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カネダ著作権事務所

著作権判例エッセンス

権利濫用②

【否認例】

(1) 原告らは,教則本やレッスンで使用するCD等の録音物を制作する際や,生徒による発表会など著作権が及ぶ使用については被告に使用料を払っているので,音楽教室における演奏について著作物使用料を徴収することは,過度の負担を強いるものであり,権利の濫用に当たると主張する。
しかし,前記判示のとおり,教則本の製作のための音楽著作物の複製と,レッスンにおける演奏とは,支分権が異なる別個の行為であり,著作物の利用形態も異なるものなので,それぞれの支分権について対応する使用料を被告が取得したとしても,それをもって権利の濫用ということはできない。
また,原告らは,生徒による発表会はレッスンにおける練習の成果の発表の場であると主張するが,音楽教室の生徒が音楽教室事業者主催の発表会に参加するとは限らず,音楽教室におけるレッスンを発表会の準備と位置付けることもできないので,発表会についての使用料に加え,レッスンについての使用料を被告が徴収したとしても,それをもって権利の濫用ということはできない。
(2) 原告らは,音楽教室のレッスンにおける演奏に対して著作物使用料が発生することになれば,その萎縮効果から,被告管理楽曲は使用しなくなり,ひいては文化の発展に寄与するという著作権法1条の目的に反することとなると主張する。
しかし,本件使用料規程の内容は,前記のとおりであり,例えば,年間の包括的利用許諾契約を結ぶ場合の1施設当たりの年額使用料は,受講料収入算定基準額(前年度に当該施設で行われた被告管理楽曲を利用した講座の受講料収入の合計額)の2.5パーセントである。
もとより,音楽教室事業者の規模は様々であるので,音楽教室のレッスンにおける演奏に対して著作物使用料が徴収された場合の使用料額は異なることになるが,上記の負担が音楽著作権者の保護の要請との均衡を失するほど過大であり,文化の発展に寄与するという著作権法1条の目的に反するということはできない。
したがって,被告が音楽教室のレッスンにおける演奏に対して使用料を課すことが権利の濫用であるとの原告らの主張は採用し得ない。
(3) 原告は,現行著作権法が施行された昭和46年から,平成15年に原告ヤマハに協議を申し入れるまでの約32年もの間,被告は,音楽教室における演奏について権利を行使してこなかったから,今に至って演奏権が及ぶとの権利主張をすることは,権利の濫用に当たり,又は権利失効の原則に照らし許されないと主張する。
しかし,証拠及び弁論の全趣旨によれば,被告は,【全ての控訴人らに対する関係で,】現行著作権法が施行された昭和46年1月1日当時,録音物の再生演奏につき,著作権法附則14条により著作権者の権利が制限されていたことを考慮して,音楽教室のレッスンにおける演奏権の管理を控えていたが,平成12年1月1日に同附則が廃止されたことから,音楽教室における著作権管理を開始することとし,平成15年11月13日及び平成16年2月18日,音楽教室業界の中心的な存在であった原告ヤマハに対し,協議開始の申入れを行う書簡を発出したものの,原告ヤマハは協議に応じなかったとの事実が認められる。
上記によれば,被告が著作権法附則14条の廃止に至るまで権利行使をしなかった【ことが不合理とはいえず】,同附則が廃止された後には原告ヤマハに対して協議を開始することを申し入れているので,権利行使が容易であるにもかかわらず,被告がこれを長期間にわたって放置したと評価することはできない。
そうすると,現行著作権法が施行された昭和46年から,平成15年に原告ヤマハに協議を申し入れるまでの間,音楽教室における演奏について権利を行使しなかったとしても,それをもって,被告が原告らの音楽教室における演奏について演奏権が及ぶと主張することが権利の濫用に当たり,又は権利失効の原則により許されないということはできない。
<令和2228日東京地方裁判所[平成29()20502]>
【コメント】控訴審<令和3318日知的財産高等裁判所[令和2()10022]>も同旨:
当審における控訴人らの補充主張に対する判断
控訴人らは,前記のとおり,①著作権法附則14条により著作権者の権利が制限されていたのは,音楽教室のレッスンでは補完的な教材にすぎない「録音物の再生演奏」についてであり,音楽教室のレッスンにおいて行われる演奏のうち大部分を占めている「演奏」ではないから,同14条が存在したことは,上記演奏について権利行使をしなかった理由とはならない,②被控訴人がレッスンでの教師の演奏について著作物使用料の請求をしてこなかったのは,レッスンでの演奏について著作権使用料を徴収すべきとは考えていなかったからにほかならない旨主張する。
しかしながら,音楽教室事業者によって利用される著作物について控訴人が演奏権の管理に着手すること自体は可能であったとしても,本件口頭弁論終結時である令和3年1月より17年以上前の平成15年まで権利行使をしていなかったから,それ以降の著作物の使用料も請求できなくなるとする控訴人らの立論は,それ自体,そもそも権利不行使の事実と権利失効の効果が整合しているようには解し得ない。
権利の単純な不行使が時効の成立にとどまらず,将来の権利の失効までをも招致するのは,権利者において義務者が権利を行使しないとの強い信頼をもたらす行動を長年にわたって取り続けたことから,義務者において権利者が権利を行使するのであれば取り得ないような重大な投資等をしたなど,権利者の権利行使が法的衡平や法的正義の観点から到底是認できないような特段の事情を要すると解すべきである。しかしながら,本件においては,被控訴人は,音楽教室のレッスンにおける演奏について,17年前から少なくとも控訴人ヤマハに対しては権利行使に着手しているのであるし,控訴人らについても,権利不行使に対する信頼を保護すべき特段の事情は見当たらない。
したがって,控訴人らの権利濫用の主張は,理由がない。

一審被告らは,本件各漫画はわいせつ文書に当たるから,そのような文書に基づいて権利行使をすることは許されないと主張するところ,たしかに本件各漫画は特徴⑤【ストーリーの中核となるのは,主役二人が性交類似行為又はこれに準じる行為をする場面である】⑥【当該場面のいくつかには,男性器の形態や精液の飛散が描出されている】を有するものであることが認められる。しかしながら,本件各漫画全体を検討してみても,それらが甚だしいわいせつ文書であって,これに基づく著作権侵害を主張し,損害賠償を求めることが権利の濫用に当たるとか,そのような損害賠償請求を認めることが公序良俗に違反するとまで認めることはできない。
<令和2106日知的財産高等裁判所[令和2()10018]>

控訴人は、本件の出版差止請求が権利の濫用に当るとする理由として、「知る権利の侵害」について種々主張するが、その主旨とするところは、「本件著作物が国民から国政を付託された国家機関の活動による成果であり、社会的、文化的、学術的価値の高いものであることから、国民一般、とりわけ、歴史研究者らによつてその自由な利用が求められているものであり、国民の知る権利の対象となる知識情報を内容とするから、控訴人の本件著作物の出版活動によつて被控訴人に多少の損害の生ずることがあつても、被控訴人が出版行為の差止行為に出ずることは、著作権の公共性に鑑みても、権利の濫用として許されない。」とするにある。
たしかに、著作権の行使と著作物利用との調査【注:「調整(調和)」と思われる】の問題は、著作権法の直面する課題の一つであり、著作権法の立法作業において種々検討されてきた事柄ではあるが、本件の如く、著作権の目的である著作物を無断で出版販売し、もしくは、そのおそれのある者に対して、その差止を請求しうることは、著作権の中核的権能であるから、著作権法上著作権が認められているのに、このような場合の差止請求権の行使を許さないとするには、十分慎重でなければならない。
けだし、権利の濫用として無断出版の差止請求が許されないとすることは、実質的には著作権自体を否定するに等しく、ひいては、法解釈の限界いかんにも関わるからである。
ところで、本件著作物が、社会的、文化的、学術的価値の高いものであることは、当事者間に争いがなく、文化的学術的資料として本件著作物を出版するについての要望があることが窺われるが、本件著作物は、国会図書館支部大蔵省文庫及び東京大学図書館(総合図書館に35冊、経済学部図書室に6冊)に全冊が揃つており、早稲田大学図書館にも26冊が備えられていて、本件著作物を学術的資料として利用しようとする者には、これを閲覧利用することができるうえ、利用に若干の不便があるとしても、本件著作物は、すでに公表されたものであること、本件著作物については、昭和461月頃、他の出版社においても、本件著作物の復刻刊行を企画し、大蔵省資料統計管理官に復刻出版についての許可申請をしており、これに対し検討中であつたし、被控訴人として、控訴人の無断出版を黙認することは、出版許可申請中の他の出版社との関係において公平を欠き、公正を疑われる事情にあつたことが認められ、原審における控訴人代表者尋問の結果のうち右認定に反する部分は措信できない。
前叙の如き本件著作物の性質及びその内容並びに右認定の事実のほか、原判決認定の各事実に基づいて判断すると、控訴人が主張する「国民の知る権利」や著作物の公共性などを勘案しても、本件差止請求権の行使が、国民の知る権利を侵害することによつて、権利の濫用に当たるものと認めることはできない。
<昭和570422日東京高等裁判所[昭和52()827]>

本件書籍が、明治以降の日本の美術を集大成し、これを体系的に編さんした「原色現代日本の美術」全18巻中の第7巻として、その出版が文化的意義を有することは、当裁判所も否定するものではない。しかしながら、文化的意義を有する出版であるということから直ちに、著作権者の複製権を無視し、その許諾なくして複製ができるという結論が生ずるということができないのは当然であり、このような主張が現行法上認められないことについては、あえて説明を要しない。
被告は、原告が本件絵画の複製を許諾しないことは、A作品のような公の文化財ともいうべき作品を恣意により死蔵させる行為であると主張するが、A作品は、現在までにも、著作権者の許諾の下に、一般向けの美術集などに掲載されてきており、美術館でそれぞれ展示もなされているのであるから、原告が本件書籍への複製許諾を拒否することによつて同画伯の作品が死蔵せしめられるというような事情は存しない。また、複製権者がその複製をある者には許諾し、ある者には拒否することは、複製権の行使の自由に帰することがらであつて、そのこと自体何ら非難されるべきものではない。
被告の公正使用の抗弁及び権利濫用の抗弁は、いずれも前提を欠き採用できない。
<昭和590831日 東京地方裁判所[昭和55()7916]>
【控訴審も同旨】
そこで、被控訴人の不承諾の理由となった考え方とこれに対する一般の反応をみるに、Aは、生前、日本では同人の許諾なく個展が開催されたり画集が出版されていると指摘し、また、日本におけるBに対する批評、研究が浅薄であると批判し、日本の美術界全体に対し不信感を抱いており、被控訴人もそのような考え方を受け継いで、A作品の著作権問題に対処してきたが、本件書籍への本件絵画の掲載についても、世界的に評価された画家であるAを単に日本の絵画の流れの中で位置づけるものと不満に思い、再三にわたる控訴人の懇請を受け入れず、掲載に応じなかったことが認められ、また、被控訴人は日本におけるA作品の展示、出版物への掲載等について前記のような態度を一貫してとり続けたため、国内の美術館において予定したA作品の展示を取り止めたり、展覧会においてA作品の複製物を掲載したカタログの頒布などを取り止めたり、出版社において美術出版物へのA作品複製物の掲載を中止することを余儀なくされるという事態が発生し、日本の美術界の一部にこれが被控訴人の個人的感情に基づくものとの批判もあったことが認められる。また、被控訴人が美術全集、美術史書、美術雑誌、教師用美術指導書等にA作品の掲載を承諾した事例も少くないことが認められるが、これらの承諾事例のすべてが不承諾事例と違って、A作品の正当な評価と取扱い方をしているので承諾を与えたと断ずることができるか疑問の残るところである。
しかしながら、被控訴人の前記のような考え方ないし態度が美術界の一部において納得されない場合があり、また、被控訴人の諾否の基準が現実において完全には貫かれなかったとしても、そのことによって、被控訴人のA作品についての著作権を侵害することが許容されるということはありえない。もし、文化的価値の高い著作物が死蔵されるべきでないとして、著作権者の許諾なしにその利用が許容されるならば、権利として保護する必要性の高い著作物ほど、その侵害が容易に許容されるという不当な結果を招来しかねない。著作権法は、同法第1条所定の目的のもとに、著作権を権利として保護すると同時に、その保護期間を限定し、かつ、適法引用等著作物の公正な利用に意を用いた規定を設けており、著作権の保護期間内であっても、法の定める公正な利用の範囲内であれば、著作権者の許諾を要せず、著作物を利用することができるものとしているのであり、このような法の仕組みのもとにおいては、著作権者の許諾もなく、公正な利用の範囲をも逸脱して著作物を複製し、著作権を侵害する行為があつた場合にこれを公けの文化財あるいは文化的所産の利用の名のもとに許容すべき法的根拠はない。
したがつて、本件書籍の出版が前述するような文化的意義を有するものであつても、それが著作権侵害行為に該当する以上、前記認定の事情のもとにおいて、被控訴人が著作権侵害を理由に、控訴人に対し本訴を提起し、侵害の停止等必要な措置を請求し、かつ、侵害によって被った損害の賠償を請求することは、法律上認められる正当な権利の行使であって、これをもって権利濫用とすることはできない。
<昭和601017日東京高等裁判所[昭和59()2293]>

控訴人は,Dは,生前,一度として本件エスキースの利用を拒否したことがないのであるから,その死後に,後進の建築家や後輩の学生の研究と勉学のため教科書に準ずる書籍を出版するに当たって,相続人が個別具体的に複製・展示の許可を求めることを容認するはずがない,本件エスキースは,本件書籍147頁のうちのわずか3ぺージ半を占めるだけである,仮に何らかの損害を被るとしても,金銭的な補填による回復で足りる性質のものであるのに対し,本件書籍が販売禁止となると,今後この種の書籍は刊行される見込みは極めて薄く,そのことによる後進の建築家の受ける損害には計り知れないものがある,とし,被控訴人の本訴による権利行使は,著作者の意に反し社会的相当性を逸脱したものであり,権利の濫用に当たるから,権利行使は許されないと主張する。
しかしながら,Dが生存していたとして,本件エスキースについての本件で問題とされている利用について,果たしてどのような態度をとったかは,簡単にはいえないことである。また,著作権を相続により取得した相続人が,被相続人と異なる見解を有することは,当然に,予想されることであり,これが非難される筋合いのものでないことは明らかである。本件についても,仮に,本件エスキースの著作権の処分について被控訴人らの見解が,Dの見解と異なることになるとしても,被控訴人らが,その見解によって行動したからといって,何ら非難されなければならないものではない。
また,本件エスキースが本件書籍147頁のうちの3ぺージ半を占めるだけのものであるとしても,著名な建築家であったDの作品であるということで高い掲載の価値を有していたことは明らかである。
これらのことを考えると,仮に,本件書籍の発行ができなくなることにより後進の建築家が損害を受けるなどのことがあるとしても,控訴人の違法な行為に対し,被控訴人らが著作権及び著作者人格権に基づく訴訟を提起し得ることは,当然のことであり,本訴が権利の濫用に当たるものではないことは,明らかというべきである。
【注】「エスキース」とは、「建築家が建築物を設計するに当たり、その構想をフリーハンドで描いたスケッチ」のこと。
<平成130918日東京高等裁判所[平成12()4816]>

被告両名は、「原告が、その執筆にかかる序文ないしはあとがきの原稿内容を修正されたい旨の被告両名の申入れに対し表現の自由を楯にとつて耳を藉さず、当初は原告の承諾もあつて着々と進められてきた「新版地のさざめごと」の出版発売の日程がさし迫つているにもかかわらず、これを無視して、自己の意見に固執して止まなかつたため、被告両名は、切迫した事態に追い込まれ、やむをえず、「新版地のさざめごと」の出版にふみ切つたのであつて、このような事情のもとでの本訴各請求は権利の濫用として許されない」旨主張する。
なるほど、書籍に掲載される序文あるいはあとがきは、その内容如何によつてはその書籍の解説となり、また、当該書籍の性格を決定づける重要な役割を果たすことにもなるから、序文あるいはあとがきの内容については出版社(者)としても無関心ではありえないであろう。しかしながら、元来著作物ないし編集著作物は、当該著作者ないし編集者の思想又は感情の表現であり主張であることに徴すれば、著作者が自己の著作物ないし編集著作物に掲載すべく執筆した序文あるいはあとがきは、著作物ないし編集著作物と一体をなすものとして、右表現あるいは主張と不可分の関係にあるものといえるから、対出版社の関係でも、その序文あるいはあとがきの内容如何にかかわらず、最大限尊重されるべきものであつて、著作者ないし編集者が、自己の執筆にかかる序文あるいはあとがきについての出版社からの修正の申入れを拒絶することは何ら非難されるべきことではなく、却つて著作者ないし編集者としては、この申入れに対しては特段の事情のない限り、これを拒絶しうるものというべく、しかして、出版社としても、出版事業に対する考え方等に基因して一定の立場ないし方針を有しているものであることは推察するに難くなく、著作者ないし編集者との間の出版権設定ないし出版許諾の合意の後に執筆された序文あるいはあとがきの内容が当該出版社の立場ないし方針と合わないにもかかわらず、これを掲載して当該著作物ないし編集著作物を出版することを右合意の効果として強制されるいわれはないというべきであつて、してみれば、著作者ないし編集者の執筆した序文あるいはあとがきについて、出版社がこれを修正しない限り出版できない旨確定的に申入れ、著作者ないし編集者が右修正を拒絶した時点において、著作者ないし編集者と出版社との間で予めなされた当該著作物ないし編集著作物に関する出版権設定ないし出版許諾の合意の効力は当然に失われる(したがつて、出版社は当該著作物ないし編集著作物を出版することができなくなることもちろんである。)と解するを相当とする。
そして、著作者ないし編集者が出版社からの序文あるいはあとがきの修正の申入れを拒絶することができない右特段の事情とは、例えば著作者ないし編集者が出版社の出版を妨害するため害意をもつてことさら右修正の申入れを拒絶したとき、あるいは出版社において当該書籍を出版すべき緊急の必要性があるときなどをいうのであつて、これら特段の事情が認められない限り、自己の執筆にかかる序文あるいはあとがきについての修正申入れを拒絶した著作者ないし編集者が、右序文あるいはあとがきを掲載しないまま当該著作物ないし編集著作物を複製出版する出版社に対して、著作権ないし編集著作権の侵害あるいは著作者人格権ないし編集著作者人格権の侵害を理由にその出版の差止等を請求することは何ら権利の濫用には当たらないといわなければならない。
(略)
してみると、本件編集物の共同編集者の一人である原告が、本件編集物を「新版地のさざめごと」として複製出版することを当初容認し、引続いてこれに関与していたとしても、自己の執筆にかかる序文ないしはあとがきの内容の修正を執拗に求められるに及んで、これを拒絶して「新版地のさざめごと」出版についての予めの取決(これが原告を拘束するものであつたとして)を失効せしめ、被告両名に対し、右序文ないしはあとがきを掲載しないままの形で「新版地のさざめごと」を出版することを許諾せず、編集著作権及び編集著作者人格権の侵害を理由にその出版の差止等を請求することは適法な権利の行使であつて、これを目して権利の濫用とは到底いいえない。
<昭和550917日東京地方裁判所[昭和44()6455]>

被告は,原告による著作権の行使は権利濫用に当たり許されないと主張する。
美術品を譲渡するに当たっては,その美術品がどのようなものであるかという商品情報の提供が不可欠であるとして,そのための複製等が著作権者の許諾を得ることなく認められるべきであるとの要請があることはある程度理解することができないわけではない(平成2211日から施行される改正著作権法47条の2では,美術品等の譲渡の申出のための複製等が一定の要件の下に許されることとされている。)。
しかしながら,著作権法は,複製権等が制限される場合を列挙して規定しており,その権利制限規定に該当しない以上,上記のような複製の必要性が認められるからといって,当然に著作権者の権利を制限すべきものとはいえない。
(略)
また,被告は,オークションカタログへの無許諾の画像掲載は,確立した国際慣習である旨主張するものの,そのような慣習が存在することを認めるに足りる証拠はなく,また,仮にそのような慣習があったとしても,強行規定である著作権法の規定に反するものであるから,被告が行った複製行為が適法となるものでもなく,また,その複製行為に対する権利行使が濫用となるものでもない。
<平成211126日東京地方裁判所[平成20()31480]>

【事案の概要】本件は、「本件書籍」を発行している控訴人社団法人シナリオ作家協会(1審原告。「原告協会」)と、「本件小説」を原作とする「本件映画」の製作のために「本件脚本」を執筆した控訴人X(1審原告。「原告X」)が、本件脚本の本件書籍への収録及びその出版を承諾しなかった本件小説の著作者である被控訴人(1審被告。「被告」)に対し、被告の委託を受けて本件小説の著作権を管理している株式会社文藝春秋と、本件映画の企画製作プロダクション会社である有限会社S(制作プロダクションS)との間で締結された本件小説の劇場用実写映画化に係る原作使用契約(「本件原作使用契約」)において、著作物の二次的利用については、「文藝春秋は,一般的な社会慣行並びに商習慣等に反する許諾拒否は行わない」との条項があることに照らすと、本件脚本を本件書籍に収録して出版することについては原告X及び原告協会と被告との間で許諾合意が成立していたと認めるべきであり、被告の不承諾は不法行為に当たる旨主張し、上記許諾合意に基づき、原告らにおいては本件脚本の本件書籍への収録及びその出版を妨害してはならないことなどを求めた事案の控訴審である。
当裁判所は,「原告協会が,原著作者である被告の許諾を得ることなく,本件脚本を本件書籍に収録し,出版しようとする行為について,被告が許諾を与えないことは権利濫用に当たる」旨の原告協会の主張は,理由がないと判断する。その理由は,以下のとおりである。
(略)
このように,被告は,制作プロダクションSにより一方的に設定されたスケジュールを根拠に時間を急がされながらも,具体的な理由を述べて,本件脚本が原作者である被告の意には沿わないものであることを終始一貫して示し続け,原作者として譲れない点に絞って変更を申し入れていた。そして,本件において,被告が著作権の行使に藉口して過大な利益を得ようとか,第三者に不必要な損害や精神的苦痛を与えようなどといった不当な主観的意図を有していることを疑わせるような事情は一切見当たらない。
また,被告が本件脚本の掲載出版に対する許諾を拒否した理由は,小説の原作者として譲れない点に絞った変更を申し入れ続けていたにもかかわらず脚本家側から誠意ある脚本の変更がされなかったと被告が感じていた点にあるものであって,本件脚本の本件書籍への収録出版を許諾しないことによって守られる,本件小説に込めた被告の原作者としての思想,信条,表現等や被告のプライバシーに係る不安が,原告協会主張の本件脚本の文化的,公共的価値等に比較して小さな利益にすぎないものということはできない。
以上によれば,原告協会が本件脚本を本件書籍へ収録して出版することについて,被告が許諾を与えないことは,正当な権利行使の範囲内のものであって,権利濫用には当たらないというべきである。
原告協会は,原告協会が本件書籍に本件脚本を掲載する上で,不足している許諾は,本件小説の著作者である被告の許諾のみであることを権利濫用を基礎付ける事情として主張する。
しかし,原告協会の上記主張は採用の限りでない。すなわち,被告は,二次的著作物である本件脚本の原著作物の著作者として,本件脚本の利用に関し,原告Xが有するものと同一の種類の権利を専有している以上(著作権法28条),本件脚本の掲載出版に対する諾否の自由を有しているのであって,被告以外の関係者が本件脚本の掲載出版に対して許諾を与えていることがあったとしても,それによって被告の権利が剥奪されることにはならないから,原告協会の上記主張は,権利濫用を基礎付ける事情としても,採用の限りでない。
原告協会は,被告の許諾権は本件原作使用契約第35項ただし書に基づき「一般的な社会慣行並びに商慣習等」により制約されており,かつ,許諾の拒絶は少なくとも極めて例外的な事例であり,原告Xが,脚本の出版について,著作権使用料を支払うことにより原則として許諾されるものと理解し,期待したことは当然であることを,被告の権利濫用を基礎付ける事情として主張する。
しかし,原告協会の上記主張も,採用の限りでない。すなわち,①原告協会は,本件原作使用契約の当事者ではなく,その契約条項の効力を援用することはできないから,権利濫用を基礎付ける事情としても,本件原作使用契約の条項を援用することはできない。また,②その点を除いても,原作者が映画化について許諾をした以上,脚本の掲載出版についても許諾をする一般的な社会慣行及び商慣習があると認めるに足りる証拠はないから,そのような社会慣行等の存在を前提とする原告協会の上記主張は採用の限りでない。さらに,③映画の脚本の本件書籍への掲載出版の拒絶が極めて例外的な事態であったとしても,そのことをもって著作権法28条に基づく原著作物の著作者の諾否の自由が奪われるものではないから,被告以外の関係者が許諾済みであることが被告の権利濫用を基礎付ける事情になるともいえない。そして,被告が本件原作使用契約の締結により本件小説の映画化や,そのDVD化やテレビ放送の許諾をしていたとしても,それらは,あくまでも「映像化」及びその上映宣伝等に必要な範囲での許諾であると通常は理解されるのであって,本件脚本を本件小説と同様の「活字」による創作物として外部へ独自に発表することに対する許諾を当然に含むものであるとは理解されないから,被告が本件映画の製作やDVD化,テレビ放送を許諾したことによって,本件脚本の出版についても被告の許諾を得られるのではないかとの期待を契約当事者ではない原告Xらが抱いたとしても,それは,事実上の期待にすぎないものであって,法律上保護されるべきものであるとはいえない。
なお,本件原作使用契約書の第35項ただし書,(8)項において,「一般的な社会慣行ならびに商慣習等に反する許諾拒否」(ただし書)は,「脚本の全部…を使用した出版物を作成し,複製,頒布すること。」について行わないと合意されている点について検討してみても,その文言に照らせば,「一般的な社会慣行ならびに商慣習等」に反しなければ「許諾拒否」を行うことが原著作物の著作者になお留保されているものと意思解釈するのが相当である。そして,本件においては,前記認定の事実経過に照らせば,被告の許諾拒否が「一般的な社会慣行ならびに商慣習等」に反したものであるということはできないから,前記約定の存在を考慮しても,なお被告の許諾拒否が権利濫用に当たるということはできない。
<平成230323日知的財産高等裁判所[平成22()10073]>

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