六万騎山 Mt.Rokumanki 南魚沼市
戦国時代の山城跡で、上田長尾氏の居城坂戸城の出城としての役割を果たしていた。 「麓」の交差点を右折して、すぐに地蔵堂の駐車場がある。石段を登り、地蔵堂の社から登山道となる。 駐車場にある大きな石には、「やさぶろうばさの腰かけ石」伝説が残されている。 登山道は、城跡の曲輪を次々に登ってゆき、曲輪であった跡はちょっとした広場となっていて、ベンチなどが置かれている。 戦国時代の堅固な山城の様子が曲輪・土塁・空堀などの遺構から昔日の様子が偲ばれる所ともなっている。 登り始めて30分ほどで、山頂の「詰めの丸」となり、「六万騎城跡」の石碑が立てられている広場に出る。 眺望はよく、南は指呼の間に坂戸山、その奥に金城山、残雪を大きく残す巻機山と続き、南西は遠く三国山脈がかすむ。眼下には魚沼の盆地が一望される。 山全体がカタクリ群生地となっており、1周1時間、春~秋を通して気軽にトレッキングを楽しめる山として人気がある。特に山頂付近の群生は素晴しい。 六万騎城六万騎城は、霊峰八海山から派生する尾根筋が魚野川べりに至る突端に位置した半独立峰、六万騎山(標高三二一m・比高一八〇m)の山頂一帯(延長約400m)築かれた長峰式の城郭である。山頂から南に至る尾根筋には、空堀や曲輪が所々に築かれ防備を厳にしている。 築城は南北朝時代といわれており、上田長尾氏の坂戸城時代の重要な拠点であり、魚野川舟運を監視しやすい立地から、航行警備の役割も担っていた。 城主は福島大炊督某と伝わっているが、上杉古文書には上杉景勝の家臣、水沢彦右衛門の在城記録も残っている。 山の名前は、当時六万寺(ろくまんじ)と呼称されたが(上杉古文書・穴沢古文書)江戸時代に六万騎と改称された。 慶長三年(一五九八)上杉景勝の会津への移封により廃城となった。 現在は一周約一時間のトレッキングコースがあり、山全体がカタクリの群生地となっています。 地蔵尊御丈二尺五寸一分の本尊子安延命地蔵尊は、弘法大師の作と伝えられる。往古の事は不明だが、六万騎城主福島大炊督公一党の厚い崇敬を受けた。公の長森ヶ原の合戦中、御像は所在不明となったが、後年天神杉の叢から発見され崇福寺(現真浄寺)の本尊として祀られ船窪の地を経て享保年間に現在地に移された。今の総檜造りの堂は弘化年間の建立、安産延命の仏として近郷は勿論関東方面からも参詣者が絶えない。大祭は三月と八月の二十四日である。別当 船丘真浄寺 「弥三郎婆さ腰掛岩の由来」昔大崎村の某家に今から三百三十年ほど前、一人の老婆があった。十二月の寒い晩、この婆さんが生まれて間もない孫の弥三郎を抱いて子守をしていたところが、余の可愛さあまってついに食べてしまった。 人の肉を食ったため、たちまちのうちに面相も変わり鬼となって窓から風に乗って弥彦へ飛んだと言う。 しかし元々心優しい人であり、自分のした事を深く悔いその罪の恐ろしさに心休まる時として無く、悩みぬいたすえ仏門に帰依し世の中の不幸を救わんと心定め菩提寺である真浄寺に行き悔い改め安堵の信心を頂きそのお礼に万年蝋燭と豆柄の太鼓外品々を寄進して嵐に乗って飛び立ったという。万年蝋燭とはいくら燈しても少し残しておけば翌日は元通りになっているという蝋燭。豆柄の太鼓とはこの婆さんでなければ音がでないといういずれも婆さんの行を重ねた念力によるものだという。 十二月八日はお寺の常例の行及び坐禅を行う日でもありその後は十二月八日になるとお礼ながら行にお寺に来たというが元禄四年十二月八日、真浄寺の火災の折り、婆さんが居合わせたため、寄進の品は持ち去ったという。 本岩は弥三郎婆さの通る時に腰をかけて休んだ岩と昔から伝えられているが五城土改で区画整理のとき旧道の麓・水尾関の大平腰道端の現在地より約200mほど北方にあったものを現地に移したものである。 一説にはその後婆さんは世のために尽くし後の世に妙多羅天として彌彦に祭られたという。 往時は子どもが悪さをしたり長泣きをすると弥三郎婆さが連れて行くぞとおどかしたりするのが広く一般に行われていた。 この土地では十二月の大嵐を弥三郎婆さが子どもを食べに嵐に乗って去った時の吹き荒れにちなんで「八日吹き」と言う。 ![]() |