管領塚 ( かんりょうづか ) Kanrei's Mound 十日町市



🔗管領塚史跡公園

松之山温泉街から約1キロ離れた天水越の松里小学校付近に管領塚の碑と「正四位上杉房能自刃之跡」の石柱が建っている。

戦国の乱世、永正4年(1507)8月1日、越後守護上杉房能が家臣の守護代長尾為景(上杉謙信の父)に越後国府を追われるクーデターが起きる(永正の乱)。越後における下剋上の始まりであった。

上杉房能の父、上杉房定は長男が戦死していたことから、次男顕定を関東管領とし、三男房能を越後守護とした。
房定・房能父子は関東地方で勢力を増していた北条氏に対抗する関東管領上杉家救援のため、常に関東へ目を向けていたが、この間守護代長尾能景(為景の父)が上杉家を助けよく国を治めた。
上杉房能は明応3年(1494)に父房定の死で越後守護上杉家を相続したが、嗣子がなかったので文亀3年(1503)娘の婿に上条城主上条房実の子(定実)を迎えることにした。
永世3年(1506)、長尾能景は越中守護畠山尚順の要請で越中へ出陣し、一向一揆と般若野(砺波市)で戦い、家臣もろとも壮烈な戦死を遂げた。
しかしこのとき、上杉房能が応援の兵を派兵しなかったことや、房能が上杉家の戦国大名化を目指し、在地領主の特権を制限しようとしたことから、長尾為景外豪族たちと修復不能の対立が生じた。
永世4年(1507)8月1日、長尾為景は上杉房能の養嗣子定実を擁立し、房能排斥のクーデターを起こした。府中の為景の居館荒川館に兵を集め、荒川(関川)を挟んで対岸にあった上杉房能の守護館である稲荷館を急襲した。この時、守護方の豪族は地方に主力があり、府中の守護館で応戦する兵力は少なかった。
8月2日、上杉房能はわずかの兵を率い、関東管領である兄の上杉顕定をたよって関東に向って逃亡した。途中、安塚町(上越市)の直峰城に立ち寄ったが、為景軍を支えきれなくなり、松之山まで落ち延びた。
当時は、府中から三国街道に抜ける間道として、安塚~松之山~妻有の道が使われていた。逃れようという一心から眺望のきく矢筈の山頂に登った。だが、眼下に見る信濃川には為景の大群がひしめいていた。房能たちは、天水越えまで引きかえしたが、もうこれ以上は逃げ切れぬ・・・と観念し、8月7日未の刻(午後2時頃)、百余名全員が自刃した。このとき家臣山本寺定種、平子朝政らも討ち死にした。上杉房能は33歳であったといわれる。

明治の初めまでは、管領塚のそばに、鎧をたてかけた桜の木や供養のための草庵があったといわれている。上杉房能が文亀元年(1501)、費用の捻出に窮していた後柏原天皇御即位大礼費50貫を朝廷に献上したことにより、大正天皇御即位大典の大正4年(1915)に、房能は正四位を追贈された。この時これを記念して「管領塚」の碑が建てられた。
房能は管領ではなかったが、兄である関東管領上杉顕定と混同されて「管領塚」と伝えられたともいう。

房能の婦人綾子の方や女子どもは、鵜川(柏崎市)の谷に落ち延びたといわれる。「綾子舞」として今に伝わる民族芸能は、婦人の形見の舞いといわれている。また、房能の娘に瘡気(腫物)ができたとき、松之山温泉で湯治させ完治した話は有名である。

☯平成19年(2007)8月12日、十日町市松之山で「上杉房能公五百年祭」が開催された。




≪現地案内看板≫

管領塚

越後守護、上杉房能公自刃の地。
今から五〇〇年前春日山城の重臣長尾為景公は(上杉謙信の父)地位の高い房能公と仲が悪く新守護に上杉定実公をたてて反乱を起し房能公を追い出した。
戦いは激しく房能公は追われ、武蔵の国、鉢形城の兄上杉顕定のところへ逃れようとして、ここ天水越まで来たが、行く先も敵に囲まれ、もはやこれまでと思い、主従百余名と共にこの地にて自刃しました。
時は永世四年八月七日未の刻であった。
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管領塚史跡公園

関東管領上杉顕定の墓を整備公園化したもの(約800平方メートル)。上杉謙信の父長尾為景に討たれた弟越後守護上杉房能の仇を討たんと越後に遠征し、善戦のかいなく長森原で戦死した武将の墓である。
平成20年(2008)には南魚沼市を挙げて「関東管領上杉顕定公戦没500年祭」が開催された。

《上杉顕定》

〔生〕享徳3年(1454)~〔没〕永正7年6月20日(1510年7月25日)
1454年(享徳3)越後守護上杉房定の二男として越後に生まれた。1466年(文正元)に関東関東管領上杉房顕が陣中で急死した後、嫡男がいない房顕の家督を継ぎ、1510年(永正7)に亡くなるまでの44年間、関東管領職に在位した。1478年(文明10)から亡くなるまでの32年間、鉢形城に在城した。1510年(永正7)6月20日、敗走途中に為景方の援軍と長森原の戦いの結果戦死する。顕定の死後、関東管領職を巡って、内乱が起き山内家上杉氏の衰退に繋がった。

《長森原の戦い》

戦国大名への歩みを進めようとする守護代長尾為景は、主君である越後守護上杉房能との対立は決定的となった。永正4年(1507)8月1日、為景は房能の養子定実を奉じて、府中の為景の居館荒川館に兵を集め挙兵する。荒川(関川)を挟んで対岸にあった上杉房能の守護館である稲荷館を攻撃する。
翌日、防ぎきれないと房能はとるものもとりあえず、腹心の者と兄顕定のいる関東をめざして、安塚道をのがれようとした。ついに7日、為景軍に包囲され天水越(現十日町市松之山)で自刃する。
関東管領上杉顕定は弟房能の戦死を知って激怒した。永世6年(1509)、為景を討伐するため養子憲房とともに関東勢8000騎をもって越後に乱入し荒川館を攻撃した。
破れた為景は、守護定美を擁して西浜(糸魚川市)へ敗走した。この地の豪族村山盛義は為景に味方して、顕定軍を姫川口に破り、浦本(糸魚川市浦本)まで陣を進めたが、2度目の激戦で敗死した。
本庄房長・色部昌長などの揚北衆をはじめとする在地豪族たちは顕定に味方し各地で為景軍を破った。

為景は隣国越中に退去し、軍勢を集め、高梨・市川等の信州勢も再組織した。一方越後国内では、三条城山吉能盛・黒滝城黒田・揚北の中条藤資等が顕定軍に抵抗したため、顕定軍は制圧を急いだが、戦闘をおさめることが出来ず、関東に帰還することもできなかった。
一方為景は、関東の長尾景春が北条早雲と連絡して顕定方をおびやかすよう謀った。
翌年永世7年(1510)4月20日、為景は海を渡り佐渡で兵を合して蒲原津(新潟市)に上陸した。寺泊港を占領し、椎谷の山地に陣を敷き、これを攻めた顕定の養子上杉憲房の軍を破った。上杉憲房は妻有庄(中魚沼郡)に退き、上州へ引き上げた。
為景軍が府中に迫ると顕定は敗走し、同年6月20日、上田坂戸城主長尾房長と信州高梨政盛に追い詰められて、長森原で激しく戦ったが、同日酉の刻(午後6時頃)に部下多数とともに討ち死にした。顕定は57歳であった。
こうして、長尾為景は主人2人を討ち、一国を掠め取った下剋上乱世の奸雄となった。
かつては原野であった長森原古戦場の付近には、戦没者を埋葬したといわれる塚が多数あったが、現在開墾されて新たにできた下原新田に管領塚史跡公園として整備された。
顕定の墓といわれる三層の宝塔の形をした墓碑は、表面に「于時元禄三」と刻まれており、江戸時代の建立とも思われるが、誰の手になるのか判然としていない。



  • ❏〔所在地〕新潟県南魚沼市下原新田
  • ❏〔アクセス〕
    • 🚅…JR上越線「六日町駅」より車で20分
    • 🚘…関越自動車道「六日町IC」より車で15分
  • ❏〔駐車場〕 ✖
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