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カネダ著作権事務所

著作権判例エッセンス

NICHOLS v. UNIVERSAL PICTURES CORPORATION et al., 45 F.2d 119 (2d Cir. 1930)
< Hand判事が示唆した「“抽象化”の公式」("abstraction" formulation)で有名なケース>

【概要】

本ケースにおける原告は、Abie's Irish Rose”というタイトルの戯曲の作者です。一方、被告は、The Cohens and The Kellys”というタイトルの劇映画を製作した会社です。本ケースで、原告は、被告の製作に係る当該劇映画は、著作権によって保護されている、原告の著作に係る戯曲Abie's Irish Rose”を剽窃した(コピーした)ものだと主張し、その著作権侵害を訴えました。
上訴裁判所(第2巡回区控訴裁判所)の判断は、「被告の劇映画は、原告の作品の著作権侵害というには、あまりに似ていない」(We think the defendant's play too unlike the plaintiff's to be an infringement.)というものでした。

ここでは、本ケースで問題となった2つの作品の詳しい中身の解説は割愛しますが、私も、両作品は「似ていない」と思いました。つまり、「両作品に唯一共通している事柄といえば、ユダヤ人の父親とアイルランド人の父親の間の確執、彼らの子供の結婚、孫の誕生そして和解だけで」(The only matter common to the two is a quarrel between a Jewish and an Irish father, the marriage of their children, the birth of grandchildren and a reconciliation.)であって、個々の場面、そこで取り上げられている具体的な出来事やキャラクター(登場人物)は相違していて、結局のところ、「物語は全く違う」(The stories are quite different.)と評価できそうでした。

【表現とアイディアを峻別する抽象化理論】

本ケースは、著作権法の研究者や実務家の間では有名な判決で、ここでHand判事が示唆した考え方は、「抽象化の公式」("abstraction" formulation)などと称されています。「表現」と「アイディア」をいかに区別したらよいかという難題に対してその解決への一定の筋道は示唆していると思います(もっとも、その示唆はいまだ「抽象的」すぎる部分もありますが…)。より具体的に言うと、本件で問題となった戯曲のような言語(文学的)著作物-それは、「テーマ」(a theme)、「アウトライン」(an outline)、「プロット」(a plot)、「個別のシーンや出来事」(a separate scene or incident)、「対話部分」(part of a dialogue)、「登場人物」(a character)等で構成されている-をどこまで著作権で保護することが妥当かという問題に係わります。わが国で言えば、小説などの言語著作物の「翻案」をどこまで認めることができるかという問題を考える際に参考になるでしょう。

Hand判事が示唆した「抽象化の公式」の概略は、次のとおりです:
『コモンローによるか制定法によるかを問わず、著作権(による保護)が文字通り原文に限定されることがないのは、言語(文学的)著作物の保護にとってもちろん本質的なところである。そうでないと、剽窃者は、ささいな変更で(著作権侵害から)逃れてしまう。(略)戯曲に関する限り、剽窃者は、個別のシーンを抜き取るかもしれないし、対話の一部を盗用するかもしれない。問題は、そのように剽窃された部分が「実質的なもの」かどうか、それ故に、当該部分が著作権によって保護される著作物の「フェア・ユース(公正利用)」に当たらないかどうかという点である(この問題は、著作権によって保護されるその他の著作物の場合にも生じるものである)。しかし、剽窃者が本来の場所からひとかたまりを抜き取るのではなく(依拠した作品から個別のシーンや対話の一部をコピーすることなく)、全体の抽象化された部分(テーマやアウトライン、プロット等)を剽窃する場合には、判断はより面倒になる。いずれの著作物においても、とりわけ戯曲に関しては、(その中で語られる)より多くの出来事が除かれるにつれて、(物語の)一般化は進み、その一般化の非常に多くのパターン[傾向]は、全体の抽象化された部分を剽窃する場合と同様な程度に、判断がやっかいになる。おそらく最後は、その戯曲を最も一般的に説明したものだけになるかもしれない。ときには、最後に残るのは、そのタイトルだけかもしない。しかし、この一連の抽象化の過程には、もはや著作権によって保護されることがない地点がある。なぜなら、そうでなければ、劇作家は、彼の(その表現とは区別されるところの)「アイディア」、つまり彼の作品の著作権が決して及ぶことがない部分の(他人による)利用を妨害することができてしまうからである。これまでその境界を設定できた者はいないし、それをすることは誰にもできない。』

It is of course essential to any protection of literary property, whether at common-law or under the statute, that the right cannot be limited literally to the text, else a plagiarist would escape by immaterial variations. (omitted) When plays are concerned, the plagiarist may excise a separate scene; or he may appropriate part of the dialogue. Then the question is whether the part so taken is "substantial," and therefore not a "fair use" of the copyrighted work; it is the same question as arises in the case of any other copyrighted work. But when the plagiarist does not take out a block in situ, but an abstract of the whole, decision is more troublesome. Upon any work, and especially upon a play, a great number of patterns of increasing generality will fit equally well, as more and more of the incident is left out. The last may perhaps be no more than the most general statement of what the play is about, and at times might consist only of its title; but there is a point in this series of abstractions where they are no longer protected, since otherwise the playwright could prevent the use of his "ideas," to which, apart from their expression, his property is never extended. Nobody has ever been able to fix that boundary, and nobody ever can.

具体的な登場人物と、一連の出来事の順序[配列]sequence of incident)は、戯曲における「実質的な部分」(substance)だと考えられます。本ケースにおいて、上訴裁判所は、被告は、出来事と登場人物の両面に関して、「法が許容する以上もの」(つまり、他人の著作権を侵害する部分)をひとつも利用していない、と判示しています(In the two plays at bar we think both as to incident and character, the defendant took no more assuming that it took anything at all  than the law allowed.)。

本ケースにおける核心は、つまるところ、「アイルランド人とユダヤ人の間の衝突をもとにしたコメディー(その中には、子供の結婚話が入っている)が著作権による保護を受けることができないのは、ロメオとジュリエットのアウトライン[筋・骨子]が著作権による保護を受けないのと同様である」(A comedy based upon conflicts between Irish and Jews, into which the marriage of their children enters, is no more susceptible of copyright than the outline of Romeo and Juliet.)ということになりそうです。実際に描かれたものから「一般化がかなりの程度進んだ抽象的な部分」(too generalized an abstraction)は、結局のところ、「アイディア」の一部に過ぎず、そこに著作権が及ぶことはありませんが、そこをどこで線引きしたらよいかは、古今東西を問わず、著作権法中の最も難しい問題の1つといえそうです。

最後に、登場人物に関して付言すると、stock characters[figures]”と呼ばれる、ある場面や設定(例えば低級の人種コメディー)に登場する典型的なキャラクター、ステレオタイプ(定番)といった類のものは、パブリックドメインに含まれ、誰でもこれらを自身の作品の中で自由に登場させることができます。そこに、著作権侵害の問題は、通常起こることはありません。「キャラクター創作の完成度は低ければ低いほど、そのキャラクターが著作権によって保護される度合いも低くなる。これは、ほかのキャラクターと区別がつきにくいキャラクターを創作することに対して、その作者が負うべきペナルティーである」(It follows that the less developed the characters, the less they can be copyrighted; that is the penalty an author must bear for marking them too indistinctly.)と、Hand判事は述べています。

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