鏡ヶ池 Kagamigaike Pond 十日町市
謡曲「松山鏡」の舞台として知られる、松之山中尾地区にある小池。昭和61年に「鏡ヶ池公園」として造成整備された。 伝説に出てくる鏡ヶ池には次のような話がある。 奈良時代の「万葉集」の歌人として知られる大伴家持の家柄は、武人の家系であった。朝廷から東夷征伐の命令を受けるが、征討に失敗しむなしく京に帰ると、官職をはく奪され追放同然となった。 家持は、各地を流浪の末越後国松之山に落ち着き、篠原刑部左衛門と名乗ってこの地の中尾に隠棲していた。やがて土地の女との間にお京という娘を授かる。 お京は美しい娘だった。そのうち妻が不治の病で倒れた。助からないと覚悟をした彼女はある日、娘お京を枕辺に呼んで、形見に鏡をわたして息を引き取った。 お京は悲しみに堪え切れず、池のほとりで、鏡に映る自分の顔が母の顔のように見えて泣き悲しんでいた。 刑部左衛門は、ある人の世話で地元から後妻をもらった。その後妻は意地の悪い女で、お京は毎日折檻される日が続いた。 ある日お京は折檻に耐え切れず、母の形見の鏡を胸に抱き、森の中の池の畔で泣いていると、まるで鏡のような水面に悲しげな母の姿を見た。それが自分の姿とも知らずに、あまりのなつかしさと母に会いたい一身で、鏡を抱きしめ、「お母さん!」と叫びながら池の中へ飛び込んで若い命を絶った。里人は、お京を憐れんで、霊を手厚く葬ったという。 お京が投身した池はいつしか「鏡ヶ池」と呼ばれるようになったという・・・。 それから何年かたったある日、東夷征伐に来た坂上田村麻呂が刑部左衛門と名乗っている家持を訪ねた。久しぶりに会った二人は、夜の更けるのを忘れて話し合った。その時、家持が詠んだのが 白きを見れば夜ぞ更けにける という名歌と言われる。 その後都に帰った田村麻呂のとりなしで、家持も都に帰り、官職につくことができた。後妻はお京が池に身を沈めてから自分の非を悟り、夫と別れてその地に残り黒髪を剃って尼になった。そして家持が秘蔵していた観音像をもらって池のほとりに草庵を建て、お京の菩提を弔いながら読経三昧の生活を送ったという。 今も、この物語を秘めた中尾集落に「鏡ヶ池」「お京塚」「刑部屋敷」などの古跡が残っている。 この伝説が、明治時代にドイツ語に翻訳され、「世界童話集」に収録された。そして、後に尋常小学校の教科書に載り、また謡曲や落語「松山鏡」としても親しまれるようになった。 また、鈴木牧之も『北越雪譜』の中の「菱山の奇事」で「松山鏡」について触れている。 永い間に数度の地すべりによって変容し、当時の様子を変えてしまったが、「松山鏡」を後世に伝える為、池畔近くにある、樹齢約1000年の大杉(県指定文化財、通称亀杉)があり、その昔を物語っていたが、豪雨の影響などにより、平成23年(2011)8月2日 夜9時頃倒壊してしまった。
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