平林城 Hirabayashi Castle Ruins 村上市
県北に流れる荒川の神林側右岸に標高281mの要害山(加護山)がある。その西北の裾野に、土塁と堀で守りを固めた「揚北衆」色部氏の代々の居城、館跡がある。 平野を望む低い舌状台地の山側の基部を約150mにわたり、壕によって遮断し、その内側を3郭に仕切り、有機的に結んだもので、台地前端の岩館とよぶ長大な曲輪は家臣団の屋敷跡で周囲を土塁で囲み、二つの虎口があり、建物の配置を思わせる段形が整然と残る。 山側最奥部に一段高く構えた殿屋敷(葛籠山の館)とよぶ曲輪は、領主色部氏の政庁、居宅が置かれたところであり、枡形や土塁、折歪みのある土塁などがあり、根古屋式山城の様子を非常によくうかがうことができる。 山頂は東西80m、南北60m、東端に櫓台跡がある。山頂を中心に曲輪や空堀、土塁、門跡、井戸などの城跡の遺構が遺っている。 色部氏は戦時の際、標高281mの要害山に立てこもり、平素は山麓の葛籠山の館で生活した。 1350年の頃に、平林城を最初に築いたのは、小泉庄被官であった平林氏であった。南朝・新田義貞方についた平林氏を、北朝方で鎌倉時代以来の地頭だった色部氏が攻め滅ぼしてその居館とした。要害部は「加護山城」と呼ばれ、戦国中期まで使われた。 色部氏は、関東秩父氏の一族為長を祖とする。為長は富士川の戦いで戦功をたて、源頼朝から小泉荘色部条と粟島の地頭職に補任された。鎌倉で北条氏の力が強まると、中央を離れて色部条(神林牧ノ目付近)に移り、色部氏を名乗ったことから始まる。 揚北衆と呼ばれた国人領主の中でも実力者で、同族の本庄氏とともに揚北の実力者にのし上がった。永正の大乱(永正4~11、1507-1514)では、守護代の長尾為景と対立し、永正5年(1508)には平林城を攻められ落城、降伏して長尾氏に帰属した。 上杉謙信が越後統一を目指すと、これに従い、謙信の有力な家臣として関東や北陸、そして信濃の各地を転戦して活躍した。 色部勝長は永禄4年(1561)の第四回川中島合戦で戦功を揚げ、謙信から「血染めの感状」を与えられている。 しかし、勝長は永禄11年(1568)、本庄繁長が武田信玄に内通し謙信に背いた際、謙信軍として村上城を包囲したが、繁長が謙信軍に夜襲をかけた永禄12年(1569)1月10日、戦死している。 天正6年(1578)の御館の乱では、色部長真が上杉景勝の勝利に大きな役割を果たした。 天正16年(1588)、上杉景勝が上洛した際、色部長真はこれに従った。前年の「新発田氏の乱」で長真の家臣が敵将新発田重家を討ち取り軍功筆頭と認められたからである。 慶長3(1598)年、上杉景勝は秀吉の命により会津に移封となった。色部氏もこれに従い家臣と供に会津へ移った。これにより平林城は廃城となった。 昭和53年(1978)9月18日、平林城跡は国の史跡に指定された。 現地案内看板
平林城跡の由来 平林城跡は麓の館城跡と自然の山林を巧みに利用して築城された古城址から成り立っている。 伝承文書によれば麓の館城跡は建久の昔(一一九〇)豪族平林内蔵介代々の居城であったが南北朝動乱のさい、平林氏は色部氏の意向に反して新田義貞勢に属したため、色部公に攻められ領地と共に没収されたことを伝えている。 山頂までの古城址は磐船小泉荘平林加護山城と呼ばれ、嘉禄の昔(一二二六)入部した色部氏累代の居城であった。 戦国時代、色部家では勝長、顕長、長貞と名称が相次いで出現し、上杉謙信公の臣と頼られた。 慶長三年(一五八九)色部氏は米沢金山城へ移った。 在城三百七十年、平林城は廃城となり現代に至っている。 戦国時代色部氏系図 ー昌長ー憲長ー勝長ー顕長ー長貞ー光長 昭和二十九年二月十日 新潟県文化財指定 昭和五十三年九月十八日 国文化財史跡指定 村上市教育委員会 平林城址保存会 平林不動滝国指定の史跡、平林城跡がある要害山には至る所に清水が湧き出ていて、それが流れ込んで不動滝を形成している。滝つぼの奥には岩を削って造られた祠があり、数百年前から大日如来と不動明王の石像が童子石像とともに安置されている。 色部氏第13代勝長が、上杉謙信の命により川中島合戦の出陣に際し、領内の安泰と戦勝を祈願するため、不動滝に祠を築造し、そこへ大日如来と不動明王の石像を安置されたものと推測されている。 また不動滝の水滴が眼病に効能ありとして、無病息災・家内安全等のご利益を求めて、また村人たちの心の拠り所として、多くの参拝者が訪れたと伝えられている。 不動滝登山道の駐車場から徒歩約1時間。道は地域の人が整備し、比較的歩きやすいが登山用の靴必要。 |
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