保科正興の塚 阿賀町



🔗媛姫毒殺事件

慶安元年(1648)ごろ〔生〕- 元禄2年(1689)8月7日〔没〕

若くして家老となった保科正興

保科正興は、会津藩主保科正之につながる保科家の一族に生まれた。保科正之の養祖父・保科正直の弟、保科正勝の孫にあたり、十五歳で元服して家を継いだ。二十七歳という若さで家老職に抜擢され、藩政の中枢を担う有力家臣となった。
正興の出世には、保科正之の継室で、二代藩主正経の生母でもあったお万の方、後の聖光院との関係が深く影響したとされる。正興は聖光院の姪を妻としており、その縁から聖光院の意向を受ける立場となった。藩政において聖光院の影響力が強まるにつれ、正興もまたその側近的な存在として力を持つようになった。

お万の方をめぐる政争

聖光院をめぐっては、後世に伝わる「媛姫毒殺事件」の話がある。万治元年(1658)、正之の長女媛姫は上杉家に嫁いだ。その後、側室の子である四女松姫が前田家へ嫁ぐことになった際、お万の方がこれを快く思わず、松姫を毒殺しようとしたものの、誤って媛姫が毒を口にして死亡したという伝承である。ただし、当時の記録では媛姫は急病死とされており、毒殺事件の詳細は後世の伝承として見る必要がある。
保科正之は藩政の基本方針を示す「会津家訓十五カ条」を定め、その第四条には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と記した。これは女性が藩政に口を出すことを戒めたものとして知られる。しかし正之の死後も、聖光院は二代藩主正経の生母として強い影響力を持ち続けた。これに反発する家臣たちとの間に対立が生じ、藩内は次第に派閥抗争の様相を呈するようになった。

政争に敗れ、家老職を失う

転機となったのが天和元年(1681)である。二代藩主正経が隠居し、異母弟の正容が三代藩主となると、正興を支えていた聖光院の政治的な影響力は大きく後退した。聖光院の勢力と結びついていた正興も、藩内で立場を失っていく。
正興は家老職を解かれ、会津での蟄居を命じられた。さらに知行をすべて召し上げられ、貞享3年(1686)、罪人として会津藩領の鹿瀬町日出谷水沢、現在の阿賀町日出谷へ流されることになった。わずか三十代後半で、家老としての地位も財産も失い、故郷を遠く離れた山間の地で暮らす身となった。

水沢で「民部さま」と呼ばれる

流刑となった正興が身を寄せたのが、当地の高松家であった。かつて藩政の中心にいた人物が、山深い水沢で一人の流人として暮らすことになったのである。
しかし正興は、村人に対して威張ることなく接し、子どもたちに読み書きを教えたり、村の暮らしを気に掛けたりしたと伝わる。干ばつの際には雨乞いをするなど、村人のために行動したという逸話も残る。こうした姿から、村人たちは正興を罪人としてではなく、親しみを込めて「民部さま」と呼ぶようになったという。

「さすらいの丘」に残る最期

高松家には、正興の辞世と伝えられる歌が残されている。
  • 「ほたるひを したへとくらき
  • なつのよの まつかせをちつ
  • さすらいのおか」
この歌には、流刑の身となった正興の孤独と、故郷を離れて最期を迎える寂しさが込められているとされる。また、歌には言葉を巧みに組み合わせた仕掛けがあり、「保科正興の塚」を示すものとも伝えられている。
正興はその後も赦免されることなく、元禄2年(1689)8月、この地で生涯を閉じた。享年43歳と伝えられる。墓は高松家の裏山にあり、地元では「さすらいの丘」と呼ばれている。
現在の墓石は後世に建てられたもので、旧墓石とされる石は十字に切断され、現在も地面に残されている。藩政をめぐる政争に敗れ、一族としての地位も、家老としての権力も失った正興。しかし流刑先では村人から「民部さま」と慕われた。その生涯は、江戸時代の藩政における権力争いの厳しさとともに、権力を失った一人の武士が地域の人々との間に残した温かなつながりを今に伝えている。






🔙戻る

媛姫毒殺事件

会津藩主保科正之は正室菊姫が亡くなった後、側室於万の方を継室とした。於万の方とは仲睦まじく4男5女設けた。ほかにお志保の他4人の側室がいて6人の子をもうけ、合わせて15人の子だくさんであった。
於万の方の長女媛姫は承応2年(1654)、将軍家の仲介で米沢藩3代目上杉綱勝に嫁いでいた。
万治元年(1658)、将軍家の命令で側室お志保の方の子松姫(10歳)が、加賀藩100万石の藩主前田綱紀(15歳)の正室として嫁入りすることとなった。
婚礼は7月26日と決まった。その前日、於万の方の計らいで、江戸の会津藩邸で、松姫嫁入りの祝宴が開かれることになり、上杉家に嫁いだ媛姫も里帰りし出席することとなった。
かねがね、側室の子が自分の産んだ子より格上の大名に嫁ぐことを苦々しく思っていた於万の方は、この機会を利用して、松姫を毒殺しようと計画する。
松姫のお膳に毒を仕込んで殺害するよう家臣に命じた。松姫の前にお膳が置かれようとした時、何となく胸騒ぎを覚えた松姫付きの老女野村が、媛姫より先にいただいては失礼になると、そのお膳を媛姫の前に置いてしまった。
毒のことなど一切知らない媛姫はそのお膳に箸をつけた。その夜、米沢藩邸に帰った媛姫は猛烈な腹痛に襲われ、翌々日の28日ついに亡くなってしう。18歳という若さであった。
死亡の原因が毒殺であるということを知った正之は、関係者を処罰したが、首謀者の於万の方は2代藩主候補正経の母ということで、罪は負わせられなかった。しかし正之は存命中は於万の方を遠ざけていたという。
正之にとって媛姫事件の後遺症は大きく、のちに家訓を定めたとき、第4条に「婦女子の言、一切聞くべからず」という項目を入れ、女性が政治向きに口を出すことを固く戒めた。また、迷惑をかけた上杉家に対しては、何かと心を砕いていたという。
特に、米沢藩上杉綱勝は媛姫の死亡後、継室を迎えるが、寛文4年(1664)閏5月7日に嗣子なく、世嗣も指名しないまま急死する。享年26。本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、保科正之の仲介で、綱勝の妹富子が嫁いでいた高家吉良義央との間に産まれたばかりの長男三之助が末期養子として綱勝の跡を継ぐことで家名断絶を防ぎこれを救っている。
吉良義央は後に江戸城内で浅野長矩により刃傷を受け、赤穂事件の一方の当事者となった人物である。

余談ではあるが戊辰戦争時、米沢藩は会津藩と新政府軍の間に立って仲介に努めたが、これは米沢藩がかつての保科正之への恩義があったからといわれている。その行動はかえって新政府軍から疑いの目を向けられる結果を招き、奥羽列藩同盟に参加することとなった。


🔙戻る





地図 ストリートビュー












保科正之

保科正之

  • 作者:小池 進
  • 出版社:吉川弘文館
  • 発売日: 2017年10月30日頃

保科正之

保科正之

  • 作者:三戸岡道夫
  • 出版社:PHP研究所
  • 発売日: 1998年07月

高家表裏譚7 婚姻

高家表裏譚7 婚姻

  • 作者:上田 秀人
  • 出版社:KADOKAWA
  • 発売日: 2023年07月21日