凧合戦の由来は、江戸時代の中頃、凧合戦が始まったと伝えられている。明治44年(1911)には『白根凧合戦協会』が発足した。 大凧は、縦7m、横5m(和紙324枚張り)重さは約50kgで、揚げ手は30人~40人程で揚げ、凧を操る。凧は、大竹を裂いて組み合わせ、これに丈夫な紙を張り、武者絵などが描いてある。それぞれ組の伝統の絵柄を使っており、中には江戸時代から継承されている絵柄もあり、また凧が相手側に向かって揚がる様に工夫して作っている。 大凧は、中ノ口川を挟んで、東軍(旧白根市側)6組と、西軍(旧味方村側)7組に分かれて合戦する。畳24枚大の大凧や、畳5枚大の巻凧といわれる六角凧あわせて1500枚の凧を揚げ、麻で作った凧綱で下流から吹き上げる風を利用して空高く揚げ、空中で絡ませて川に落とし合い、相手の凧綱が切れるまで観衆も加わり引き合いを行う。 過去には縦19m、横14mの大凧揚げに成功し世界最大の凧としてギネスブック(1981)に登録されたほか、日本のみにとどまらず、世界各国で白根の大凧を披露し、世界凧博物館(米・ワシントン州)に殿堂入りを果たした。また新潟県の無形民俗文化財にも登録されている。 昔、中ノ口川が氾濫し、新発田藩の白根村と村上藩の味方村白根の人達は治水工事に大変苦労していた。元文2年(1737)5月、白根村の庄屋神山忠兵衛が堤防改修工事が完成した祝いに新発田藩から招かれた。お城では男子が生まれた時で、その祝いに大凧が飾られていたが、忠兵衛は殿様からその凧をもらい受け、新しい堤防の上で揚げてみた。 ところが凧は、川向の村上藩領味方村白根の神山又右衛門の屋根にあたり、屋根を壊し、さらに田畑まで荒らしてしまった。又右衛門は怒り、さらに大きな凧を作って揚げ、忠兵衛の屋根にたたきつけて壊し、報復した。 これがもとで凧合戦が生まれたといわれるが、新発田藩と村上藩が後ろ盾になっていたのでお互いに負けじと強さを競い合ったという。 (案内図) レルヒ少佐と大凧合戦明治44年(1911)6月6日、日本に初めてスキーを紹介したレルヒ少佐は、大凧合戦を見て感激し、優勝旗の寄贈を申し出た。これを機に優勝制度のルールの制定や勝敗の審判などを目的に『白根凧合戦協会』が設立された。この旗は昭和6年(1931)、白根大火で失われた。(☛ レルヒ少佐)☯2019年、大凧の綱に地元産カラムシの繊維を交ぜた綱が初めて使われる。
しろね大凧と歴史の館 ※GOOGLE 画像大凧合戦の歴史展示コーナーや、凧合戦の雰囲気を味わえる3D立体映像室、凧作り体験できる凧工房、凧揚げ実験室を備えています
地図 ストリートビュー |
白根大凧合戦
まで
日
|