鏡界面を渡れるなら――と、僕は挑戦しようと思いました。
 言って、シリウスはため息をつく。
「だけど、無理でした。あの嵐を突破する事は今の技術では不可能です。海路も空路も、船自体が耐えられない。嵐を止める事が出来なければ、ファーランドへ渡るなどという事はとても……」
 嘘をつくというのはとても、難しい。
 特に、バレない嘘をつくというのは。
 言いながら、シリウスは実感していた。よく、嘘をつくのは簡単だとか言う言葉を聞くけれど、何が簡単なものかと心の中だけで文句を言ってみたり。
 彼は、ケインの事を良く知っていたから、嘘をつくだけ無駄かもしれないと思っていた。自分程度の嘘を見破れないほど、鈍くは無いと知っていたから。
 でも。だからこそ。
 ケインは何も表情を変えず、彼の話を聞いている。そんな、かつての教え子であり研究においての同志であった男と真正面から向き合いながら、シリウスは話し続ける。
「鏡界面を作り上げているのは、お互いに反対向きに吹いている強風です。フィリルアー側は暖かい風、ファーランド側は冷たい風。その温度差の所為で水蒸気が生まれ、お互いの風に巻き上げられて境界を作り出しているのです。その水蒸気の粒に光が乱反射して、壁の向こうなど無いかのように海を映し出している。それが、鏡界面、と呼ばれる理由です。つまりは、僕が字を当てたわけですけどね」
 最初は、それだけならば渡るのは簡単だろうと思われてました、とシリウスは言う。
「そりゃそーですよねぇ。たったそれだけの理由なら、いくら強風が吹いていたって渡ろうとして渡れないなんて事はまず無いでしょう。船が無理なら空からだって行けますから。ですけど……」
「……けど?」
「……現実には、違う。それだけの理由に見えるのに、渡れないのです。それにこれは確証が無い事ですが、僕は海の中でも鏡界面と同じ性質のものが二つの大陸を隔てていると思っています。……鏡界面は、ただの自然現象が起こした不思議にしては……不自然すぎますからね」
 最後の方は、少し言い淀んだ。
「つまり……魔法的な何かが引き起こしているんじゃ無いかと、そういう可能性もあるという事ですか」
 あくまで静かなケインの台詞に、シリウスは小さく頷いて見せる。そういう細かな仕草は、びっくりするほどリーフとそっくりだった。
「ええ、もちろんそういう可能性は充分あります。むしろ、その方が確立は高いでしょうねぇ。ただ、それだけ大きな魔法力を必要とし、ましてや永続する魔法など、聞いた事がありません。だから、自然現象なのかもしれない、という可能性も捨てきれないのですよ」
 そう言って、やれやれと言ったように頭を振った。それは、好奇心旺盛で、研究となったら三日間ぐらい食べる事も寝る事も忘れて打ち込んでしまうこの男にしてはとても珍しい行動だったので、ケインはそっと目を見張る。彼のそういった行動が、何だか結果を出す事に諦めを感じているように見えたからだ。失敗しようがなんだろうが、とりあえず結果が出るまで諦めない。いつもぼーっとしているように見えるが、実はそれがこのシリウスという男の本質なのだと、密かにケインは思っていた。
「どちらにせよ。止める方法が分からないまま、鏡界面を突破しようとするなんて、無謀です。命を捨てに行くようなものですよ」
「……しかし。教授は鏡界面を突破する方法を見つけたという噂を耳にしましたよ」
「ああ……。何処から流れていったのでしょうね、その噂は」
 やっぱり来たかと思いつつも苦笑を浮かべてしまう。自分がつい先日まで鏡界面を渡るための旅に出ていたという事は、アカデミーの学生なら誰でも知っているだろうし、ケインがその噂を耳にしていてもおかしくは無い。
「噂は、噂ですよ。あくまでも、ね」
 一言一言噛み締めるように言ったシリウスの言葉。ケインの目を覗き込むようにして言ったその言葉に、嘘は無かった。
 例え、全てを述べていなかったとしても。
 ケインが返してくる前に、シリウスは台詞を重ねる。
「それに……。実は研究の事を記した論文を無くしてしまいましてねぇ。この間の旅も、それが原因で確かめるにも確かめられなかった、というのが本当のところなんですよ」
「……無くしたって……そんな大切なものを?」
 いくらなんでも嘘臭いと思いつつも、この学者ならありえない事では無いと肯定する自分もいる。結局、どちらなのか判断をつけかね、彼は小さく頭を振った。なまじ、この男を知り過ぎているばかりに惑わされる。
「そんな情けない嘘をつく必要が何処にあるんです。まぁ、事実だとしても情けない事に変わりは無いですけど……」
 照れ隠しのような苦笑いを浮かべたシリウスを見ながら。
 つられたように、同じような苦笑いを浮かべるしか思いつく術が無いケインだった。


 アカデミー、ねぇ。
 自分の目の前にそびえ立ち、厳格な雰囲気をかもし出す建物を見上げ、フェリルはぼそりと呟いた。そんなフェリルの横を、分厚い本を抱えたエルフの少女が小走りで駆け抜けて行く。
 ま、俺にゃ、一生縁のねぇ所だよな。
 イスライア・アカデミーという場所は、世界中からエリートさんが集まってくる場所だとフェリルは認識している。それに多少の語弊があったとしても、ここを卒業して旅立っていく者達は皆、国の重役に落ち着いたり機密事項に関わったりするわけで、確かにエリートを生む場所ではあるのだ。
『イスライア・アカデミーで紋章魔法の研究をしていた人ですよ』
 以前に聞いた、バティの言葉が思い出される。ケイン=フェスウィンターという男、紋章魔法の事にかけては、右に出るものがいなかったのだと。
 そんな研究をしていたヤツが、何だって暗殺なんて仕事をするようになったんだ?
 しかも、あのバティをして「腕が良かった」などと言われるという事は、この世界では相当名前が売れていたはずだ。自分の師匠であり育て親であるバティという男が、滅多な事では人を評価しないのだとフェリルは知っていた。
 それが、人を殺せない、だって?
 知らず知らずのうちに、足元に転がっている石を蹴っていた。一つ、また一つと石が離れた場所へと散らばって行く。こつん、こつんという小さな音が辺りに響いた。
 ……ふざけるなってんだ。
 ケインに依頼された仕事の最後になるハズだった日。あの日、ターゲットの屋敷でケインが見せた威圧感と殺気は、フェリルの動きを封じてしまうほどのモノで、今だって思い出そうとしたらすぐに思い出せるぐらい鮮明に記憶に残っている。あっさりと、敵わないと悟ってしまうほどの威圧感。
 フェリルだって、『白の月の暗殺者』という通り名を持つほどであるし、その名前は裏の世界の人間じゃなくたって聞いた事があるぐらいは名前が知れている。名前が知れているという事は、それだけ仕事をこなしてきたという事であり、腕が良いという事にも繋がる。今まで、この世界の人間には数多く会って来たことがあるが、敵わないだろうと思ったのは結局、師であるバティ以外にはいなかった。あの日、ケインに会うまでは。
 自分が、敵わないと思った二人の暗殺者。そこには、ある一つの共通点があるのだとフェリルは思う。
 二人とも、人を殺す時に感情に流されないのだ。バティは虫も殺せぬような普段通りの優しい笑顔を浮かべながらでも、人を殺せる。そして多分、ケインもあの時の様子からして、眉一つ動かさずに仕事を終えるタイプだろう。
 一人は暖かな笑みを浮かべながら。そしてもう一人は冷たい無表情のままで。
 その違いはあれど、自分の届かない位置にいる二人の暗殺者は仕事という点で共通している。
 自分が、どうしても割り切る事が出来ない位置に。
 だが、二人の辿った道は、あまりにも違っていたのだろう。一人は、未来を掴むために人の死というものに執着し、もう一人は何があったのか、それから遠ざかろうとしている。意思に反して、身体が覚えているそれを隠そうと、必死になっているように思える。
 そこが、不思議でならなかった。
 隠し通せるはずが無い。過去を消し去れるはずが無い。過去を消し去ってしまったら、自分の生きた証が無くなってしまう。それが、どんな類いの過去であったとしても、結局は割り切って受け止めるしか無いのだと、フェリルは身を持って知っていた。
 選べない過去もある――。そう、割り切ってしまうしか、無いのだと。
 隠そうとすればする程、不自然に見えてしまうのに。そんな事が分からないような男では無いはずなのに。
 不思議な男。割り切っているようで割り切れていないような、矛盾している人間。
 だから、これほど気になってしまうのだろうか。誰かがブレーキをかけてあげなければ、暴走してしまいそうな危うさも秘めているように見えるから。
 ……ったく。
 人間ってヤツにゃあ、とっくに愛想尽かしたと思ってたんだけどな。
 ぐるぐると頭の中を行ったり来たりしている思考を押しのけ、フェリルはイライラした様子でため息をつく。
 ……今日ばっかりはいー加減に目的をはっきり話してもらわねぇと気が済まねぇ。
 ぼそりと吐き捨てるように呟き、今度は意識して力を込めると思いっきり石ころを蹴り飛ばした。


 ぱたん。
 乾いた音を立てて、研究室の扉が閉まる。ケインは一度、閉じた扉に寄りかかると少しの間物思いにふけるように目を閉じた。
『教授は……何も変わっていませんね』
 別れ際、自分が言った言葉。それを聞いてシリウスは曖昧に微笑み、そして言った。
『……貴方は……変わりましたねぇ』
 昔を懐かしむかのような口調だった。その言葉が、じんわりとケインの心に染み込んで行く。
 ――自分は、変わったのだろうか。
 確かに、表面上は変わっただろう。そのように振舞っているのだから。
 だが、内面は?
 ――何もする事が出来なかったあの頃のまま、じゃないのか?
 ……本当に変わる事が出来るのは――
 ふっと瞼の裏にある男の顔が浮ぶ。その男の顔を消し去るかのように、ケインは閉じていた瞼を押し上げた。そのオレンジ色の瞳には、今まで誰にも見せた事が無い強い光が灯っている。
「……教授。貴方は本当に変わってない」
 嘘をつくのが下手なところも。
 そう、扉の向こうへと呟いて、ケインはアカデミーを後にした。


 アカデミーを出、煙草をくわえて歩き出そうとしたケインを捕まえたのはフェリルだった。ぶつぶつ言いながら、結局二時間も待つハメになったフェリルの虫の居所はかなり悪いらしく、表情にも言葉にもトゲがある。
「ったくよ。今日はここに泊まっちまうんじゃねぇかと思ったぜ」
「珍しいな。何か用事か?」
「あー用事さ。そりゃーもう、コレ以上無いって程の用事だね」
 ぴしゃりと突き刺さるような勢いで台詞を投げつけ、フェリルはケインの顔を真正面から見据えた。
「いーっ加減に秘密主義はやめやがれ。一体何が目的で俺を巻き込んだのか、説明してもらいてぇもんだな」
「理由までは干渉しない。仕事に感情を持ち込まない。それが鉄則だろう?」
「仕事だって?はっ、笑わせるぜ。何も言わずにファーランドなんて有るか無いかすら分からねぇ場所について来いと言ってる時点で、すでに仕事の域を越えてるじゃねぇかよ。生憎、自分の命を捨てかねないような状況になっても仕事だと言ってられるほど、俺はプロ意識が無いんでね」
 一気に言い切り、一度息を吸うと更に語調を尖らせてフェリルは続ける。
「大体だ。あんた、最初から俺の事巻き込むつもりだったんだろ?依頼なんか達成しようがしまいがどうでも良かったんだ。あんたの依頼の本当の目的は、どういう形であれ、この件に俺を引っ張り込む事。そうなんだろ?」
「……何故、そう思う?」
 フェリルの台詞とは対照的に、静かに問うケイン。煙草の灰が地面に落ちる。
「あの……ドラゴンのガキだよ。あいつは、俺の事を知ってた。何故だ?俺は十字架組織の事なんざ、この仕事を受けてから知ったんだぜ?」
 ――お母さんにそっくりだね。
 ふざけるな。
 あんなヤツと一緒にするな――。
「あの組織は一体何なんだ?俺と一体どんな関わりがある?」
 懇願と言っても良いような質問だった。
 フェリルの、まるで無理をして怒っているかのように複雑な表情を浮かべている瞳を見、ケインはしばしの沈黙を挟んで短い答えを返す。
「俺と同じだ。結社はお前と俺にとって共通の仇なんだよ」


「……かた、き?」
 ただ、口から洩れてしまったような呟き。緑色の瞳が揺れる。
「……仇?仇って、何だよ。俺には、そんな……」
 否定した言葉には、力が無かった。フェリルが口を閉ざすのを待って、ケインはゆっくりと話し出す。
「もちろん、直接手を下したのは、組織の連中じゃない。それはお前がよく知っているだろう?」
「……何故だ?俺はあんたとは違う。俺は仇討ちなんか望んで無い!」
 アンタナンテ、産マナキャ良カッタ――。
「じゃ、何か?あんた、ただのおせっかいで俺を巻き込んだのか?同じ仇を持ってりゃ、同じように仇討ちがしたいと願ってるとでも思って?そんな、そんな勝手な理由で――ッ!!」
「理由が知りたいと言ったのは、お前だ」
 落ち着いたケインの声が、余計にフェリルの心を逆撫でする。考えるよりも先に、言葉の方が口をついて出てしまっていた。
「あいつらなんざ、死んでせいせいしてたんだ!バティが殺さなきゃ、いずれ俺が殺してたよ!!遅かれ早かれ、あいつらは死ぬ運命にあったんだ」
 大きく肩で息をしていた。頭がかぁっと熱くなっているのが分かる。
 激しい動悸を静めるように一度大きく息を吸い込み、今までとは打って変わって感情を心の底に押し込めたように無機質な声でフェリルは言う。
「あんたがヤツラにどんな借りがあるのか、そんな事はもうどうでも良い。あんたがどうやって俺の事を調べたのか、それだってもう興味無いね。確かに、聞いた俺が馬鹿だったよ。けどな、復讐したいんなら、人を巻き込まねぇであんた一人でやってくれ。自分勝手な解釈で、俺を巻き込むな」
 冷たい響き。フェリル自身、自分でも驚いてしまうほど、鋭い響き。
 それでも、対峙している白衣の男はマイペースを崩さない。
「自分勝手、か。だが、この仕事の依頼人なんてみんなそうじゃないのか?相手が邪魔だから、憎いから殺してくれ――。真っ当な理由なんざ、自分自身を納得させる為に後から考えるモンだろう?」
「俺はあんたに、仇を討たせてくれと頼んだ覚えは無い。この仕事は下りさせてもらうぜ」
 そう、吐き捨てるように言い。
 くるりとケインに背を向け、フェリルは足早にその場を去って行った。

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