「恩」

 「因」は、原因とか因縁という熟語を作ることから分かるように、何かの「もと」であり、ことの「起こり」を意味しています。「もと」や「起こり」に思いを馳せる「心」を「恩」と言うのだと考えると、この文字は大変わかり易いですね。

 私が今ここにこうして存在していることの元をたどれば、父母になりますから、恩はまず両親への感謝から始まります。両親の元にも両親、そのまた元にも両親・・・とたどって行けば、存在についての恩は、アメーバーのような原初的な命の発生にまで遡らなくてはなりません。さらに、命をつなぐために取り入れた他の命、すなわち食べ物となると、動植物から魚貝まで、捕獲、飼育、採集、栽培、加工、調理した人まで含めれば、恩の対象は膨大な範囲に及びます。しかも食物連鎖の出発点である植物は、水と太陽に育まれ、その過程で地球上に酸素の放出があったわけですから、日本人がつい最近まで朝日に手を合わせ、湧き水に小さな祠を祭る習慣を持っていたことも頷けます。

 一方、存在に関する恩ではなくて、事柄の顛末についての恩ということになると、吉凶表裏して一定の時間の経過を経てみないと果たして恩なのか仇なのか判別がつきません。

 両親に一泊旅行のクーポン券をプレゼントした孝行息子は、若い頃、悪い仲間に加わって散々苦労をかけたにもかかわらず、いつだって味方でいてくれた恩を、ほんの少しだけ返したつもりでいました。両親は両親で、思いがけない息子の優しさに感謝しながら、温泉旅館の豪華な夕食を楽しみました。全ては「恩」を巡って心温まる顛末を迎えているように見えました。ですから、少しばかりのアルコールで足をとられた父親が、露天風呂の岩で頭を打って死亡したという連絡を母親から聞いた時、息子は目の前が真っ暗になりました。

「俺があんな旅行券さえ送らなければ、おやじは今日も好きな碁を打っていられたのに」

 泣き崩れる息子に周囲はかける言葉もありませんでした。

 恩は仇になることがあるのです。

 遅刻、欠席が目立つAという学生には親しい友人もいませんでした。二十歳を過ぎた大人が昼間働いて夜通う専門学校ですから、何か仕事の事情でもあるのだろうとしばらくは静観していましたが、欠席が続いてこのままでは卒業が危うくなることを憂慮した教員がAに電話をすると、

「ご心配かけて済みません。いえ、色々あって、ちょっと精神的に参っていましたが、Bくんが毎日学校に行く前に家に寄ってくれまして、はい、資料も前日分を届けてくれています。心配してくれる人がいるんだと思うと、こんなことしていられないと思って、はい、もう大丈夫です。明日からまた通います」

 Aくんと特別親しくしていた訳でもないBくんが、さりげなくそんな親切をしていたのでした。

「へえ~、いるかいないか分かんないBくんに、そんな一面があったんだ」

「いやあ、見直しましたよ。人ってわかんないものですね」

 一旦は気を取り直して登校したAくんでしたが、再び挫折して、残念ながら卒業は果たせませんでした。しかし、Bくんの評価は一変しました。そこへ誰かいい人材を紹介してくれないかという求人依頼が舞い込みました。

「印象は地味ですが、人柄は保証します」

 教員の推薦で就職を果たしたBくんの顛末の元をたどれば、もちろんBくん自身の生き方が評価された訳ですが、それを表現する舞台を提供したのは、間違いなくAくんの挫折だったということになります。

 思いもよらない形で運を切り開いてくれる恩もあるのですね。そういう私自身も、無理解な上司と衝突して公務員を辞めたのが元で、天職のような教員の仕事に就いていることを考えると、彼もまた私の恩人であったと言わなくてはなりません。