悠久山公園 Yukyusan Park 長岡市
🔗蒼柴神社 長岡駅の南東約3.2キロ、東山連峰の麓にあり面積は約20万平方メートル、「お山」の愛称で親しまれている長岡市民憩いの場となっている。 蒼紫神社脇の駐車場左側の杉林がサギの繁殖コロニーで、アオサギ、ゴイサギ、コサギ、チョウサギ、ダイサギ、アマサギの6種のサギを見ることが出来る。 寛永年間(1624~44)この地をこよなく愛した長岡藩3代藩主牧野忠辰(ただとき)が佐渡島の杉苗をはじめ、松や桜などを植えて育てたのが始まりと言われている。天明元年(1781)、長岡城中から忠辰を祀る蒼柴神社がこの地に移され、藩の管理地とされたが、大正6年(1917)民間の有志の手によって公園として整備、開園された。 桜の名所として有名で、桜は長岡藩9代藩主牧野忠精公が植樹したと伝えられている。4月中旬~下旬にソメイヨシノやシダレザクラなど約2,500本の桜が咲き誇り、公園全体がピンク色に染まる。観桜会が開催され、夜にはライトアップされる。史料館から眼下に見える桜は圧巻で、撮影ポイントとなっている。 郷土資料館の周囲の自然林は野鳥の多い所で、ヤマガラ、シジュウカラ、エエナガ、コゲラ、アカゲラがよく見られる。(案内図) ☯2019年11月10日、「令終会記憶之園」の建立除幕式が行われた。悠久山公園が100年の節目を迎えたことを記念し、公園を整備した市民によって設立された「令終会」の中心山田又七、田村文四郎の胸像と顕彰碑を設置した。
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🌌招魂社蒼紫神社の右脇奥にある小さな社で、戊辰の役及び西南の役で戦死した長岡藩士325名の霊を祀るために造営されたものである。🌌長岡郷土史料館🌌白狗の塚貞享(1684-1687)の頃、長岡藩3代藩主牧野忠辰治政の時、中沢村善兵衛の家に白い犬が生まれた。勇猛な犬だったので、これをもらいうけて愛育していた。忠辰が参府した際、江戸の邸に連れて行った。ある日、尾張候の唐犬にかみついて瀕死の重傷を負わせてしまったので、忠辰は事が大きくなるのを恐れきつくしかった。 犬は邸を追い出されたと思い約76里、参勤交代時通った道を走って、中沢村に帰った。しかし善兵衛が、殿様のゆるしを得てこなければ入れない、城に戻るように言ったので、犬は尾を垂れて去り、食を断って数日、ついにこの地で死んでしまった。後の人がこの白犬を「義狗」と呼び、亡くなった丘に塚をもり、碑を建てた。 後の世に、この丘が開かれ、牧野忠辰を祭神とする蒼柴神社が創建された。 平成30年(2018)、長岡開府400年を記念して、蒼柴神社拝殿のとなりに、忠犬 「しろ」 の石像と神社が完成した。 蒼柴神社(あおふしじんじゃ 通称あおしじんじゃ) ※動画長岡市の東端、JR長岡駅から東へ約4キロ、東山山麓の西側にあり、悠久山公園は蒼柴神社の神域を中心として築造された公園である。享保7年(1722)に第3代藩主牧野忠辰が死去。名君のほまれ高く、また吉田神道を敬信していたので、京都の神祇道管領の吉田家より、故人忠辰に蒼柴霊神の神号が贈られた。 嗣子第4代牧野忠寿が長岡城東隅に社殿を造営して忠辰の霊璽を奉安したのが始まり。 明和3年(1766)に牧野忠精が第9代藩主となると、社殿の城内からの移転が計画され、明和6年(1769)には忠辰が治世中に杉の植林を行ったゆかりの地であった古志郡栖吉村戸左衛門新田(通称三宮山)を移転先とした。 三官山の開拓に13年を費やして「蒼柴大明神」社殿を造営し、天明元年(1781)7月29日に社地を三官山から悠久山と改名し、8月8日には遷宮式が行われた。 神域は約1万1,000㎡、長い石段を登った高台に、江戸時代後期、牧野忠精が、日光東照宮を模して造立した権現造の社殿がたつ。戊辰戦争や長岡空襲などでも焼失を免れ、国の重要文化財になっている。 社殿の北方に、明治戊辰の役で戦死した河井継之助以下307名と、西南の役の戦死者18名を合祀する招魂社がある。 戊辰の役で長岡城が落城すると長岡藩兵は蒼柴神社前に集結し、長岡藩領栃尾に移り交戦を続けたが、その際祭神も栃尾に遷された。祭神は明治2年(1869)に再び蒼柴神社に戻された。 神仏分離令を受けて明治4年(1871)に蒼柴大明神から蒼柴神社に改名され、「お山」の名で長岡における崇敬の対象となる。 一の鳥居から二の鳥居にかけて続く参道は、忠精公が植えたとされる桜並木。桜第門や桜雲路とも呼ばれ、春は満開の桜の門をくぐって参拝したい。また、境内には忠辰公の忠犬「しろ」を祀った忠犬しろ神社もあり、愛犬とともに参拝できる神社としても注目されている。 2006年(平成18)、本殿および拝殿が国の登録有形文化財に登録された。 🔙戻る
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