかった。だからこそ、自分の不完全な紋章魔法でも、何とか力を抑える事が出来た。しかし、どちらかが完全に力を引き出せるようになったら?
 そうさせない為に、俺は――。
 ふと、昔に戻りそうになったケインの思考を、シリウスの一言が今この場所に引き戻した。
「……ケイン君。無茶はしないでください。この際だからはっきり言いましょう。ファーランドへ渡るという行為は、自殺行為にも等しいんです」
 鏡界面を突破する方法なんて、見つかっていない・・・・・・・・んですよ。
 そう、ファーランド研究の第一人者と呼ばれる人物はきっぱりと言い切った。

≪Old / Next≫