五十嵐家は阿賀野川の支流の一つ実川沿いの山合いの旧実川集落にある。実川集落は、山の木を切り出したり、狩猟を生業とする、自給自足的な暮らしであり、江戸時代後期には二十数軒を数えた。昭和47年(1972)、下平発電所の無人化によって、冬の道路確保が困難となり、全戸離村となり、現在は春から秋の間に五十嵐家の管理人が常駐するのみである。 五十嵐家は豪雪に耐える骨格のしっかりした母屋に中門が敷設された中門造りの建物で、母屋部分は、桁行22.1m・梁間11.5m・寄棟造で、南側の中門部分は、桁行6.7m・梁間6.7m・切妻造である。また南面庇附属、鉄板葺となっている。 江戸中期の山村農家の特色をよく示している。中門はかつて厩、通り庭、農具の置き場、便所等に利用されていた。 福島県東蒲原郡が新潟県に編入されたのが明治19年(1886)であり、それまで古より会津領であった。 正徳元年(1711)4月の会津藩の百姓屋作の規定では、百姓屋の造作を、所有する土地の石高に応じて定めていたが、中門については石高にかかわりなく設置することを認めていた。 宝暦9年(1759)の建設当時の普請帳には職人名も記載されており、これによると近在の者のほかに棟梁として会津中ノ沢村から大工孫右衛門が加わっていることが知られることから、五十嵐家住宅は会津藩の定めに沿って造作されたものと思われる。 中門造の形態は、住居として利用されるとともに、作業場として収蔵庫として、雪国で生活するための風土に適したものであった。材料等は手近の山で得られるものが使用され、実用的経済的に建てられた。 このような中門造住宅は五十嵐家住宅だけではなく、かつては東蒲原郡一帯の住宅の特色となっていた。 当住宅は、 (1)山間農家として主屋と土蔵などの付属屋が揃う。 (2)建物の建築年代が明らかである[主屋:宝暦9年(1759)、上手蔵:弘化4年(1847)、下手蔵:大正13年(1924)]。 (3)各建物の質がよく、後世の改造が少ない。 (4)周囲の自然環境に恵まれる。 といった点が、周囲の自然環境のよさとあいまって、貴重な住宅として高く評価されている。 会津藩第4代藩主松平容貞時代の大目付横田俊孚が政争に敗れ流されたときの、愛用の品が保存されている。 また付属屋には農機具・民具が数多く収蔵され、雪深い山村農家の自給自足の暮らしを伝えている。 また、五十嵐家住宅には多くの文人墨客が訪れ、実川渓谷の自然や人々の暖かさに触れて、俳句、歌、書画を残している。 夏目漱石の門弟安部能成は1922年(大正11)に実川集落に滞在し、「実川の水上遠く たずね来て 人のまことにあふぞ嬉しき」の歌を詠んでいる。 五十嵐家への山道を行く途中の山渓寺跡地に小川芋銭の句碑が、また万治峠には安部能成の歌碑が建っている。 平成3年(1991)5月31日、国有形文化財建造物に指定された。 (案内図) ❏〔所在地〕東蒲原郡阿賀町豊実736(鹿瀬地区)
❏〔アクセス〕
≪現地案内板≫
重要文化財 五十嵐家住宅 平成三年五月三十一日 指定 所在地/新潟県東蒲原郡阿賀町豊実七三六番地 指定物件 主 屋 宝暦九年(一七五九)建築 附 屋普請萬指引覚帳 一冊 祈祷文 一枚 上手蔵 弘化四年(一八四七)建築 附 土蔵普請職人控帳 一冊 板図 一枚 下手蔵 大正十三年(一九二四)建築 附 板図 一枚 五十嵐家は新潟県東北部、阿賀野川支流の一つである実川沿いの山合いにある山村農家である。 建物は、主屋、附属屋としての上手蔵と下手蔵の三棟で、いずれも構造がしっかりしており、デザインもすぐれ、また後世の改造が少なく、そのうえ普請帳や建築時の祈祷札などの資料があって建築年代が明らかであるとともに、普請の状況も知られる貴重な民家である。 阿賀町教育委員会 横田
奥阿賀地方(現阿賀町)は古来、明治に入るまで会津領であった。会津藩ではこの地方が辺境の地であったことから、政治的に罪を受けた武士たちの流刑の地として利用した。実川周辺には、会津藩の家老を務め流刑に処された保科正興の墓などもある。 横田家は、もともと儒学者として、会津藩加藤氏の2代目明成の時登用され、保科松平家でも引き続き重臣を務めていた。 俊孚は横田家の3代目で大目付を務め、寛保3年(1743)3月、江戸勤番となった。江戸詰めの者は、会津に帰るとき、必ず土産物を買い、親類、縁者、友達に至るまで送る習慣があった。これを弊風とみて、藩主から止めるよう話もあったが改まなかった。俊孚は強くこれを止めるよう存寄(ぞんじより 意見書)を出した。これが原因で流刑とされたが、実際は勢力争いに敗れたのが実情であるといわれている。 俊孚は、実川の五十嵐治右衛門家に蟄居した。俊孚はのち許されて若松へ帰ったが、治右衛門に与えた文書や愛用の茶器などが保存されている。 |
五十嵐家住宅 山渓寺跡 万治峠