「話」

 私たちは声帯を震わせて発生させた単純な音を、唇と舌を用いて口中で様々に変化させることによって言葉を話します。言葉は舌を使って話すのです。「舌先三寸」とか、「よく回る舌」とか、「舌の根も乾かぬうちに」などという慣用句があるところを見ると、舌は話すためのものであると認識されているようですが、犬や猫や牛にだって立派な舌がついているにもかかわらず、人間のようには言葉を話しません。ということは、そもそも舌は、物を食べるためにあると考えてよさそうです。口中に入ってきた物の味を感じて、食べてもよいと瞬時に判断すれば、口の中で盛んに食べ物の向きを変えて咀嚼を助け、喉へ送り込むのは舌の仕事です。バナナを噛み切る時は上下の前歯を使いますが、つるつるっと啜った麺類は、上の歯と舌とでちぎっているように思います。本来食べるための器官であるはずの舌を、人間だけが言葉を作る器官にまで進化させたのですね。

 そう言えば、いつだったか学生たちにお遊びで、紙に書かれた内容を犬や猫になったつもりで飼い主に伝えなさいという課題を与えたことがありましたが、あの時は愉快でした。「ウ~」とか「ク~ワンワン」とか「ゴロニャ~ン」とか、みんな真剣に工夫をするのですが、「おなかが空いた」という内容一つ満足に伝えることができないのです。課題を終えた学生たちの感想は一様に、

「ワンとかニャ~しか話せない犬や猫は、さぞストレスが溜まるでしょうね」

 でした。

 そう考えると、

「おい、そこの新聞取ってくれ」

 と言って新聞が届くのは奇跡です。

「ごめんごめん、悪かったな」

 で許してもらえるのも奇跡です。

 同様の機能を持つロボットを開発しようとすれば、とんでもない費用がかかることでしょう。それを易々とやってのける能力を身につけて、我々は「話す」という奇跡を、案外ぞんざいに扱っているのではないかと思うのです。

「ご連絡、ありがとうございました。早速録画して今朝見ましたが、あの番組は大変参考になりました」

 と報告があれば、良い番組はまた紹介しようと思いますが、遠慮なのか、気がつかないのか、何の反応もないと、余計なことをしたのかな…と、それから先の紹介をためらってしまいます。

「遅れて申し訳ありませんでした。途中で事故渋滞がありまして、ご迷惑をおかけました」

 と謝れば、

「それは大変だったね、ま、君が事故を起こしたんじゃなくて何よりでした」

 と反応しながらこちらの心はバランスを保ちますが、黙って帰ってしまわれると、失敬なやつだという小さなトゲがチクッと心に刺さります。自分が乗ったエレベーターに駆け寄る知人を認めながら、閉まるドアを止められなかったような場合でも、

「さっきはボタンが間に合わなくて悪かったね」

 の一言を言いそびれれば、冷たいやつだという印象は相手の心にくすぶり続けます。ましてや、小耳に挟んだ程度の話に尾ひれをつけて、

「あいつ、お前のこと悪く言ってるそうだから気をつけろよ」

 などと囁く人の舌は、言葉ではなく、毒ガス製造機になり下がったのでしょう。

 過ぎず、惜しまず、飾らずに…。

 話しをする時に心すべきはこの三つであることに、人生も半ばを過ぎてからようやく気がつきました。こうして書いたものも、表現が過ぎたり、不足したり、飾り過ぎたりしてはいないかと読み返してみるのですが、これがまた、体臭と同じで、自分ではなかなか気づくことができないものでもあるのです。