川村修就 新潟市



新潟奉行 川村修就(かわむら ながたか)

寛政7年11月13日(新暦1795年12月23日)〔生〕~ 明治11年(1878年)4月8日〔没〕

幕末の能吏・川村修就の生涯

出自と御庭番としての出自

寛政8年(1796)、川村修就は江戸下谷御師町(現在の東京都台東区東上野付近)にて、幕臣・川村修富の子として生を受ける。通称を清兵衛、号を精斎、隠居した晩年には閑斎と称した。
川村家の先祖はもともと紀州藩士であったが、紀州藩主であった徳川吉宗が8代将軍として江戸城に入った際、これに従って幕臣へと組み込まれた経歴を持つ。家格としては「軽輩の小十人格」という低い身分からの出発であったが、その役割は極めて特殊であった。歴代の川村家当主は、将軍直属の秘密情報部員とも言える「御天守台下御庭番(隠密役)」を務めて幕府に仕え、のちには将軍の正室(御簾中)の側近である「簾中様御付御用達」などの要職を担う家柄であった。
修就もまた、この血統と職能を色濃く受け継ぐことになる。文化13年(1816)10月、21歳に達した修就は、まだ家督を継いでいない「部屋住み」の身分でありながら、その優秀さを認められて幕府から召し出された。与えられた役職は、家祖以来の筋目である小十人格・御天守台下御庭番であり、二十人扶持を給された。これが、のちに幕府の崩壊期を陰で支えることになる偉大な能吏の、記念すべき官僚キャリアの第一歩であった。
御庭番としての修就は、徹底した隠密活動や情報収集能力を叩き込まれた。その後、幕府の台所事情や将軍家の家政・勝手向を司る「御賄頭」へと昇進し、財政や組織管理の実務経験を積んでいく。そして文政13年(1830)には、かつて先祖も務めた御簾中用人に就任した。政治的な実務能力を着実に高めた修就は、天保10年(1839)、江戸城大奥の出入りを監視し警備を統括する「御裏御門切手番之頭」へと昇進を果たす。この年、幕政の中枢では水野忠邦が老中首座の座に就いており、修就の運命はこの最高権力者と深く結びついていくことになる。

飴売りに化けた隠密:新潟抜荷調査の緊迫

天保11年(1840)9月、修就の人生を決定づける極秘任務が下される。老中首座・水野忠邦からの直接の命であった。その内容は、日本海沿岸の海上交通の要衝である長岡藩領「新潟町」を中心とした、大規模な「抜け荷(密貿易)」の流通状況を潜入調査せよというものであった。
当時、幕府には「新潟湊に禁制品を満載した薩摩藩などの船が出入りし、公然と密貿易が行われている。そして地元の長岡藩はそれを取り締まるどころか、莫大な中間利益を得ている」という不穏な情報がもたらされていた。幕府の財政が底をつきかけていた当時、水野忠邦は財政再建のための決定打として、商業的価値の極めて高い新潟町を長岡藩から没収し、幕府直轄の「天領」とする画策を抱いていた。そのための確実な物証と大義名分が必要であったのだ。水野は、御庭番出身であり、冷徹な調査力と果断な実行力を併せ持つ修就を「懐刀」として抜擢し、北国へと派遣した。
新潟に乗り込んだ修就は、幕府の役人としての身分を完全に隠した。彼が選んだ変装は、町を徘徊する「飴売り」であった。粗末な衣服を身にまとい、手には鉦(かね)を持ち、それを叩いて子供たちを集めながら、新潟の市中や湊の隅々まで歩き回った。一見すると風来坊の飴売りに過ぎない男が、その鋭い眼光で、船乗りたちの会話、荷揚げされる物資の種類、そして長岡藩の役人たちの動きを克めてに観察していたのである。まさに御庭番としての本領発揮であった。
この命がけの隠密調査により、修就は驚くべき実態を暴き出した。長岡藩の公式な表高は7万4000石であったが、新潟湊のもたらす莫大な商業利益のおかげで、実質的な経済力(実高)は12万5000石にも上っていた。その経済を支えていたのが、頻繁に行われる抜け荷(密貿易)であった。長岡藩はこれを黙認するだけでなく、自らも深く関与して利益を貪っていた。
修就はこの決定的な証拠をまとめ、水野忠邦へ上申した。この報告書は水野を狂喜させた。天保12年(1841)閏1月、大御所・徳川家斉が死去すると、水野忠邦は寛政の遺老と呼ばれた家斉の旧側近たちを次々と罷免。自らの側近で周囲を固め、本格的な「天保の改革」へと突き進む。この改革の急進に伴い、修就も同年5月13日、水野の手によって「勘定吟味役」へと抜擢され、財政・民政の刷新を任される実務エリートとしての地位を不動のものとした。
天保14年(1843)にいたるまでに、過去に新潟町で発生した二度の唐物抜荷事件(天保6年および天保11年の事件)の証拠が完全に揃った。修就はこれを根拠に「長岡藩の不取締りは目に余る」として、新潟町を幕府領へ編入する「上知(あげち)」を正式に建議した。同年6月11日、幕府は修就の建議通り、新潟の海防強化、物価および流通の統制、そして幕府権威の再確認を名目に、新潟町を天領とすることを宣言した。

初代新潟奉行への就任と政治的逆風

新潟の上知が決定したわずか6日後の天保14年(1843)6月17日、48歳になった川村修就は、その抜群の功績により「初代新潟奉行」に任命される。
格付けとしては、禄高1000石、御役料1000俵。席順は佐渡奉行の次という、新設の奉行職としては異例の重職であった。修就は同年10月9日、大いなる野心を抱いて新潟の地に赴任した。しかし、この栄転の裏には、江戸の政界における激しい政変の影が落ちていた。
実は、修就が新潟に赴任する直前の天保14年閏9月、急進的すぎた天保の改革は諸派の猛反発を招き、老中首座・水野忠邦は突然の失脚を遂げていたのである。幕府内で「水野の懐刀」として辣腕を振るい、多くの政敵を作ってきた修就にとって、後ろ盾を失うことは致命的であった。つまり、この新潟奉行への着任は、純粋な功功による栄転という側面を持つ一方で、水野一派の有力実務官僚を江戸の中枢から遠ざけるための「体よく仕組まれた地方への左遷(飛ばされた)」という冷酷な政治的現実も含んでいた。
さらに、その後に老中首座となったのは、水野の政敵であった阿部正弘であった。普通であれば、前権力者の側近は即座に罷免されるのが幕府の人事の常道である。また、当時の奉行職は通常1〜2年程度で交代するのが慣例であった。しかし、修就はこの逆風の中にあって、嘉永5年(1852)までの約10年間という、異例中の異例とも言える長期にわたって新潟奉行の椅子に座り続けることになる。
なぜ罷免されなかったのか。それは偏に、修就の官吏としての能力が、政治的敵対関係を超えて「罷免するにはあまりにも惜しいほど有能である」と、阿部正弘ら新政権幹部に認められていたからに他ならない。修就は、己の政治的危機を、地方統治における圧倒的な「実績」によって跳ね返してみせたのである。

新潟町統治の基礎を築いた「十三の治績」

新潟奉行として着任した修就を待ち受けていたのは、長岡藩から幕府への統治権移行に伴う混乱と、特有の厳しい自然環境、そして荒廃した規律であった。修就はすぐさま民政の向上と都市基盤の確立に乗り出し、後世に語り継がれる数々の偉業を成し遂げた。その主な業績は、以下の13項目に大別される。
① 黒松2万6000本の防砂植林
修就が新潟に着任して最初に直面したのが、日本海から吹きつける猛烈な冬の「飛砂(ひさ)」の害であった。寄居浜から五十嵐方面にいたる広大な海岸線から飛来する砂は、民家を埋め、田畑を荒らし、住民の生活を著しく脅かしていた。修就はその深刻さを肌で実感すると、着任と同時に「防砂植林こそ最優先の急務」と断定。奉行所に専任の「砂防係」を設置し、地元の町役人と緊密に協力しながら、浜浦一帯への松林栽培に着手した。以後6年間にわたり、実に2万6000本余もの黒松を植え付けた。この時形成された松林は、現代にいたるまで新潟の海岸線を守る緑の盾として機能し続けている。
② 仲金(入湊税)の改革と財政強化
旧領主である長岡藩が制定していた「仲金(すあいきん)」と呼ばれる一種の入湊税の事務手続きに、大規模なメスを入れた。不正や不透明な徴収ルートを徹底的に排除し、厳格な管理下に置くことで、税収の不当な流出を防いだ。この改革により、奉行所の収納額は急増し、安定した統治資金を確保することに成功した。
③ 特権の廃止と痛みを伴う改革
都市改革を進めるにあたり、まずは身内の膿を出すことから始めた。当時、特権階級化していた町役人たちに認められていた「年貢および諸掛銀(諸税)の免除」という特権を全面的に廃止した。これにより税負担の公平性を担保し、一般町民からの信頼を勝ち得た。
④ 町役人の公選制導入
それまで利権や世襲で決まりがちだった町年寄や町代といった重要な町役人の任命方法を改めた。「町中重立(町民の代表層)」による公選制(選挙)を導入したのである。民意を反映した優秀な人材を登用することで、地方自治の透明性と効率性を飛躍的に高めた。
⑤ 新田開発と検地の徹底
湊町や入舟町付近にあたる上島・下島エリアの徹底的な検地を断行した。これにより隠し田などを暴き、それまで徴収されていなかった「野平(原野税)」を奉行所に納付させた。同時に、厩島や旭町といった未開の地の開拓を精力的に進め、都市のキャパシティと農業生産力を拡大した。
⑥ 移住と居住の自由化
それまで住民の移動を制限していた「借家札(借家を規制する制度)」を廃止した。他郷から新潟に移り住む者(人別送りを持参した者)に対して、居住の自由を広く認めた。この大胆な規制緩和により、周辺地域から多様な労働力と商人が新潟に流入し、活気ある都市への成長を促した。
⑦ 通貨相場の平準化
諸国から船が集まる新潟では、金銭両替における相場の乱高下が商取引の大きな障害となっていた。修就は両替商たちを厳しく指導・監視し、金銀の相場を常に平準化させた。これにより不当な利益搾取を防ぎ、商人が安心して取引できる健全な市場環境を整えた。
⑧ 新たな番所の設置
沼垂(ぬったり)地区および栗ノ木川通りの交通の要衝に、新しく番所(検問所)を設けた。密輸の残党を監視するとともに、治安維持のネットワークを網の目のように張り巡らせ、不審者の流入を阻止した。
⑨ 消防制度の確立と「火の元掟13条」
密集した木造家屋が多く、強風が吹き抜ける新潟町にとって、火災は最大の脅威であった。修就は「火の元掟13条」という厳格な防火規定を定め、町民の防火意識を徹底的に叩き込んだ。さらに、近代的な消防制度を確立し、町内に消防用具を常備する「用具入れ小屋」を5ヵ所に建設して、有事に備えた迅速な消火体制を構築した。
⑩ 風俗粛清と物価安定
当時の新潟は北前船の主要な寄港地であり、全国から人、モノ、金が集まる一大商業都市であった。それゆえに花街が隆盛を極め、娯楽や華やかな「おもてなしの文化」が花開いていたが、裏を返せば風紀の乱れや奢侈(贅沢)が蔓延していた。修就は衣食住における華美な贅沢を厳禁とし、倹約を強く奨励した。一方で、商人の米の買占めを厳罰に処すなどして物価の安定を図り、庶民の生活を守りつつ、都市の健全なモラルを取り戻させた。
⑪ 沿岸防衛の強化と大砲鋳造
修就の本領は民政に留まらず、軍事・防衛の面でも遺憾なく発揮された。海外からの異国船の脅威が高まる中、新潟港の入り口にあたる州崎に「お備場(砲台)」を迅速に整備した。修就は自ら図面を引き、指揮を執って「五百目玉の大筒(口径約20cmの大砲)」を鋳造させた。彼は自ら砲術の陣頭指揮を執り、奉行所の役人や町兵たちに猛特訓を課して、実戦さながらの砲術稽古に精励した。
⑫ 儒学による教化
町民や役人の心の荒廃を防ぐため、教育にも力を注いだ。毎月、町役人たちをわざわざ町役所に集め、自ら教壇に立つなどして儒学の講義を行った。知識と道徳を授けることで、新潟町民全体の精神的教化と質の向上を図ったのである。
⑬ 「非常心得方覚」の布告
嘉永元年(1848)5月12日、修就は新潟町全域に「非常心得方覚」を布告した。これは異国船が突如来航した際、町民や役人がパニックに陥ることなく、どのように連絡を取り合い、どこへ避難し、防衛体制を敷くべきかを具体的に定めたマニュアルであった。これにより、国防の意識を役人だけでなく一般町民にまで浸透させた。

多才な文化人としての素顔と「几帳面な日記」

川村修就という人物を語る上で欠かせないのが、その驚異的な「几帳面さ」と、文武両道の極みに達した多才な文化人としての側面である。
冷徹な隠密であり、厳格な地方官であった修就だが、私生活においては非常に風雅を解する人物であった。武芸においては、特に砲術に関して「萩原流」の免許皆伝という最高峰の腕前を誇り、前述の通り自ら役人を指導した。その一方で、芸術や学問への造詣も深く、見事な書を遺し、和歌を詠み、さらには当時最先端の理系学問であった「関流和算(日本独自の数学)」を深く理解し、実務の計算や大砲の弾道計算などに役立てていた。
そして、彼の最大の特徴は、その並外れた記録魔ぶりであった。修就は新潟奉行としての在任期間中、日々の公務、町の様子、天候、自らの思索、さらには日々の細かな出来事にいたるまで、膨大な量の日記を執筆し続けた。
後年、川村家の子孫は家に残された貴重な史料を整理し、江戸時代のものは「新潟市歴史博物館(みなとぴあ)」に、明治以降のものは「江戸東京博物館」へとそれぞれ寄贈した。現在、新潟市歴史博物館には、修就が実際に着用した凛々しい鎧や、彼が和算の知識を駆使して自ら精緻な図面を引いた「大砲」の模型などが展示されており、当時の熱気を行く者に伝えている。そして、何よりも彼が遺した膨大な日記の原本や写しは、一文字の乱れもなく整然と記述されており、この有能な官吏がいかに几帳面で、執念深いまでの観察眼を持っていたかを雄弁に物語っている。

堺・大坂・長崎を歴任:幕末を駆け抜けた晩年

嘉永3年(1850)、これまでの新潟における卓越した治績が幕府中央に高く評価され、修就は従五位下・対馬守を受領する。名実ともに幕府の最高エリートの一員となった。
そして嘉永5年(1852)7月晦日、10年間に及ぶ新潟奉行の任務を全うした修就は、次なる重要拠点である「堺奉行」へと転出することになる。彼の圧倒的な実務能力は、激動する幕末の日本において、一歩間違えれば暴動や外交問題が勃発しかねない最前線の重要都市ばかりを巡るキャリアを生み出していく。
安政元年(1854)5月29日、大坂の治安と経済を統括する「大坂町奉行(東町奉行)」へと栄転。ここで西日本の経済管理と不穏分子の取り締まりにあたった。さらにその翌年の安政2年(1855)5月1日には、外国への唯一の窓口であり、国際情勢の最前線であった「長崎奉行」に就任する。ロシアやアメリカ、イギリスなどの外国船が次々と来航し、開国を迫る緊迫した状況の中、修就は持ち前の冷徹な情報収集能力と海防の知識、そして国際感覚を駆使して、困難な外交交渉と長崎の統治を見事に処理した。
長崎奉行を退任した後は、江戸に戻り、小普請奉行や西丸留守居といった要職を歴任。幕府が崩壊へと向かうドミノ倒しのような時代の中で、崩れゆく巨大な組織をその卓越した行政手腕で文字通り下から支え続けた「最後の能吏」であった。
元治元年(1864)8月18日、激動の時代に一区切りをつけるように、69歳でお役御免となり第一線を退く。その後、世の中は大政奉還、戊辰戦争を経て明治維新へと激変する。徳川の世に命を捧げた修就であったが、新時代になってもその生命力は衰えず、明治の世を静かに生き抜いた。そして明治11年(1878)、多くの激変を見届けた末に、82歳の天寿を全うしてこの世を去った。
川村修就という男は、飴売りに化けて不義を暴いた隠密でありながら、北国の海岸に2万本の松を植えた最高の民政家であり、自ら大砲を鋳造した軍事家でもあった。彼が築いた新潟の基礎は、形を変えながらも現代の都市の礎として、今なお息づいている。

水野忠邦・阿部正弘との政治的関係

川村修就の官僚キャリアは、幕末の幕政を主導した二人の巨大な最高権力者、水野忠邦と阿部正弘の政治抗争の歴史と完全にシンクロしている。水野の「側近(懐刀)」として台頭し、その失脚後の「逆風」を圧倒的な実務能力で生き抜いた修就の政治的処世術は、当時の幕臣の中でも異彩を放っている。

水野忠邦との関係:抜擢と「懐刀」への道

修就を歴史の表舞台に引き上げたのは、天保の改革を断行した老中首座・水野忠邦である。
• 実務能力の評価と隠密指令:天保10年(1839)に水野が老中首座に就任すると、修就は同年「御裏御門切手番之頭」に昇進。水野は幕府財政の逼迫を打開するため、莫大な密貿易の利益を生んでいた長岡藩領・新潟町を天領(幕府直轄領)化する計画を秘かに進めていた。この国家機密とも言える「新潟抜荷調査」の全権を託されたのが、御庭番出身で情報収集と実務に長けた修就であった。
• 天保の改革の推進役:修就が命がけの隠密調査(飴売りへの変装など)で長岡藩の不正を暴くと、水野はこれを発動条件として新潟の上知(没収)へ動いた。この功績により、修就は天保12年(1841)に「勘定吟味役」へと抜擢される。勘定吟味役は財政の監査・監察を行う、改革の「切り込み隊長」的な要職であり、修就は名実ともに水野政権の中枢を担う「懐刀」として機能した。
修就にとって水野は、一介の御庭番筋の家柄から幕政の中枢へと引き上げてくれた「最大の恩人」であり、修就自身も水野の目指す中央集権的な財政・軍事改革を現場で体現する最たる能吏であった。

水野の失脚と新潟赴任の真相:「体よく飛ばされた」左遷劇

天保14年(1843)、水野忠邦の「天保の改革」は、江戸・大坂周辺の領地を強制的に没収しようとした「上知令」が大名や旗本の猛反発を招き、自壊する。
• 後ろ盾の消失と「新潟奉行」任命:同年6月、修就の建議通りに新潟町の上知が成立し、修就は「初代新潟奉行」に任命された。しかし、その直後の閏9月、水野は老中を罷免され失脚してしまう。修就が実際に新潟へ着任したのは10月9日であり、これは「後ろ盾を失った水野一派の粛清」という政治的現実の渦中での着任であった。
• 左遷としての側面:新設された新潟奉行は、禄高1000石・御役料1000俵、席順も佐渡奉行に次ぐという高格の重職ではあった。しかし、江戸の中枢で勘定吟味役として辣腕を振るっていた修就が、遠く離れた北国の雪深い地方都市へ赴くことは、中央政界から見れば「政敵(水野派)を体よく江戸から遠ざけるための左遷人事」に他ならなかった。

阿部正弘との関係:敵対派閥の首領による「能力の承認」

水野失脚後の幕政を掌握したのは、当時20代の若さで老中首座へと昇り詰めた有力政治家・阿部正弘である。阿部は水野の急進的な改革を否定し、協調路線をとる政治的ライバルであった。
• 異例の長期在任(約10年間):当時の奉行職は通常1〜2年で交代するのが慣例であり、水野派の残党であれば即座に罷免、あるいはさらに不遇な役職へ更迭されるのが普通であった。しかし、修就は阿部正弘政権下において、10年近くも新潟奉行の地位に留まり続けた。
• 能力重視のサバイバル:阿部正弘は「挙国一致」を掲げ、派閥を問わず有能な人材を登用・重用する現実主義的な政治家であった。修就が新潟で成し遂げた「防砂林の植林」「税制改革」「消防・防衛体制の確立」といった圧倒的な治績は、江戸の中枢にも明確に届いていた。阿部は、修就が「水野の手先」であることを認識しつつも、「これほどの実務能力を持つ官僚を罷免するのは国益の損失である」と判断した。
結果として、修就は阿部正弘からその手腕を高く認められ、嘉永3年(1850)には対馬守を受領。さらに嘉永5年(1852)には、阿部政権の重要拠点である堺奉行、大坂町奉行、そして開国期の最前線である長崎奉行へと、さらなる栄転を重ねていくことになる。

総括:権力に媚びず、実務で生き抜いた孤高の官僚

川村修就の生涯における水野・阿部との関係は、彼が単なる政治的立ち回りの上手い世渡り上手ではなく、「誰が権力を握ろうとも、現場の仕事で圧倒的な結果を出して自らの存在価値を証明する」という、近代的なプロフェッショナル官僚の先駆けであったことを示している。
水野忠邦という苛烈な改革者によって見出された能力は、阿部正弘という柔軟な調整者によって「国家の財産」として保護され、幕末という激動の時代を支える大きな力となったのである。

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)の展示内容

新潟市中央区の信濃川沿いに位置する新潟市歴史博物館「みなとぴあ」は、「郷土のあゆみと水」を基本テーマに掲げる博物館である。
初代新潟奉行を務めた川村修就の関係資料(新潟県指定文化財)をはじめ、水と共に生きてきた新潟の歴史をジオラマや実物資料で多角的に紹介している。主要な展示内容は以下の通りである。

初代新潟奉行・川村修就の関係展示

修就の子孫から寄贈された膨大な「川村家資料」を中心に、彼の功績や幕末の新潟の様子を伝える資料が常設展示および企画展で公開されている。
  • • 川村修就の甲冑:「勝色」と呼ばれる戦に縁起の良い濃紺の鎧。兜の左右には川村家の家紋である「丸に九枚笹」があしらわれ、初代奉行の威風を今に伝えている。
  • • 御庭番の隠密道具:帯刀できない潜入任務(変装時)の際に携帯したとされる、護身用の特殊な隠密武器などが展示されている。
  • • 建築・防衛図面:修就が自ら図面を引いた大砲の模型のほか、彼が整備を指揮した「新潟御備場(砲台)」の完成図面や、修就の役宅(奉行所)の設計図などが公開されている。
  • • 緻密な日記・調査報告書:長岡藩の密貿易を暴いた際の調査報告書の控えや、彼の几帳面さを物語る一文字の乱れもない膨大な公務日記が並ぶ。
  • • 歴代奉行の関連資料:修就の資料のみならず、二代奉行・関行篤や、三代奉行・小栗忠高(幕末の天才・小栗上野介忠順の父)などの公務日記や関係史料も合わせて展示され、幕末の新潟統治の変遷を辿ることができる。

  • 川村修就の没後 年が経過しました。



  • 🔶⦅墓所⦆
    正受院
    〔所在地〕 東京都新宿区新宿2‐15‐20
  • 🔶川村修就の下屋敷
    現在は料亭大橋屋本館となっている。
    〔所在地〕 新潟市中央区本町通1813



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漆黒に駆ける 御庭番闇日記(ニ)

漆黒に駆ける 御庭番闇日記(ニ)

  • 作者:誉田龍一
  • 出版社:双葉社
  • 発売日: 2019年03月14日頃

御庭番秘聞

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  • 作者:小松重男
  • 出版社:廣済堂出版
  • 発売日: 2003年02月







ドン山 川村修就像