① 黒松2万6000本の防砂植林
修就が新潟に着任して最初に直面したのが、日本海から吹きつける猛烈な冬の「飛砂(ひさ)」の害であった。寄居浜から五十嵐方面にいたる広大な海岸線から飛来する砂は、民家を埋め、田畑を荒らし、住民の生活を著しく脅かしていた。修就はその深刻さを肌で実感すると、着任と同時に「防砂植林こそ最優先の急務」と断定。奉行所に専任の「砂防係」を設置し、地元の町役人と緊密に協力しながら、浜浦一帯への松林栽培に着手した。以後6年間にわたり、実に2万6000本余もの黒松を植え付けた。この時形成された松林は、現代にいたるまで新潟の海岸線を守る緑の盾として機能し続けている。
② 仲金(入湊税)の改革と財政強化
旧領主である長岡藩が制定していた「仲金(すあいきん)」と呼ばれる一種の入湊税の事務手続きに、大規模なメスを入れた。不正や不透明な徴収ルートを徹底的に排除し、厳格な管理下に置くことで、税収の不当な流出を防いだ。この改革により、奉行所の収納額は急増し、安定した統治資金を確保することに成功した。
③ 特権の廃止と痛みを伴う改革
都市改革を進めるにあたり、まずは身内の膿を出すことから始めた。当時、特権階級化していた町役人たちに認められていた「年貢および諸掛銀(諸税)の免除」という特権を全面的に廃止した。これにより税負担の公平性を担保し、一般町民からの信頼を勝ち得た。
④ 町役人の公選制導入
それまで利権や世襲で決まりがちだった町年寄や町代といった重要な町役人の任命方法を改めた。「町中重立(町民の代表層)」による公選制(選挙)を導入したのである。民意を反映した優秀な人材を登用することで、地方自治の透明性と効率性を飛躍的に高めた。
⑤ 新田開発と検地の徹底
湊町や入舟町付近にあたる上島・下島エリアの徹底的な検地を断行した。これにより隠し田などを暴き、それまで徴収されていなかった「野平(原野税)」を奉行所に納付させた。同時に、厩島や旭町といった未開の地の開拓を精力的に進め、都市のキャパシティと農業生産力を拡大した。
⑥ 移住と居住の自由化
それまで住民の移動を制限していた「借家札(借家を規制する制度)」を廃止した。他郷から新潟に移り住む者(人別送りを持参した者)に対して、居住の自由を広く認めた。この大胆な規制緩和により、周辺地域から多様な労働力と商人が新潟に流入し、活気ある都市への成長を促した。
⑦ 通貨相場の平準化
諸国から船が集まる新潟では、金銭両替における相場の乱高下が商取引の大きな障害となっていた。修就は両替商たちを厳しく指導・監視し、金銀の相場を常に平準化させた。これにより不当な利益搾取を防ぎ、商人が安心して取引できる健全な市場環境を整えた。
⑧ 新たな番所の設置
沼垂(ぬったり)地区および栗ノ木川通りの交通の要衝に、新しく番所(検問所)を設けた。密輸の残党を監視するとともに、治安維持のネットワークを網の目のように張り巡らせ、不審者の流入を阻止した。
⑨ 消防制度の確立と「火の元掟13条」
密集した木造家屋が多く、強風が吹き抜ける新潟町にとって、火災は最大の脅威であった。修就は「火の元掟13条」という厳格な防火規定を定め、町民の防火意識を徹底的に叩き込んだ。さらに、近代的な消防制度を確立し、町内に消防用具を常備する「用具入れ小屋」を5ヵ所に建設して、有事に備えた迅速な消火体制を構築した。
⑩ 風俗粛清と物価安定
当時の新潟は北前船の主要な寄港地であり、全国から人、モノ、金が集まる一大商業都市であった。それゆえに花街が隆盛を極め、娯楽や華やかな「おもてなしの文化」が花開いていたが、裏を返せば風紀の乱れや奢侈(贅沢)が蔓延していた。修就は衣食住における華美な贅沢を厳禁とし、倹約を強く奨励した。一方で、商人の米の買占めを厳罰に処すなどして物価の安定を図り、庶民の生活を守りつつ、都市の健全なモラルを取り戻させた。
⑪ 沿岸防衛の強化と大砲鋳造
修就の本領は民政に留まらず、軍事・防衛の面でも遺憾なく発揮された。海外からの異国船の脅威が高まる中、新潟港の入り口にあたる州崎に「お備場(砲台)」を迅速に整備した。修就は自ら図面を引き、指揮を執って「五百目玉の大筒(口径約20cmの大砲)」を鋳造させた。彼は自ら砲術の陣頭指揮を執り、奉行所の役人や町兵たちに猛特訓を課して、実戦さながらの砲術稽古に精励した。
⑫ 儒学による教化
町民や役人の心の荒廃を防ぐため、教育にも力を注いだ。毎月、町役人たちをわざわざ町役所に集め、自ら教壇に立つなどして儒学の講義を行った。知識と道徳を授けることで、新潟町民全体の精神的教化と質の向上を図ったのである。
⑬ 「非常心得方覚」の布告
嘉永元年(1848)5月12日、修就は新潟町全域に「非常心得方覚」を布告した。これは異国船が突如来航した際、町民や役人がパニックに陥ることなく、どのように連絡を取り合い、どこへ避難し、防衛体制を敷くべきかを具体的に定めたマニュアルであった。これにより、国防の意識を役人だけでなく一般町民にまで浸透させた。