鎚起銅器 Metal beating copper utensil 燕市



(歴史)

元禄年間(1688年から1704年)に弥彦山の海岸側に間瀬銅山が開鉱したことが、燕に銅器の発達を促した要因である。燕の間瀬屋玉橋家が古く、これに鉄善七里家、大寅本多家の3業者が精錬販売に当たっていた。

燕地方の銅器業は、江戸時代中期明和5年(1768)、仙台の渡り職人藤七という職人が鎚起の技術を伝えたところから始まったとされている。その墓は同市西方院〔宗派〕浄土宗〔所在地〕新潟県燕市仲町1☎0256-63-3070境内(※地図 ※ストリートビュー)にある。
文化・文政のころ(1804~1828)間瀬屋玉橋家、本多家と親戚関係にあった玉川堂 ( ぎょくせんどう )玉川家初代覚兵衛が藤七から伝わった鎚起技術を継承して独特の家業として発展させていった。

玉川家初代の銅器は鎚起による鍋・釜・薬罐・金だらい・水さし・湯沸しからさらに、2代目に至って建水・茶筒・花瓶・花器・家具装飾と漸次美術工芸品の領域へと発展した。
3代のころ高級美術の域を開拓し万国博覧会への出品し受賞をたびたび受けている。
明治維新後は一部鍋釜類の実用品を除いて不況やアルミの流行で洋食器への転業多く、鍋器業は漸次減衰した。
戦時下では鍋使用禁止によって技術保存の苦境に陥ったが、辛うじて熟練工の温存につとめ、昭和33年(1958)県指定無形文化財の指定をうけた。



(鎚起の技法)

鎚起とは鎚で打起こす鍜金の技法で、一塊の銅を大小様々な鎚やタガネを使い、焼鈍を繰り返しながら打延ばし、打縮め、打出し、彫込んだりの鍜金の技術を用いて製作され、下から上にむかい成形する。完成はさらにタガネ彫りや、象嵌七宝を施し着色して仕上げる。
かつては間瀬銅山から仕入れた丁銅(銅塊)を打ちのばし仕上げる、古来の伝統的手法で製品はつくられた。
しかし大正12年(1923)間瀬銅山廃鉱後は伸銅板の買い付けによるため、一定厚さの円形銅板からの鎚起で、打ちのばしはなく、もっぱら“詰め”の手法で成形される。単に伸銅板を裁断し蝋付け底入れする技法やプレス法などとはちがい、本来の鎚起法がいかされているといえる。
着色色についは、銅の化学変化による錆の色で、硫黄や硫酸銅、緑色の溶液で煮込み、イボタ蝋で色止めされ、鎚目をあらわすもの、鎚目を磨消したものなどがある。

(現況)

高度経済成長期には大量生産品に押されて衰退してきたが、近年では手仕事の良さが見直されてきている。
大正末期65軒あった工房は、現在10軒あまりとなっている。
鎚起銅器で最も著名なものは燕市の玉泉堂の製品で、1958年(昭和33)、新潟県より「新潟県指定無形文化財」に、1980年(昭和55)には文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択され、玉川宣夫が2010年(平成22)、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
また2008年(平成20)、玉川堂の店舗・土蔵・鍛金場・雁木が、国の登録有形文化財(建造物)に登録される。

☯平成2年(1990)から、彫金、鎚起銅器、金属加工など燕の技術を結集した鎚起みこしが、7月21、22日に燕市燕地区で開かれる「飛燕夏まつり」で、燕1000人みこしとして渡御が行われている。
☯令和元年(2019)4月19日、燕市産業史料館がリニューアルオープン。体験工房が館内に新設され鎚起銅器の製作体験ができるようになった。















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地場伝統企業のものづくりブランディング

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  • 作者:長沢 伸也/川村 亮太
  • 出版社:晃洋書房
  • 発売日: 2020年10月29日頃