村上木彫堆朱 村上市
村上木彫堆朱彫刻士
🔗有磯周斎村上市で代々伝えられてきた日本の伝統工芸品の一つ村上木彫堆朱を作成する技術を持っている人に与えられる称号です。近年では伝統工芸が廃れてきていることが問題ともなっており後世へ技術を継承することが急務として進められてきました。そんな中で後継者たちに技術を伝え、自らも村上木彫堆朱を彫刻することができることを証明するために作られ公認の資格です。詳しくは新潟県職業能力開発協会で。 村上で生産される漆器の中で生地に彫刻を施し、朱漆を塗ったものを堆朱と、黒漆を塗ったものは堆黒という。 (村上堆朱の歴史)今から600年前応永年間(1394-1427)に、京都の漆工が中国の本堆朱を模して木彫りの上に漆を塗る技法を取り入れ、村上には寺院建築のためにやってきた漆工が伝えたものと言われる。村上近郊、岩船郡一帯には漆樹が多く、村上藩では漆液と蠟の生産のため漆の木の植栽を奨励した。 江戸時代初期から中期にかけて村上藩主の交代が頻繁になるとそれに伴い寺社建築なども盛んに行われ、歴代藩主は技術を保護・奨励したことから、彫刻や漆塗りの技術がこの地に残った。寛文年間(1661-1673)漆奉行が設置され、漆の木の植栽を奨励した。 享保年間(1716~1741)には現在の木彫り堆朱・堆黒が生産され、堆朱彫りは藩内に広められて漆塗りの技とともに次第に発達がみられた。そうした技術の結晶が羽黒神社の大祭に引き出されるシャギリ屋台である。 (現在の木彫堆朱の確立)幕末近い文政年間に江戸詰の村上藩士の頓宮次郎兵衛、沢村吉四郎が江戸の玉楮象谷に堆朱の技を学んで郷里にもたらし、村上の町方にも広がり、次第に今の村上堆朱となったとみるべきである。本来の堆朱は漆を何百回と塗り重ねたものに彫刻を施したもので、その製法には長い年月を必要とするところから、それを模したものに彫刻を施し漆を塗る鎌倉彫が生まれたわけである。 今日の村上堆朱は、本堆朱などの研究や中国風の図案に写実性を加味して品質の向上を図り、この鎌倉彫の彫法を加えるなどして、本来の堆朱のもつ精緻なしかも雅趣ある姿を求めて、有磯周斎をはじめ多くの工人たちの努力によって作りだされた。その大成は明治10年代(1877-1886)と見るべきであろう。 有磯周斎は技巧の向上のほか、活発に販路の拡大を進めて漆器を村上の特産品にし、今日の村上漆器の基礎を固めたとされる。 明治に時代が変わり、廃藩置県で路頭に迷った士族たちが、手内職としてこの堆朱に取り組んだことも、漆器を単なる趣味嗜好品から、生業としての漆器業の段階に発展させる一翼を担ったといわれる。 (製作)村上堆朱は分業して製作され、工程は木地・彫刻・漆塗りに分かれている。木地師は型ものや箱ものには、ホウ、ヒノキ、刳物にはトチ、ケヤキなどを使用して木地を作る。 彫師は陽刻と陰刻の中間的な仕様で絵付けをする。図柄は北画・南画風の橉閣山水画や花鳥唐草模様が多く使われ、縁などの図紋には雷紋がよく使われる。 塗師が漆を塗る。漆塗りは、村上堆朱には、堆朱・堆黒・朱溜塗りなど六種類の漆塗りの技法がある。 その工程は複雑で高度な技術を必要とし、盆のようなものでも半月以上、茶棚など大きなものは年余の日程を必要とする。 代表的な堆朱は朱の上塗りを艶消し仕上げにした、落ち着いた風合いが特徴の漆器。完成直後はくすんだ肌をしているが、半年ほどで鮮やかな朱色に変わり、使うごとにつやが出てくる器である。 村上堆朱は漆が剥げ落ちることがないが、これは本漆のみを使用し化学漆を使用していないからである。 昭和30年(1955)に県無形文化財指定となり、昭和51年(1976)には通産省から「村上木彫堆朱」の名で伝統工芸品として指定を受けている。 平成29年(2017)2月、村上木彫堆朱 新ブランド「朱器」がスタートした。現代のクリエイターと村上木彫堆朱の職人のコラボレーションから生まれた、普段使いの漆器ブランド。気持ちを晴れやかに演出する“朱色”を活かしたデザインモチーフで、ひとつひとつ職人の手によって作られています。 🔙戻る
有磯周斎
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