栖吉城跡 Suyoshi Castle trace 長岡市



長岡駅の南東約5.5キロ、栖吉の集落の背後にそびえる城山(284メートル)に残る山城とその東方に続く古城、または姫城と呼ばれる城跡。
築城年代は明らかではないが、永正年間(1504~21)頃に古志長尾氏6代の豊前守孝景の時代に築城されたと推定される。
古志長尾氏は長尾景忠が南北朝期に越後守護となった上杉憲顕に従って越後に入国し、その弟、長尾景恒の子、景春が蔵王堂城を築いて拠点としたが、孝景の代に栖吉城を築いて移ったという。
永正7(1510)年6月6日、栖吉城主の古志長尾房景は、長尾為景と上杉顕定の争いに際して顕定に味方し、蔵王堂城を攻めて勝ったが、合戦の後に為景方へ寝返った。
その後は一貫して為景方として戦い、古志長尾房景の息女(虎御前)は守護代の長尾為景に側室として嫁ぎ、享禄3(1530)年、虎千代(長尾景虎、のちの上杉謙信)を生んでいる。
栖吉衆は謙信の側近として各地を転戦。数々の手柄を立てる。古志長尾氏は景信の代に上杉姓を許され、上杉十郎景信と称した。また天正3(1575)年の軍役帳では、81名の軍役を負っている。
上杉十郎景信は、天正6(1578)年の上杉謙信の死後勃発した御館の乱では、小田原北条氏出身の三郎景虎を支持し、6月11日に居多ヶ浜の合戦において山浦国清と戦い戦死し、結果古志長尾氏は断絶した。
古志長尾氏滅亡後は栖吉城は上杉景勝の番城となり、景勝の命により河田長親の子、岩鶴丸が城主に任じられ、古志長尾氏の遺臣(古志衆)を「栖吉衆」として再編した。その後上杉氏の番城となり、栖吉衆が在番した。慶長3(1598)年、景勝の会津移封により廃城となった。
現在山頂部に東西55メートル、南北33メートルの本丸跡の平坦地が残り、この三方に幅4メートルの空堀、下方に二ノ丸・三ノ丸跡地、桝形、連珠塞、土塁などが遺存して、壮大で堅固な山城の遺構が良く残っている。県指定の史跡である。
城山の東麓にある曹洞宗普済寺は、古志長尾氏の菩提寺で、長岡藩牧野氏初代忠成※ストリートビューもこの寺に葬られた。(案内図)





≪現地案内看板≫
新潟県指定文化財・史跡
栖吉城跡遺構模式図

昭和三十八年三月二十二日指定
指定面積 七一、三〇〇平方メートル

栖吉城跡は、東山丘陵の「城山」と呼ばれるこの山頂部(標高三二八メートル)にあって、戦国時代初頭(約五〇〇年前)古志長尾氏によって築かれた壮大な規模の山城である。その後、上杉謙信の側近である河田長親らの居城として長岡の中心的役割を果たし、戦国時代の末期(慶長三)には廃城となった。
主郭の外周には数多くの削平地や土塁・空堀の跡をはじめ水飲み場なども数多く残っている。

新潟県教育委員会
長岡市教育委員会


新潟県指定文化財・史跡 栖吉城跡

昭和三十八年三月二十二日指定
指定面積 七一、三〇〇平方メートル

栖吉町の周辺には「中町」「原町」「一木戸」など城下町に由来する地名や鍵形に屈折した街路、間口が狭く奥行きの長い短冊形の地割りなど城下町的地割が見られる。
また、町の北のはずれには現在水田となっているが、栖吉城に伴う武士の館があった。
栖吉川の右岸(国道三五二号沿い)には中世の三貫梨遺跡・中道遺跡をはじめ古くからの伝承をもつやぶ地蔵・乳いちょうなどがある。登山道を登ると途中に清水があり、栖吉城跡の主郭にいたる。

新潟県教育委員会
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栖吉城跡 普済寺