明和7年(1770)1月27日〔生〕 - 天保13年(1842)5月15日〔没〕雪国の真実を求めた男の志江戸時代、百万の人口を抱えた大都市・江戸や、経済と文化の中心地であった上方(京都・大坂)の人々にとって、越後をはじめとする日本の裏側の豪雪地帯は、未知の領域に等しかった。冬になれば数メートルの雪に埋もれ、交通は遮断され、人々が凍えながら生きるためにどれほどの辛酸をなめているかなど、中央の華やかな文人や庶民は想像すらしていなかったのである。その「雪国の実態」を正確に、そして生き生きと中央の世間に伝えることに、文字通り生涯の情熱を傾けた男がいた。その名を鈴木牧之(すずき ぼくし)という。彼は単なる地方の文化人ではなかった。本業は雪国特有の伝統産業である「越後縮(ちぢみ)」を扱う豪商であり、冷徹なまでの合理主義者でもあった。その一方で、当代一流の文人たちと対等に渡り合う洗練された文芸の才と、過酷な自然に生きる同胞への深い慈しみを持ち合わせていた。牧之が残した著作、とりわけ歴史的名著『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』は、当時のベストセラーとなり、日本の文化史に消えない足跡を残すことになる。その波乱に満ちた、しかし執念に貫かれた72年の生涯とは、どのようなものだったのだろうか。 塩沢の縮仲買商に生まれて鈴木牧之は、江戸中期にあたる明和7年(1770)1月27日、越後国魚沼郡塩沢通塩沢宿(現在の新潟県南魚沼市塩沢)に生を受けた。幼名は弥太郎、のちに儀三治(ぎそうじ)と改名した。一般に知られる「牧之」という名は、彼がのちに俳諧や文筆を嗜むようになってから名乗った俳号である。鈴木家の先祖を遡ると、かつて戦国時代に名将・上杉謙信に仕えた勇猛な武将であったという。しかし、上杉家が会津、さらに米沢へと移封される流れの中で、鈴木家は武士の身分を捨てて塩沢の地にとどまり、帰農した。牧之は、その地で代を重ねて数えて十代目に当たる、由緒ある血筋であった。 牧之が生まれた頃の鈴木家は、農業だけでなく、魚沼地方の特産品である「縮(ちぢみ)」の仲買商(卸売業)と、地域金融を担う質商を兼営する、地域でも有数の有力な商家となっていた。父の常右衛門は、商人として有能であったばかりでなく、教養人でもあった。商売の傍らで俳諧や発句(ほっく)を深く親しみ、広く同好の士を求めて交流した風流人で、自ら「牧水(ぼくすい)」と号していた。牧之の「牧」の字は、この厳格でありながら風雅を解した父の号から一字を譲り受けたものである。 一方、母のとよは、雪国の女性らしく辛抱強く、そして機織(はたおり)が大変に上手な人物であったと伝えられている。当時、魚沼の縮は女性たちが極寒の冬の間、暗い室内で雪の湿気を利用しながら一本一本の糸を紡ぎ、丹念に織り上げることで作られる、血とにじむような労働の結晶であった。母が機を織る音を聞きながら育った環境が、のちに牧之が縮の美しさと、それを支える雪国の女性たちの苦労を世に知らしめたいという強い動機へとつながっていく。 実は、常右衛門ととよの間には、牧之の前に4人の子供が生まれていた。しかし、当時の乳幼児生存率の低さに加え、雪国の厳しい冬の環境も災いしたのか、上の3人は相次いで早世してしまっていた。そのため、明和7年の冬に生まれた牧之は、鈴木家にとって事実上の最初の男の子、待望の跡継ぎであった。両親は、この幼い命が今度こそ無事に育つようにと祈りを込め、その愛情を一身に注いで育てた。牧之は、過酷な風土の中にありながらも、経済的にも精神的にも非常に恵まれた、温かい家庭環境の中でその幼少期を過ごしたのである。 多感な青年期と文雅の芽生え恵まれた環境で育った牧之は、早くから非凡な才能の片鱗を見せていた。教育の中心となったのは父の常右衛門である。牧之は父から商人としての基本的な心得や読み書き、そろばんを学ぶだけでなく、四書五経などの学問の基礎を厳しく叩き込まれた。さらに、絵画の才能にも目覚め、地元の絵師に就いて本格的な画技を習得した。また、当時は知識人の必須教養であった漢詩についても、近隣の禅僧のもとに通ってその表現技法や平仄(ひょうそく)を深く学んでいる。父から受け継いだ高雅な文学的素質は、これらの教育によって急速に開花していった。さらに牧之の教養を深める大きな要因となったのが、宿場町としての塩沢の立地であった。塩沢は、江戸と越後を結ぶ重要な交通路である「三国街道」の宿場町であった。この街道を往来する人々の中には、江戸の洗練された文化を地方に伝える文人墨客(ぶんじんぼくきゃく)や、旅の俳人、画家などが大勢含まれていた。父の常右衛門が文化的なサロンのような場を提供していたこともあり、鈴木家にはこうした旅の知識人たちが頻繁に出入りした。少年時代の牧之は、彼らから江戸の最新の流行や思想、芸術の刺激を直接受け、大いに啓発された。彼の学芸や書画の腕前は、田舎町の一商人のレベルを遥かに超えて、急速に上達していったのである。 しかし、牧之は単なる風流人として甘やかされたわけではなかった。彼は、あくまで鈴木家の跡継ぎであり、商人として自立しなければならなかった。15、6歳の頃になると、縮布商人としての実践的な心得や商売の仕組みを身体で覚えるため、他家への見習い奉公に出されている。ここで牧之は、一円の重み、顧客との交渉術、商品の目利きといった商人の冷徹なリアリズムを徹底的に仕込まれた。 そして、牧之の人生を決定づける大きな転機が訪れる。天明6年(1786)5月、17歳になった牧之は、鈴木家の代表として、初めて江戸への大遠征を試みることとなった。背中には、自ら仕入れた極上の縮布80反を厳重に梱包して背負っていた。これを江戸の問屋に売り捌くのが、彼に課せられた最初の大きな商売の試練であった。 住み慣れた塩沢を立ち、険しい三国峠の難所を越えて、関東平野へと足を踏み入れたとき、若い牧之の胸には言葉にできないほどの衝撃が走った。峠を一つ越えただけで、そこには生まれ故郷の越後とは全く異なる世界が広がっていたからである。関東の5月は、すでに初夏の陽気が満ち、青空が広がり、人々は軽やかな衣服をまとって闊達に往来していた。これに対して、自分の郷土である越後は、春になってもなお深い雪が残り、5月にならなければ本当の緑を見ることはできない。冬ともなれば、家々は雪に埋もれ、暗く凍てつく世界でただ耐える日々が続く。 「なぜ、これほどまでに世界が違うのか。そして、なぜ江戸の人々は、この峠の向こうにある雪国の凄まじい暮らしを、何一つ知らないのだろうか」 この時に抱いた強烈な違和感と、郷土の特異性に対する深い感銘が、彼の生涯のテーマとなる「雪国の実態を外部に伝える」という執念の原点となった。 初めての江戸滞在は、約2ヶ月に及んだ。牧之は縮の商売を格好に成功させただけでなく、貪欲に江戸の最先端文化を吸収した。江の島や鎌倉まで足を伸ばして名所を見物し、江戸の書塾に入門して短期間ながら本格的な学問に触れた。この若い時期の江戸体験と、そこで築いた人脈への足がかりが、のちに彼が江戸の一流文人たちと深く交わり、自らの著作を世に送り出すための揺るぎない基礎となったのである。 商人としての成功と几帳面すぎる日常江戸から帰国したのち、20歳を迎えた牧之は、名実ともに鈴木家の中心として家業の縮問屋と質屋を切り盛りするようになった。彼の人生の特異な点は、これほど豊かな文才を持ちながらも、生涯を通じて「あくまで本業は商人であり、文章や出版は副次的な趣味・余技である」というスタンスを崩さなかったことにある。彼は家業をなによりも手堅く守り、精励した。商人としての牧之は、極めて有能であった。彼は父から譲り受けた鈴木家の財産を、自らの代で実に3倍にまで増やすという、驚異的な商業的成功を収めている。これにより、鈴木家中興の祖として周囲から絶大な尊敬を集めることとなった。しかし、その資産形成を支えたのは、彼の異常とも言えるほどの几帳面さと、徹底的な合理主義、そして寸刻の無駄も許さない時間への執着であった。 牧之は、私生活において極めて厳格に自らを律した。時間は一刻たりとも無駄にしてはならないというのが彼の絶対の信条であった。例えば、自分の子供たちに読み書きや手習いを教える際にも、ただ座って教えるようなことはせず、自ら何か手仕事をしながら、あるいは帳簿をつけながら教えた。また、髪を整えるために床屋へ行く際にも、極力手間がかからないような髪型にし、職人がかみそりを研ぐわずかな時間さえ「もったいない」と惜しむほどであったという。 学問や読書、文筆活動についても、日中の商売の時間を削るようなことは絶対にしなかった。昼間は商人として一歩も譲らず働き、日が暮れて店を閉めたのち、夜遅くなってから灯火の下で読書や執筆に耽るのが常であった。店に置かれた商売上の帳簿は、一文の狂いもなく正確に記入されており、店の品物、たんすの中身、果ては裁縫に使う針箱の内部に至るまで、すべての物が定位置に整然と整理されていなければ気が済まなかった。少しでも乱れがあると、激しく機嫌を損ねたという。 また、牧之は非常に手先が器用な人物でもあった。身の回りの調度品で壊れたものがあれば、他人に頼まず自分で箱を作り、柿渋を使った渋皮細工を施した。家の屋根が傷めば自ら屋根に登って修理をし、愛用する椀の端が欠ければ自分で漆を塗って直して使うといった具合に、物に対しても徹底的な倹約と合理性を貫いた。 しかし、この「少しの無駄も嫌い、箸の上げ下げといった些細なことにまで細かく口を出す」という几帳面で厳格すぎる性格は、家庭生活においては大きな災いとなった。牧之は生涯に、なんと6度も妻を迎えている。当時は離婚や死別が珍しくない時代であったとはいえ、6回という数字は異例である。彼の細かすぎる小言や、完璧主義的な家風に馴染めず去っていった妻や、あるいは過酷な雪国の暮らしの中で健康を害して早世した妻もいたと考えられている。家庭的には決して円満とは言えず、むしろ孤独と葛藤の絶えない、不幸な私生活であったという側面は否定できない。 その一方で、牧之は冷酷な守銭奴ではなかった。彼は終生、「忍(しのぶ)」の一字を信条として家業に励むと同時に、自らが築いた莫大な富を、地域社会のために惜しみなく還元した。飢饉や災害の際には、率先して私財を投げ打ち、貧民や困窮した農民たちに米や金を施した。この義挙は広く知れ渡り、当時の地域を管轄していた小千谷陣屋(幕府の代官所)から、その善行を称えられて度々報償を受けた。さらに文政5年(1822)には、商人としては最高名誉である「町年寄格」に命じられ、武士に準じる「苗字帯刀(みょうじたいとう)」の特権を許されるに至った。名実ともに、地域の最高実力者となったのである。 中央文壇との交流と『北越雪譜』の苦闘地方の豪商として確固たる地位を築きながら、牧之の胸の内にあった「雪国の真実を江戸に伝える」という熱い火は消えるどころか、激しく燃え盛っていた。彼は商売で江戸を訪れるたびに、当代一流の文人たちとのネットワークを広げていった。牧之が交際した人物のリストは、当時の文化オールスターズと言っても過言ではない。黄表紙や洒落本で一世を風靡した山東京伝(さんとうきょうでん)、その弟で読本作者の山東京山(さんとうきょうざん)、『南総里見八犬伝』で知られる不世出の大文豪・滝沢馬琴(たきざわばきん)、『東海道中膝栗毛』の十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)、狂歌の大御所である大田蜀山人(おおたしょくさん人)といった文壇の巨頭たち。さらには画壇の天才・谷文晁(たにぶんちょう)や葛飾北斎(かつしかほくさい)、儒学者の亀田鵬斎(かめだぼうさい)、歌舞伎界のスターである五代目市川団十郎にまで及んだ。また、地方にあっても、越後の至宝である良寛(りょうかん)や、信州の俳人・小林一茶(こばやしいっさ)など、数え切れないほどの知識人と深い親交を結んでいた。 なかでも、滝沢馬琴との交流を示す有名なエピソードがある。牧之は江戸に滞在した際、あるいは書簡を通じて、馬琴に郷里の風俗について熱心に語った。その中に、越後の山古志(現在の長岡市山古志)で行われている「牛の角突き(闘牛)」の話があった。馬琴はこの豪快な雪国の神事に深く牙を剥かれ、自身のライフワークである大長編小説『南総里見八犬伝』の作中に、このエピソードをそのまま取り入れて描写した。これは当時、大きな話題となり、牧之の情報提供者としての質の高さを示す好例となった。 しかし、牧之にとって最大の挑戦であり、同時に最大の苦難となったのが、自身の代表作となる『北越雪譜』全7巻の出版であった。この本は、雪の結晶の観察図(雪華図)から始まり、雪崩の恐怖、雪に埋もれる家々の暮らし、雪国特有の道具、民話や怪異に至るまで、越後の雪に関するあらゆる事象を網羅した、前代未聞の風土記である。 この本の出版計画が持ち上がった時、牧之はまだ20代の気鋭の若者であった。彼は縮を背負って江戸へ商売に赴いた際、当時最も人気のあった戯作者・山東京伝のもとを訪ね、原稿の校訂と出版の斡旋を依頼した。京伝もその内容の斬新さに驚き、出版に向けて動き出した。しかし、当時は幕府の検閲や出版不況、さらには「地方の雪の話など江戸で売れるのか」という出版元の懐疑的な目があり、交渉は難航を極めた。そうして年月が虚しく流れるうちに、もっとも頼りにしていた山東京伝が文化13年(1816)にこの世を去ってしまった。 次に牧之が頼ったのが、大御所の滝沢馬琴であった。馬琴は原稿を引き受け、「必ず私が責任を持って世に出そう」と約束してくれた。牧之は安堵し、吉報を待った。ところが、馬琴はあまりにも完璧主義であり、かつ自身の執筆活動(八犬伝など)で超多忙を極めていたため、何年経っても『北越雪譜』の出版に手を着けようとしなかった。そればかりか、馬琴は牧之から預かった大切な原稿を、手元に置いたまま一向に返却しようとしなかった。 焦った牧之は、馬琴と折り合いの悪かった山東京伝の弟・山東京山に相談を持ちかける。京山は兄の遺志を継ぐ形で協力を快諾してくれたが、馬琴が原稿を返さないため、牧之は手元に残っていた控えの山のようなメモや記憶を頼りに、膨大な原稿を一から丸ごと書き直さざるを得なかったという。この時の牧之の落胆と、再びペンを握り直した執念の凄まじさは、想像を絶するものがある。 京山は非常に熱心であった。出版に際して正確な描写を行うため、京山とその息子である京水は、はるばる江戸から三国峠を越えて塩沢の鈴木牧之の館までやってきた。そして、実際に雪国の暮らしを体感するため、実に50日余りも滞在したのである。牧之は彼らを大いにもてなし、雪国の現実をその目で見せた。 こうして、幾多の障壁と辛酸、労苦を乗り越え、ついに『北越雪譜』の「初編」が江戸の書店に並んだのは、天保8年(1837)のことだった。牧之はすでに67歳になっていた。20代で最初の構想を抱いてから、実に出版までに40年近くの歳月が経過していたのである。 苦労の末に刊行された『北越雪譜』は、発売されるや否や、江戸市中で爆発的な大ヒットを記録した。これまでに見たこともない美しい雪の結晶の図案や、寒冷地ならではの凄惨かつユーモラスな生活の実態は、江戸の人々の度肝を抜いた。「江戸の貸本屋では、この『北越雪譜』を棚に置いておかなければ、客が一人もつかない」と言われるほどの熱狂ぶりであった。牧之の執念は、ついに報われ、彼は一躍、全国区の有名著述家となったのである。 秘境・秋山郷への旅と『秋山紀行』『北越雪譜』の出版に向けた闘いの最中、牧之はもう一つの重要な足跡を残している。それが、文政11年(1828)に行われた、信越国境の超秘境・秋山郷(現在の新潟県津南町・長野県栄村にまたがる地域)への過酷な旅と、それに伴う『秋山紀行』の執筆である。当時59歳になっていた牧之は、かねてより三国街道のさらに奥深く、前人未到の険しい峡谷の間に、外界から完全に遮断された集落が存在することを聞いていた。そこは「平家の落人(おちうど)伝説」が色濃く残る、秘境中の秘境であった。好奇心と記録への使命感に駆られた牧之は、地元の案内役である桶屋の団蔵(だんぞう)を伴い、文政11年9月8日、塩沢の自宅を出発した。 旅は過酷を極めた。道なき道を歩み、中津川の凄まじい渓谷沿いの断崖絶壁を這うようにして、一歩一歩奥地へと進んだ。見玉(みだま)の集落を経て、さらに奥へと進み、9月11日には秋山郷の最奥部である湯本(ゆもと)の集落にまで到達した。牧之はここで暮らす人々の生活を目の当たりにし、深い衝撃を受ける。 当時の秋山郷には、米を作るための稲作技術や水田が一切存在しなかった(秋山郷で稲作が始まるのは明治時代になってからのことである)。人々は森林を切り開き、原始的な焼畑農業によってわずかに収穫できる雑穀(ヒエやアワ)や、蕎麦を主食として辛うじて命を繋いでいた。また、熊やカモシカなどを、旧式の手作りの道具を使って狩猟することで蛋白源を得ていた。外界の文明から切り離されたその暮らしは、江戸時代の基準から見ても、驚くほど原始的で過酷なものであった。 牧之が特に心を痛め、克明に記録したのが、かつてこの地を襲った「天明の飢饉(1782〜1788)」の記憶であった。牧之が訪れたのは飢饉から40年ほど経った後であったが、現地の人々から伝え聞いた当時の惨状は、世の地獄そのものであった。あまりの飢えのために、一つの集落の全員が全滅し、家々には白骨だけが残されたという悲惨なエピソードを、牧之は血の涙を流す思いで聞き取った。 几帳面な記録魔である牧之の本領は、この地でも遺憾なく発揮された。彼は秋山郷の各集落の正確な戸数、家屋の特殊な構造、家の中に置かれている粗末な調度品、茶器の種類、さらには住人たちが話す言葉の著しい訛りに至るまで、執拗なまでに克明にノートに記した。それだけでなく、畑の作物の状況、険しい道の高低差、そこから見える山々の眺望まで細かく描写した。さらに、絵心のあった牧之は、これらの孤立した集落の景観を、美しい山水画風の絵図として何枚も描き残した。この絵図は、当時の民俗学的な状況を伝える一級の歴史的資料となっている。 旅を終え、反対側の渓谷を通って9月14日に無事帰還した牧之は、この見聞を『秋山紀行』2巻としてまとめ上げた。書き上がったのは旅から3年後の天保2年(1831)であった。牧之はこの原稿の出版を、旧知の十返舎一九に依頼した。しかし、不運にも一九が間もなく没してしまい、さらに牧之自身もその後の多忙と体調悪化によって、生前にこの本を正式に上梓することはできなかった。 日の目を見なかった『秋山紀行』の自筆草稿本は、鈴木家に長く眠ることになる。この傑作が、活字となって正式に出版され、広く世の人々に読まれるようになったのは、なんと牧之の死から120年が経過した昭和37年(1962)のことであった。しかし、その内容は、あまりにも正確で先駆的な民俗誌として、現代の学者たちからも大絶賛を受けることになる。 牧之はこの他にも、商人のあるべき心得や道徳を説いた『夜職草(よなべぐさ)』をはじめ、『秋月庵発句集』『永世記録帳』『上毛草津霊泉入湯記』『北海雪見行脚集』など、極めて多作な著述を残した。その多くが生前には刊行されなかったものの、彼の旺盛な知識欲と記録への執念を物語る遺産となっている。 晩年の孤独と不朽の遺産『北越雪譜』の大ヒットによって、60代後半にして文化人としての絶頂期を迎えた牧之であったが、その肉体とプライベートの生活には、急速に暗い影が差し始めていた。牧之は、幼少期の頃からやや耳が遠いというハンディキャップを抱えていた。実は若い頃、耳の中にできた腫瘍(かたまり)を取り除こうとして、誤って強い毒薬を耳の中に注入してしまうという悲惨な医療事故を起こしていた。その副作用によって悪化し、若い身空で百日もの間、激痛のためにベッドの中で呻吟し続け、薬の毒性によって歯の半分が抜け落ちてしまうという大酷い経験をしていた。この時の後遺症もあり、50歳を過ぎた頃からは、特に難聴が進行した。 しかし、負けず嫌いで合理主義者の牧之は、ただ耳が聞こえないことを嘆きはしなかった。彼は大きな「法螺貝(ほらがい)」の先端を切り落とし、それを特製の補聴器代わりに耳に当てて、人の話を聞くようになった。自らのこの奇妙な姿をユーモアを交えて受け入れ、晩年は自らを「螺耳道人(らじどうじん)」という風変わりな別号で呼ぶようになったという。エピソードとしては面白いが、その裏には身体の衰えに対する彼の意地と寂しさがあった。 天保7年(1836)、67歳の時、牧之は脳出血とみられる「中風(ちゅうぶう)」を発症し、身体の自由を一部失ってしまう。さらに晩年には視力も著しく悪化し、文字を読むことも書くことも困難になっていった。歩行もままならなくなった牧之は、かつて精力的に活動していた三国街道を見下ろす自宅の二階の居室に籠るようになり、鬱々とした日々を過ごすことが多くなった。 家庭的な不幸も、老いた牧之をさらに追い詰めた。牧之には将来を嘱望された実の息子がいたが、弱冠21歳の若さで、当時死病と恐れられた結核によって先立たれてしまっていた。跡継ぎを失った鈴木家は、刈羽郡高柳町の旧家である村山家から、娘婿として勘右衛門を養子に迎え、牧之はすでに家業の一切を彼に譲っていた。やがて孫も生まれ、鈴木家の血脈は保たれたものの、牧之とこの養子・勘右衛門との折り合いは、最悪と言っていいほど悪かった。 老いて身体が不自由になっても、牧之の若い頃からの完璧主義、几帳面さ、そして「少しの無駄も許さない」という厳しい性格は全く衰えなかった。それどころか、病気によるストレスも手伝って、若者たちに対する小言や説教の癖はひどくなる一方であった。箸の持ち方から、物の置き場所、時間の使い方に至るまで、二階の部屋から一歩も出ない老人が、下の階で働く家族や使用人たちに対して細かく口を挟み続けるのである。 家族や周囲の人間からすれば、かつての偉大な中興の祖も、今や「煙たい、うるさがられる頑固親父」に過ぎなくなっていった。晩年の牧之の居室には、看病のための最低限の出入りしかなく、家族との温かい心の融和や団らんは、ついに訪れることはなかった。富を築き、江戸で名を馳せた大文化人の末路としては、あまりにも寂しい家庭の孤独であった。 天保13年(1842)5月15日、持病の中風が再発し、混濁する意識の中で、鈴木牧之は静かにその生涯を閉じた。享年72歳。雪国の凄まじさを世に知らしめるために走り続けた男は、奇しくも雪の一片すら見当たらない、新緑の美しい5月の季節に旅立っていった。 百年の後に響く雪国の声鈴木牧之が去ったのちも、彼が遺した『北越雪譜』は、日本の出版史上における不朽の名著として輝き続けた。それまでただの「厄介な白いゴミ」であり、中央の人間からは無視されていた「雪」という存在が、一つの壮大な文化であり、人間のドラマであるということを、彼は見事に証明してみせたのである。彼の生き方は、一見すると矛盾に満ちている。冷徹なまでに一文を惜しむ商人でありながら、数千両の施しを平気で行う慈善家であり、家庭を6度も壊すほどの偏屈な男でありながら、江戸の文化人たちを虜にする極上の教養人であった。しかし、そのすべての根底にあったのは、自らが生まれ育った越後塩沢という「雪国」への、歪でありながらも誰よりも深い、烈しいほどの愛郷心であった。 彼が残した丹念な記録、細かな写生、そして厳しい生活の描写は、民俗学の父と呼ばれる柳田國男(やなぎたくにお)ら後世の学者たちからも、日本における民俗学・地理学の先駆者として極めて高い評価を受けることになる。 雪に埋もれ、歴史の闇に消えていくはずだった名もなき人々の暮らしを、言葉という灯火で照らし出した男。鈴木牧之が命を削って遺した言葉は、彼が世を去って200年近くが経過しようとする現代にあってもなお、白銀の闇の中から、私たちに雪国の本当の息遣いを伝え続けている。 ////////////////////////////////////////////////
鈴木牧之の次男弥八(やはち)が7代目として、平野屋(現・青木酒造) を継いでいる。牧之自身も主要銘柄である「鶴齢(かくれい)」を命名したといわれる。 旧塩沢町(現南魚沼市)は、鈴木牧之記念館(「雪の文化館」)を鈴木家の菩提寺長恩寺境内に建て、忘れてならない過去を伝えようとしている。 遺作や馬琴・京伝からの書状は県文化財の指定を受け、長恩寺境内の鈴木牧之記念館に展覧されている。 |
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墓所 長恩寺
鈴木牧之記念館
生家 鈴木酒店




