裸押し合い祭り Naked Oshiai Grand Festival 南魚沼市
☆ 裸押し合い祭り ☆
普光寺の毘沙門堂は、数百年の歴史を持ち、わが国の日本の三大奇祭の一つと知られる浦佐裸押し合い祭りの舞台として知られる。
祭は毎年3月3日に行われ、信者より奉納された大蝋燭(40kg)100本に点火され行われる諸行事は見る祭典として「北越雪譜」の中に詳しく記されている。
1,200年前に坂上田村麻呂により建立された普光寺毘沙門堂の本尊に、多くの信者が他人より早く祈願しようと押し合ったのを起源とする祭りといわれる。
以前は毎年正月3日に行われていが、明治6年(1873)から3月3日に行われる様になった。(※2020年(令和2)からは毎年3月第1土曜日に変更)
「正月三日に年男参りたりや」「まんぐわに手がけて春は来たりとのはら」「黄金に花 が咲き、四っつのすみのように」と年男たちが音頭を取り、その年男を囲み、約70本の大蝋燭が奉納される。一番大きな蝋燭は高さ120センチほど。重さは60キロにも及ぶという。大蝋燭を持った若者を先頭に、裸に晒し姿の数百人の男たちが、冷たい池に飛びこみ水行(みずごり)で体を清める。
その後、その年の除災招福を祈願するために「さんよ(散与)、さんよ」の掛け声と共に五穀豊穣、家内安全身体健康を願い、ご利益の御札を我先に奪い合い、もみ合う勇壮なこの雪国の祭は深夜に及ぶ。
普光寺の県内外の講中は七十余り、当の3月3日の夜は、その信者たちと数万の見物人で境内と浦佐の通りは埋め尽くされる。この祭は、伝統的に浦佐の若い衆(現在は多聞青年団)によって取り仕切られ、町を上げての行事となっている。
2019年(平成31)3月8日、国の重要無形民俗文化財に指定された。また2020年(令和2)からは毎年3月第1土曜日に開催されることとなった。
普光寺境内の一角には彫刻家北川岸次の彫像があり、境内のすぐしたには井口喜夫の「流転像 」が立っている。2人とも浦佐出身の傑出した芸術家であ。
☆ 裸押し合い祭りの言い伝え ☆
昔、浦佐に杢市というあんまが住んでいた。ある冬の寒い晩、毘沙門堂の納所坊主、珍念に頼まれ、うす暗いお堂の中で一生懸命に珍念の体をもんでいた。そのうち杢市の顔がだんだん青ざめ、体がぶるぶる震え出したが、そのうちキャーという声をあげて、ひ
っくり返ってしまった。
杢市は珍念をもんでいるうちに、珍念の骨組みが人間でないことがわかったからだ。見破られたと知った珍念の顔は、見る見る変わっていった。口は耳まで裂け、目はらんらんと輝き、大きな牙が生えていた。そして今にも飛びかかろうとしていた。その姿は何百年も生きてきた大きな山猫だった。山猫は、
「今夜のことを人に話すと命はないぞ」 といって、闇の中へ姿を消した。
この話は翌日村中に伝わった。村人たちは総出で、夕方まで山狩りをして山猫を探した が、どこにもいなかった。そこで夕方毘沙門堂へ引き上げ、元気付けのためお堂を囲んで、押し合い、へし合いして騒いだ。
そのときお堂の天井浦に隠れていた山猫が、この騒ぎにビックリして飛び出した。しか し大混雑で逃げることができず、とうとう人々の足の下になって踏み潰されてしまった
。それが旧暦の1月3日の夜だった。
それから村では、この山猫退治を記念して、毎年1月3日(現在は3月3日)に、退治した山猫の皮を敷き、当時の混雑をしのんで、押し合い祭りをすることになった。
(新潟県伝説集成)
🔶 越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭
〔開始日時〕 毎年3月3日
☯:前夜祭 ・ご祈祷/午後6時~8時 ・点火式/午後8時~
☯大祭当日 ・日中行事 午前8時30分~/稚児行列、福餅撒与等 ・夜行事 午後5時~午後10時45分 押合、弓張撒与、福餅撒与等
- 〔開催場所〕南魚沼市浦佐2495番地/浦佐普光寺境内毘沙門堂
- 〔問い合わせ先〕 ☎025-777-3773 裸押合大祭委員会
- ❏〔アクセス〕
- 🚅…JR上越線「浦佐駅」より徒歩で5分
- 🚘…関越自動車道「小出IC」または「六日町IC」より国道17号経由、車で約15分
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- ❏〔裸押合大祭を紹介しているサイト〕
- ❏〔駐車場〕 40台
- ❏〔交通情報〕
- ❏〔浦佐毘沙門堂を紹介しているサイト〕
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🌌大ろうそく
裸押合い祭の由来は平安時代にさかのぼる。坂上田村麻呂が浦佐に毘沙門堂を建立し、祝いの宴を開いたことに始まる。われ先に参拝しようと競って押し合い、熱気の熱さから裸になったといわれている。奉納するろうそくの大きさが競われ、徐々にろうそくが巨大化し、現在のような大ろうそくが登場するようになった。奉納者が足元を照らすために使い始めたろうそく。今は行事の中で若者が大ろうそくを担いで町内を練り歩くほか、堂内の押し合いを見守るために燈される。
この大ろうそくを制作して納めているのが「北村ローソク店」で、現在はローソクだけでなく冠婚葬祭用造花、生花を扱う「キタムラ造花・生花店」だという。
大ろうそくは高さ1m~1.2m、重さ30㎏~60㎏。ろうの原料を混ぜ合わせ、50度ほどに温めて溶かし、直径6㎝の芯に下から手で塗り上げていく。塗ったろうが冷めて定着したら、またその上に重ねて塗る。これを繰り返して太くしていき、特注のカンナで曲線を整える。さらに仕上げのろうそくを2度塗りし、笹で磨いて光沢を出す。掛かりっきりで1日に2本しか作れない。11月から作りはじめ、寝る間を惜しんで精を出す。祭り当日の3月第一土曜日の前夜までに約70本を制作する。
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🌸 キタムラ造花・生花店
- 〔所在地〕南魚沼市浦佐1555-1
- 〔問い合わせ先〕☎025-777-3420
普光寺
〔宗派〕真言宗豊山派 〔山号〕吉祥山
浦佐駅の北西約500m、旧国道から数段の石段を登った高台にある真言宗の寺。一般に『浦佐毘沙門堂』として親しまれている。
承久3年(1221年)、鎌倉幕府(将軍源実朝)が、地頭平繁基をして毘沙門堂に堂領を献ずるとともに、僧道乗坊辯覚を毘沙門堂別当に任じた。堂領の管理と年貢など事務を行う必要から、僧道乗坊辯覚がこの地に大伽藍を建てたのが普光寺の創始と言われている。
慶長年間火災により伽藍は焼失したが、現在の本堂は延宝8年(1680)に再建されたものである。
老杉が散在する、明るく開けた広さ9400㎡余の境内に、本堂や毘沙門天をまつる毘沙門堂、庫裏、山門などがたつ。
戊辰戦争時には、浦佐の普光寺には官軍山道軍の先鋒隊本陣が置かれ、前線から私傷病者が送られてきた。浦佐から兵を2隊に分け、会津軍が死守する小出島に向かった。閏4月27日に戦いが行われ、薩摩藩8名、長州藩8名
が戦死し、寺の西山に墓地を造り埋葬、今も「招魂社」として祀っている。また奇兵隊小隊司令元森熊次郎と報国隊大本昇両の遺品が保存されている。のちに戦死者の遺骸は小千谷の船岡西軍墓地に移葬されている。
- 〔所在地〕 南魚沼市浦佐2495番地甲
- 〔問い合わせ先〕☎025-777-2001
- 〔WEB〕 ☛ ホームページ
毘沙門堂は807年(大同2)に 坂上田村麻呂が奥羽征討の折、国家鎮護の為創建したと伝承されている。鎌倉時代には地頭平繁基が堂領を献じ、戦国時代には、上杉謙信や上杉景勝が訪れたことが、残された文書から知られている。江戸時代に入ってからも、徳川将軍家が朱印50石を寄せて保護の手を加えられ、10万石の格式をもって優遇された。
現在の毘沙門堂は昭和6年(1931)に火事で焼失し、昭和12年(1937)に再建されたものである。
3月3日に行われる毘沙門堂の例祭は、『裸押合大祭』あるいは『堂押し』と呼ばれ、奇祭として近隣に知られている。
🔶仁王門(山門)
天保2年(1831)の造営で、総欅造り。基礎に木炭を敷き詰めた耐震性、しかも金釘を用いずに組み立てられた建築である。楼下天井の双竜は谷文晁作、楼上の天井は京都の仏画師板谷桂舟の作、また、中に安置されている30体の仏像は、三条の京屋政五郎の作と言われている。
令和5年(2023)6月19日、楼門を彩ってきた天井画と板絵が、3年間の修復を終えて再び楼門に設置された。
🔶宝物殿
毘沙門堂と普光寺本堂の間に建てられている寄棟造の建物で、別行殿とも呼ばれている。この宝物殿に安置されている高さ高さ1尺3寸の本尊毘沙門天像は、別当普光寺住職一代に1回の開帳ということである。
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普光寺
毘沙門堂
招魂社
キタムラ造花・生花店(北村ローソク店)
仁王門
宝物殿