川村修就 新潟市



新潟奉行 川村修就(かわむら ながたか)

寛政7年11月13日(新暦1795年12月23日)〔生〕~ 明治11年(1878年)4月8日〔没〕

江戸下谷御師町に川村修富の子として生まれた。修就は通称清兵衛、号を精斎、晩年には閑斎と称した。先祖は紀州藩士で、8代将軍吉宗に従って江戸に出、軽輩の小十人格。御天守台下御庭番(隠密役をつとむ)として幕府につかえ、のち簾中様御付御用達となった。

文化13年(1816)10月、21歳のとき、部屋住みから召し出されて小十人格・御天守台下御庭番・二十人扶持、ついで御賄頭(御勝手向を司る)を経て、文政13年(1830)、御簾中用人となった。のちの天保10年(1839)御裏御門切手番に昇進。この天保10年には水野忠邦が老中首座となっている。
天保11年(1840)年9月、老中水野忠邦の命を受けて新潟を中心とする抜け荷流通状況を調査報告した。修就は老中水野忠邦の後ろ盾を得て、有能な官吏として御庭番から裏御門切手番之頭に登用されていた。長岡藩領新潟町は、日本海沿岸の海上交通の重要地点であった。新潟湊に禁制品を積んだ薩摩船が入港し抜荷がおこなわれ、長岡藩は多額の利益を得ているという情報が幕府に入った。
修就は飴売りに身をやつし、鉦を叩きながら市中を徘徊し、実情を探索したという。調べた結果、長岡藩は表高74,000石であるが、実高は新潟湊のおかげで12万5000石の収入がある一方で、抜け荷(密貿易)が頻繁に行われているが、長岡藩は抜け荷を取り締まらないばかりか、その利益を得ていることが明白だという報国を、水野忠邦に上申した。
忠邦は幕府の財政が逼迫する中、確実に収入の見込める新潟町を長岡藩から上知し天領とする画策をはかっていた。
天保12年(1841)閏1月、大御所家斉が亡くなり、忠邦は寛政の遺老と呼ばれた家斉旧側近を罷免し、自分の側近を配置することによって、本格的に天保の改革に着手した。
天保12年(1841)5月13日に修就は老中水野忠邦に抜擢されて勘定吟味役となる。
天保14年(1843)になって、天保6年(1835)と天保11年(1840)の2回新潟町で唐物抜荷事件が発覚したことから、修就は長岡藩の不取締りを理由に、新潟町の上知を建議した。
天保14年(1843)6月11日、幕府は、新潟が日本海沿岸の海上交通の重要地点であり、異国船に備えた海岸防衛を強化し、商品の流れを把握し、幕府権威の再確認をするという理由をつけ上知し天領とした。
天保14年(1843)6月17日、48歳の時、修就はこの功により初代新潟奉行として任命され、10月9日に着任する。禄は1000石、御役料1000俵、席順は佐渡奉行の次という重職である。しかし、この年の閏9月、忠邦は失脚しており、幕府内で忠邦の懐刀として実務を取り仕切っていた修就が体よく新潟に飛ばされたという面も見逃せない。
嘉永3年(1850)、治績を認められ対馬守を受領する。
以降、嘉永5年(1852)まで10年間奉行の役目をつとめ、奉行所の改築、新潟町支配組織の制定など新潟町統治の基礎を確立すると共に、民政の向上につとめた。通常奉行職は1~2年程度で交代するのが慣例であったことから、10年近くも新潟奉行を務めたことは異例であった。
これは、この期間水野忠邦の政敵で、老中から罷免した阿部正弘が老中首座を勤め、修就は水野一派とみられていたことと関連があるようである。ただ、罷免されなかったのは、修就の官吏としての能力が罷免するには惜しいほど有能だったからだと思われる。


(主な業績として)
  • ①寄居浜から五十嵐方面まで冬の「飛砂」の害の深刻さを実感する。着任と同時に防砂植林の緊要なるを感じ、砂防係りを置き町役人と協力して浜浦一帯の松林栽培に着手し、以後6年間に渡って、26,000余本の黒松を植えつけた。
  • ②天保14年(1844)11月21日、長岡藩が制定した仲金(スアイキン 一種の入湊税)制事務を改革し、収納額を急増させた。
  • ③町役人の年貢、諸掛銀免除の特典を廃止した。
  • ④町年寄、町代など町役人の任命は町中重立に公選させた。
  • ⑤上島・下島(湊町・入舟町附近)を検地し、野平(原野税)を奉行所に納付させた。厩島・旭町の開拓を行った。
  • ⑥借家札の制を廃止し、人別送りの持参のものには居住の自由を認めた。
  • ⑦金銭両替において相場の平準を保持させた。
  • ⑧沼垂、栗ノ木川通りに新しく番所を設けた。
  • ⑨火の元掟13条を定め、消防制度を確立し、消防用具入れ小屋5ヵ所を建設した。
  • ⑩新潟は北前船の寄港地として諸国から入ってくる人、モノが集まり、花街が生まれるなど、娯楽、おもてなしの文化が花開いていた。風俗の改善、倹約の奨励において衣食住の華美を禁じ、また物価の安定、米の買占め禁止、風紀の粛清など数々の施策を実施した。
  • ⑪新潟港の入り口にあたる州崎に「お備場(砲台)」を整備し、自ら指揮して鋳造させた「五百目玉の大筒(口径20cm)」で砲術の稽古に精励させた。
  • ⑫町役人を町役所に毎月集めて儒学の講義するなど新潟町民の教化につとめた。
  • ⑬嘉永元年(1848)5月12日、新潟町に「非常心得方覚」を布告し,異国船来航時の対拠方法を改めた。

その後、嘉永5年(1852)7月晦日堺奉行に転出。安政元年(1854)5月29日大坂町奉行と転進し、安政2年(1855)5月1日長崎奉行に就任。その後、小普請奉行や西丸留守居などを務めた後、元治元年(1864)8月18日、69歳でお役御免。明治11年(1878)に82歳で没した。
幕府崩壊期に、その倒壊を支える能吏として活躍した。修就はまた武芸に優れ、とくに砲術については、萩原流の免許皆伝を有して、みずから奉行所役人を指導したほか、書・歌・関流和算をよくした文化人であった。

後年、川村家の子孫は、家に残った史料を、江戸時代のものは新潟市歴史博物館に、明治以降は江戸東京博物館にそれぞれ寄贈した。
新潟市歴史博物館には、修就の鎧や自ら図面を引いた「大砲」の模型を展示する。また任期中に彼が記した膨大な日記は、この有能な官吏の几帳面さを物語っている。

  • 🔶⦅墓所⦆
    正受院
    〔所在地〕 東京都新宿区新宿2‐15‐20
  • 🔶川村修就の下屋敷
    現在は料亭大橋屋本館となっている。
    〔所在地〕 新潟市中央区本町通1813



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