はっか糖 Peppermint sugar 南魚沼市
夏の越後銘菓である薄荷糖は、溶かした白砂糖に空気を混ぜて純白にし、薄荷の液を加えたものである。(塩沢と薄荷)薄荷は山地に自生するシソ科の多年草。塩沢にもかつて自生地があり、地元では「上杉謙信に薄荷油を献上したところ大変喜ばれた」という言い伝えが残っている。「江戸時代には薄荷が万病の妙薬として使われていた」時代、本格的に塩沢に薄荷草が伝来し導入されたのは文化年間といわれる。長崎に蘭学を学んだ医者が持ち帰ったものが起源と言われている。 薄荷草は南魚沼の地味に適して増殖し、近在で広く栽培されて天保・弘化の頃には平野屋(現青木酒造の前身)を中心に薄荷油の製造販売が行われた。平野屋は酒造業と薄荷商を営んでいた。 平野屋は嘉永7年(1854)に欅の大看板(柱の高さ三丈というが実は三間余か)を店頭の路上に建て、明治11年(1878)に売薬を許可されると「官許薄荷圓」に書き換え、三国街道を通る人の名物となった。(※この看板は青木酒造に引き継がれ一部利用されている。)塩沢は三国街道の宿場町であったことから、多くの旅人が脚を止め、薄荷油を買い求めたという。 その製造工程は乾燥した薄荷草を冬に蒸留器で揮発させ、雪塊を利用した冷却器を通して受器に浮いた油分を銅製の缶に貯えた。この工程を薄荷引きと称し、不純物を濾過した油分を雪塊で冷却すると数日で器底に束針状の結晶(脳)ができあがる。 その効能は、気付け、暑気払い、せき止め、頭痛、虫歯の痛み止め、めまい、船酔い、かご酔いなど、万病によしと宣伝された。 明治7(1874)年、平野屋は「本家薄荷圓」の使用を県令から許され、錫器の壺に詰めた脳と瓶詰の油は数十人の行商人によって全国に売りさばかれた。 明治19年(1886)の傭人は延べ50人であったが、塩沢薄荷の最盛期であった。 しかし、北海道の開拓が進み、北見で大規模に薄荷の生産が行われると、薄荷市場の価額が下落した。塩沢の薄荷の生産は、到底太刀打ちできず、生産業者は大正年間で淘汰され消滅することとなった。一方で、南魚沼の農家は、薄荷草のかわりに、養蚕が盛んとなっていった。 (はっか糖)始期は明治初年と思われ、元祖は湯沢・塩沢・六日町方面の菓子店である。大正期まで薄荷棒と称したが昭和初年より薄荷糖と呼ばれ、現在では南魚沼を中心に小出・十日町・長岡でも製造されている。現在塩沢町内に5軒ある小売り菓子店で、はっか糖を作っている。またどの店も元祖と名乗るほどの歴史がある。 青木商店は創業約350年を誇る老舗で、戦後間もない1946年(昭和21)から菓子店を開業、現在3代目である。 はっか糖の材料は、薄荷脳(薄荷を蒸留してできる結晶)、砂糖、水飴だけで、ほぼ手作業で作り上げる。砂糖と水飴を煮込む「煮詰め」と「冷却」、水飴状になったものを引っ張って空気を入れる「絹引き」、固まりを棒状にする「整形」、形を整え1本1本に分ける「ころがし」の約1時間半の工程を経て、湿気を抜くために、夏場なら2日間、冬場は約1週間も乾燥させる「かえし」をして完成するそうで、実に手間のかかる菓子である。 直径1センチ、長さ9センチの円筒形。形状は、白墨(チョーク)のよう。口に含むと砂糖の甘味とハッカの辛味が混ざった爽やかな味がする。少しずつなめて溶かしながら味わう。 暑い夏には、口に含むと清涼感とともにスーッと溶けていく甘い砂糖の美味しさを味わうことができる。 🔸(有)青木商店
〔所在地〕南魚沼市塩沢81 〔アクセス〕
〔所在地〕南魚沼市塩沢1459-1 〔紹介しているサイト〕 大津菓子店 - 南魚沼いいモノガイド 🔸松月 〔所在地〕南魚沼市塩沢1225-1 〔紹介しているサイト〕 松月 - 南魚沼いいモノガイド 🔸みどりや菓子店 〔所在地〕南魚沼市石打1803 🔸田村屋製菓 〔所在地〕南魚沼市二日町1-2 🔸福井屋菓子店 〔所在地〕南魚沼市五日町15-1 🔸玉屋菓子店 〔所在地〕南魚沼市浦佐965 |
【はっか糖】をオンラインショッピングで探す 日本ハッカ 葉をちぎり揉むと爽快な香りをはなちます。夏の暑い日にはスタッフはこの葉をちぎり揉んで、おでこやこめかみに当てて清涼感を感じています。葉をちぎり揉むと爽快な香りをはなちます。夏の暑い日にはスタッフはこの葉をちぎり揉んで、おでこやこめかみに当てて清涼感を感じています。 |