鈴木牧之 Bokushi Suzuki 南魚沼市



明和7年(1770)1月27日〔生〕 - 天保13年(1842)5月15日〔没〕

江戸や上方では、雪に苦しむ豪雪地のことなど、全く知られていなかった。その雪国の実態を伝えることに、生涯をかけたのが鈴木牧之だった。

牧之は明和7年(1770)1月27日、越後塩沢の縮仲買商と質商を兼ねる家に生まれた。幼名弥太郎、後に儀三治(ぎそうじ)と改名した。また牧之は俳号である。
鈴木家の先祖はその昔、上杉謙信に仕えた武将であったが、のち塩沢に帰農、牧之は数えて十代目に当たる。父、常右衛門は縮仲買業兼質屋を営むかたわら、俳諧・発句などに親しみ、広く同好の友を求めた人で、牧水と号した。
母はとよといい、機織りの大変上手なひとであったというが、牧之は明和7年(1770)の冬1月27日、二人の間に五番目の子として生まれた。上の3人は早世し、彼は最初の男の子として、両親の愛情を一身に受けて成長した。

牧之は父恒右衛門に学問を学び、長じては絵師につき、禅僧に漢詩を学んだ。父の文学的素質を受け継いで早くから絵と文雅に親しんだ。三国街道を往来する文人墨客に啓発されて学芸・書画も上達した。
商人としての牧之は、家業に精励して資産を作り、鈴木家中興の業を成し遂げた人である。15,6歳のころから、縮布商人としての心得を習得するために見習い奉公に出ている。
天明6年(1786)5月、17歳の時、縮80反をもって初めて江戸に出た。三国峠を越え関東地方に入ると、越後とはまったく異なる世界が広がり、雪深い郷土の特異性に感銘を受ける。江戸には2ヶ月滞在、江ノ島、鎌倉を見物し、書塾に入門もした。後に一流の文人たちと交わる基礎は、こうして築かれた。

20歳以後の牧之は家業の縮問屋と質屋を手堅く守りながら多くの俳句や絵や著述を残した。しかし、彼の場合は、あくまで家業振興が中心であって、文章や出版は副次的なものであった。
牧之は几帳面で、少しの無駄も嫌った。時間についても、寸刻を惜しみ、子供たちに対する読み書きは、何か手仕事をしながら教えたし、床屋では手間のかからないようにし、かみそりを研ぐ時間さえ惜しむほどであった。読書は昼間はせず、夜遅くまで読みふけった。商売上の帳簿は正確に記入され、店の品物、たんす、針箱に至る迄、きちんと整理がされていないと気が済まなかった。
また、手先が器用であったから、自分で箱を作り、渋皮細工をし、屋根を修理し、椀の欠けたのも直している。
結婚生活については、箸の上げ下げの些細なことにまで口を出す、細かい性格が災いして、六度も妻を迎えるなど家庭的に不幸であった

江戸の山東京伝、京山兄弟、滝沢馬琴、十辺舎一句、大田蜀山人らと交わり、当時にあって珍しく広い視野を持っていた。また越後国内のほか江戸や関西にもよく旅した。
滝沢馬琴が、塩沢宿の鈴木牧之から山古志の角突きを聞き「南総里見八犬伝」に書いていることはよく知られている。

その代表作『北越雪譜』7巻は江戸時代のベストセラーとなった。江戸の貸本屋ではこの本を置かないと客がつかないとまでいわれたほどだ。
『北越雪譜』出版をめぐる山東京伝との文通が始まった時、牧之は20代の若さだった。牧之は縮を背負って江戸に商売に行った際、当時江戸における人気戯作者山東京伝に出版を依頼したが、難航しているうちに京伝は世を去った。
滝沢馬琴が引き継いで世に出すことを約してはくれたが、何年経っても実現せず、結局、京伝の弟京山の手で、ようやく『北越雪譜』は刊行にこぎつけたのだった。京山・京水父子は、見聞を得るためはるばる江戸から塩沢までやって来て、50日余り滞在している。
京山との関係のよくなかった馬琴は牧之の原稿を返さず、新たに書き直すしかなかった(『鈴木牧之―雪国の風土と文化』新潟県教委発行)というから、出版にいたるまでの辛酸・労苦は想像に余りある。
『北越雪譜』『初編』の上梓は天保8年(1837)、牧之67歳で最初の構想から40年近くが経過していた。

牧之はまた文政11年(1828)信越国境の秘境、秋山郷、現在の中魚沼郡津南町に旅をして『秋山紀行』2巻を著している。平家の落人伝説で知られ、名だたる豪雪や飢饉に苦しむこの地方の生活や習俗、人間の哀歓をつぶさに観察し、牧之一流の名文で描写している優れた紀行文である。
また、商人の心がまえを記した『夜職草(よなべぐさ)』など生前に刊行できなかった著作も多い。
他に、『秋月庵発句集』『永世記録帳』『上毛草津霊泉入湯記』『北海雪見行脚集』などがある。
更に牧之の交際範囲の広さには驚嘆させられる。出版に関係した京伝、馬琴、一九、京山をはじめ文晁、鵬斎、蜀山人、北斎、五代目団十郎などの外当代の有名人の殆どを網羅している。良寛や一茶などの地方の知識人や俳人歌人などは数え切れぬほどである。
その中には、ただ一通りの知人もいるが、京山や馬琴のように、長い年月、深い交際をした人もいる。

秋山紀行

牧之は文政11年(1828) 59歳の時、初めて秋山を訪ねた。秋山峡は秘境中の秘境であり平家の落人伝説がある。
案内役の桶屋團蔵と共に文政11年(1828)9月8日塩沢を発ち見玉に至る。その後は中津川の渓谷沿いに集落をたどり11日には最奥部である湯本に至った。その後は反対側の渓谷を通って14日に帰還した。
秋山郷で稲作が行われるようになったのは、明治時代に入ってからのことで、当時は森林を切り開いた焼畑で作った雑穀や蕎麦が主食であり、また旧式の道具を使って狩猟を行って行っていた。
天明の飢饉(1782〜1788)に際して、秋山郷を襲った悲惨な状況が、伝え聞きで記されている。
牧之は、秋山郷各集落の戸数、家屋のつくり、調度、茶器、言葉の訛りなどを克明に記しており、畑や道の状況、眺望も記されている。牧之はまた絵心があり集落の絵図を山水画風に描き残している。
書き上がったのは3年後の天保2年(1831)であったが、出版依頼した十返舎一九が亡くなり、牧之も天保13年(1842)に死去したため、「秋山記行」は正式に出版されることはなかった。自筆草稿本から「秋山記行」が出版されたのは、昭和37年(1962)のことであった。
牧之は、終生「忍」を信条として家業に精励するといった合理主義者でもあり、厳しく自らを律し、丹念に記録した。父から譲られた財産を3倍に増やし、貧民に施しては小千谷陣屋から報償された。
1822年(文政5)には町年寄格を命ぜられ、苗字帯刀を許された。



《牧之の晩年》

牧之は幼少より耳が遠いほかは健康であった。若い時、耳中のかたまりを除く為に毒薬を用いたのが悪化して百日も床中に呻吟し、歯も半分欠けてしまったという。50歳ころからは、特に耳が遠くなった。法螺貝を補聴器かわりに使用したので、自ら螺耳道人と称していた。

天保7年(1836)67歳で中風を患い、晩年には目を悪くした。歩行も困難となり、二階に籠る日が続くようになった。
自分の息子も21歳のときに結核で失い、娘婿勘右衛門を、刈羽郡高柳町の旧家村山家からもらって家業はすでに譲り、孫もできたが、牧之とは折り合いが悪かったという。老いても小言癖が衰えず、家人からもうるさがられたのだという。
晩年は家族との融和も十分でなく、家庭的には恵まれなかった。そして天保13年(1842)5月15日、中風を再発して、72歳の生涯を終える。

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鈴木牧之の次男弥八(やはち)が7代目として、平野屋(現・青木酒造) を継いでいる。牧之自身も主要銘柄である「鶴齢(かくれい)」を命名したといわれる。

旧塩沢町(現南魚沼市)は、鈴木牧之記念館(「雪の文化館」)を鈴木家の菩提寺長恩寺境内に建て、忘れてならない過去を伝えようとしている。 遺作や馬琴・京伝からの書状は県文化財の指定を受け、長恩寺境内の鈴木牧之記念館に展覧されている。


















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越後からの雪だより

越後からの雪だより

  • 作者:松永義弘/高田勲
  • 出版社:PHP研究所
  • 発売日: 1991年12月01日頃











墓所 長恩寺 鈴木牧之記念館 生家 鈴木酒店