「飼」

 生き物を飼うということは、食をつかさどる、つまり、食べ物を管理することなのですね。『オチイガ シニマシタ ワタシガ エサ ワスレタカラデス ゴメナサイ』文字の書けない祖母が、当時大阪で下宿していた大学生の私に書いてよこした手紙には、高校時代から実家で飼っていた足の不自由なホオジロの羽が一枚、粘着テープで貼り付けられていたというエピソードは、先の忙中漢話でもご紹介しましたが、食べ物を管理するということは、命を管理することでもあるのです。

 命を管理されているのですから、犬も猫も鳥も魚も、食べ物を与える人間には警戒を解き、やがては信頼を抱くようです。野生のトンビでさえ、餌付けをすれば、その人の姿を発見するなり、餌が投げられるのを待って上空に輪を描きますし、鯉は池のほとりで手を打つだけで次々と集まって来て口を開けます。鳩はもっと図々しくて、手に持っているポップコーンを早くよこせと足下で催促しますし、水族館ではイルカやオットセイが、サーカスではライオンや熊が、食べ物欲しさに芸をして観客を喜ばせます。信頼から支配まで、食べ物を与える側が持つ力は絶大であると言わなくてはなりません。

 人間もしょせんは生き物ですから、食べ物と一緒に伝わってくる印象には、無防備に心を開きます。

「そんな聞き分けのないやつは、ここに入ってろ!」

 と閉じこめられた暗い物置にすうっと光が射して、

「おなかが空いたろ?お父さんの機嫌が直ったら呼びに来るから、ちゃんと謝るんだよ」

 おにぎりを運んでくれた母親のやさしさは、大人になっても忘れません。

「はい、おでん五色盛り、お待ちどうさま」

 大きな声で皿を差し出しながら。

「ちくわ、一つおまけしとくわね」

 と囁いて、

「お仕事、一日、ご苦労さまでした。嫌なことはみ~んなここに置いて行って下さいな。うちに帰ったら帰ったで、タバコはベランダで吸えとか、娘より先に風呂に入るなとか、日本のお父さんは大変なんですから」

 などとやさしくビールを注がれると、背広姿の中間管理職は、目の前の割烹着のオカミさんを“お母ちゃん”と呼んだりして、簡単に常連リストに加わります。

 出張から帰ったエリート営業マンは、

「いやあ、京都の暑さも半端じゃなかったですよ」

 一箱千円もしない八つ橋か何かを経理の女の子に人目につかないように渡すだけで、必要経費の手続きは驚くほどスムーズになることを知っています。

 暴力に訴えなくても、食は強力な力を発揮するのです。

 その食が便利になりました。

 デパートの地下へ下りれば、わが国のどこにこれだけの食材を生産し調理する場所があるのかと、不思議な気分になるほどの量と種類のお惣菜が並んでいます。なま物、煮物、焼き物、揚げ物は言うに及ばず、漬物やサラダ、千切り、微塵切りにした野菜までが小ぎれいなパック詰めにされて売られています。共働きの夫婦と子供だけが暮らす核家族は、調理する時間的ゆとりがありません。一方、年金暮らしの夫婦が暮らす高齢者世帯では、家で調理しようと買い込んだ食材は多すぎて、毎日同じようなメニューになってしまいます。そこで安直に調理済みのお惣菜を買うのです。

 デパ地下のレジの風景です。

 並んで支払いを待っている老夫婦の妻が、カゴの中のイクラの瓶詰めを夫の胸に押し付けました。夫は不満げにそれをカゴに戻そうとしますが、妻の恐い顔に阻まれてすごすごと棚に戻しに行く時、後ろに並ぶ私とすれ違いました。食をこういう形で管理すれば、生まれるのは信頼ではなくて支配です。すれ違う夫の目には、悲しみとも怒りともつかない複雑な感情の色が燃えていました。