天平宝字2年(758)〔生〕- 弘仁2年5月23日(西暦811年6月21日)〔没〕 坂上苅田麻呂の次男、または三男として誕生。漢系渡来系氏族で、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系であった。 宝亀元年(770)に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位すると、父・苅田麻呂が道鏡の姦計を告げて排斥した功績により同年(770)9月16日に陸奥鎮守将軍に叙任されている。13歳前後であった田村麻呂は父とともに、陸奥国で幼少期を過ごしていた。 宝亀9年(778)21歳の田村麻呂は七位の官人として出仕している。田村麻呂は身の丈8尺5寸、胸の厚さ1尺2寸、顔は赤みを帯び、眼は鷹のように鋭く、顎髭は黄金の糸を垂れたようで一度怒れば猛獣をも倒すといわれた反面、また笑えば、赤ん坊もなつくといわれた。 天応元年(781)4月3日、光仁天皇は山部親王に譲位して桓武天皇が即位した。桓武天皇は翌延暦元年(782)6月、蝦夷に対する本格的な攻撃を試みる。 延暦4年(785)11月25、安殿親王(後の平城天皇)が立太子すると、坂上田村麻呂は28歳で正六位上から従五位下へと昇進した. 延暦5年(786)1月7日に父・苅田麻呂が薨去する. 延暦6年(787)早々近衛将監。3月22日に内匠助を兼任、9月17日には近衛少将へと進んだ。 延暦7年6月26日(788)に近衛少将と内匠助のまま越後介を兼任。坂上田村麻呂は越後に赴任するが、当時の国府がどこにあったか明らかになっていない。現在の妙高市とか上越市の板倉区にあったともいわれている。 当時の越後は、陸奥征討のフロンティアとなっており、現地に向かう兵士や武器、兵糧の供給基地となっていた。光仁天皇の時代から強化された蝦夷との戦いは、越後国内の農民などを疲弊させていた。 田村麻呂は赴任すると村から村へ、郡から郡へと、民情視察に歩き廻った。その頃、都には租税としてたくさんの米や苧、紙、鮭の内子、白子、氷頭、背腸などが送り届けられ、その負担は並々ならぬものであった。 田村麻呂は視察によって、度重なる蝦夷征伐で百姓が苦しんでいる有様がよくつかめた。 延暦8年(789)3月、桓武天皇による第一次征東が行われる。多賀城に集結した征東軍は、延暦7年(788)に征東大使になった紀古佐美の指揮下にあった。この時、坂上田村麻呂は直接征東には加わっていない。 52,000余の大軍勢をひきつれて丹沢城を目指して進軍した征討東軍は、阿弖流為が指揮する蝦夷のゲリラ戦法に苦戦して思ったほどの戦果を挙げることができなかったばかりか、衣川の戦闘では、溺死するなど死傷者が千数百人を出す大敗北を喫した。 この遠征には、越後の国やそのほかの国々から、ご飯を干して作った糒という兵糧33,000石やたくさんの塩が送られていた。 延暦9年(790)第二次征東が計画される。 延暦9年(790)3月10日に坂上田村麻呂は国司(越後守)へと昇格した。田村麻呂がいつまで国司であったか、記録がないのではっきりしないが、通常国司は6年程度で交代しており、延暦15年(796)、陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命されるまで、越後の国司を務めたと思われる。 延暦9年(790)10月21日、田村麻呂はこの東征について天皇に意見の進言を行った。 「陸奥に近い国では、蝦夷征伐の為に、身体の強い人は兵士として、身体の弱いものは兵糧の運搬に駆り出されて苦しんでいる。天下皆等しく天皇の民でありながら、一部分の辺境だけが苦しんでいるという法はない。よろしく全国のいかなる人も、甲冑を作る財力のある人には、兵器を作らせる方がよい」という意見であった。 すぐ天皇がその進言を入れて、50,00個の鉄兜、矢34,500本、兵糧の糒260,000石を準備するよう諸国に命令が出された。 延暦10年(791)1月18日、兵士の動員について具体化する。 7月13日に63歳の大伴弟麻呂が征東大使に任命されると、陸奥国守兼按察使の多治比濱成、下野国守兼鎮守府将軍の百済王俊哲と副将軍の巨勢野足と最年少の36歳の田村麻呂が副使に任命された。 延暦12年(793)2月17日、征東使が征夷使へと改称される。 延暦13年(794)10月24日、桓武天皇以下百官の貴族たちが、漸く出来上がった平安京に移った6日目の事、都ではまだ心落ち着かぬ頃多賀城の征夷将軍からの報告が入った。 坂上田村麻呂の活躍もあり、「首を斬った敵の数457、捕虜150人、生け取った馬85匹、焼き払った部落の数75」という戦果であった。 延暦14年(795)1月29日、大伴弟麻呂は初めて見る平安京に凱旋して天皇に節刀を返上した。 大伴弟麻呂が高齢を理由に職を辞したので、延暦15年(796)1月25日、坂上田村麻呂が陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月になると鎮守府将軍となって、数万単位の大軍を率いて蝦夷の鎮圧に向かう。越後の国司から離れることとなった。 延暦15年(796)、征東は大きな成果をあげた。田村麻呂はこの征伐の手柄によって従四位下を授けられた。 そして、延暦16年(797)11月5日には、我が国最初の征夷代将軍に任ぜられ征東に向かう。蝦夷への攻勢はこの大遠征がピークであった。 延暦21年(802)には、田村麻呂は丹沢城を築いて、鎮守府をここに移した。 延暦22年(803)、北上川と雫石川合流地近くに志波城を造営するよう命じられる。 延暦24年(805)6月参議となる。従四位下、従三位と昇進、さらに近衛中将・中納言・近衛大将を歴任し、大同4年(809)正三位に叙せられ、弘仁元年(810)大納言に叙せられるが、弘仁2年(811)5月23日没す。54歳、贈従二位、墓地として山城国宇治郡の地3町を贈られる。 🌌坂上田村麻呂所縁の地毘沙門堂大同2年(807)、この地を訪れた坂上田村麻呂が創建し、国の安泰を祈願したと伝えられる。(☛ 詳細)松苧神社大同2年(807)、坂上田村麻呂が奴奈川姫を祀るために創建したと伝えられる社殿。(☛ 詳細)桔梗峠(ききょうとうげ)奈良時代から平安時代初期、桔梗峠付近に桔梗夜叉という女盗賊が住みついていた。この盗賊が近郷の住民を苦しめているという訴えを聞いた坂上田村麻呂がこれを平定し、さらに治安維持のため部下十数人を屯田兵として残した。彼らが小村峠に住んでいた人々の祖先となった。この舞台となる小村峠と桔梗峠は、かつて峰道で結ばれており、蝦夷征討に向かう坂上田村麻呂の軍勢が通過したと言われる。(「鵜川の話/鵜川の話Ⅱ」)
長徳寺安置されている千手観音は、坂上田村麻呂将軍が北国遠征の折りに安置した守り本尊と伝えられている。(☛ 詳細)元町諏訪神社の親子スギ延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂が東征の際、幕下の将である坂下宗正を従えてこの地に来たとき、将軍の守護観音で知られた千手観世音を背負っていた宗正が突然倒れた。将軍は驚き、急遽掘立小屋を建ててやり、「汝はこの地に留まって静養せよ」と言い残して、この地をあとにしたという。宗正の病気が治り、この小屋を去るにあたって、後日の記念にと小杉を植えて都に旅立ったという。その杉がこの親子スギといわれる。 清水寺清水寺の創建は大同元年(806)、坂上田村麻呂が彌彦の悪党黒嶽氏を退治する時、戦勝を祈願して建立したという。矢津八幡宮本殿矢津八幡宮は、征夷大将軍としてこの地を訪れた坂上田村麻呂が大同2年(807)、戦勝祈願のために祀ったと伝えられている。江戸時代には村松藩五社のひとつとして優遇され、武人の守護神として信仰を集めた。赤谷十二社の大ケヤキ坂上田村麻呂が蝦夷征討の折に手植えしたとの伝説が残る。(☛ 詳細)鏡ヶ池東夷征伐に来た坂上田村麻呂が、朝廷から怒りをかって追放となり、この地に刑部左衛門と名乗っている大伴家持を訪ねた。(☛ 詳細)神宮寺大同3年(808)、征夷大将軍坂上田村麿の創建と伝えられる曹洞宗の名刹。(☛ 詳細)小栗山 不動院大同元年(806)、紀州の浄蓮上人と坂上田村麻呂がお堂を建て、開眼法要を行ったことが興りとされている。上杉謙信公もこの観世音に深く帰依し、八幡太郎義家もここに戦勝祈願に訪れたと伝わる。 |