「省」

 少な目と書いて「はぶく」と読みます。

「君、こんなにたくさんの資料じゃ、読めないだろう。少な目にしてくれたまえ」

 上司から命じられた担当者は、

「少な目ったって、どれも苦労して調べ上げた貴重な数字ばかりなんだけどなあ…ん?てことは、また初めに結論ありきのアリバイ会議ってわけか?社長が代わってから、こういうの増えたよなあ」

 脳裏に浮かぶ「転職」という二文字を慌てて打ち消しながら、さてどこを省こうかと空しく頭を悩ませるのでした。

 省くと言えば、小学校の四年生だったでしょうか、算数の授業で四捨五入という処理の方法を教わったときは、繰り上がる五に対して、省かれてしまう四という数字に、ささやかな悲哀を感じたことを覚えています。わずか一つの差で、四という数字の存在そのものを無かったことにしてしまう処理に伴う感情は、腕に止まった蚊を叩いて捨てるときに心をかすめるかすかな罪悪感に似ていました。大川を流れて来た段ボールの箱の中に、体を寄せ合う数匹の子猫を発見したものの、どうすることもできなくて見送ってしまったときの後味の悪さにも似ていました。省くという行為は、不要なものを切り捨てることですから、切り捨てる前に不要という判断があります。そこに不遜な残酷さが付随しているのですね。

 表彰式では時間を短縮するために二人目以降の賞状の文面は「以下同文」で済まされました。本文を省かれて賞状を受け取る側の心には、晴れがましさの片隅で、爪でひっかかれた程度の悔しさが残りました。

 紙面に限りのある新聞は極力文字数を省きますが、周到な準備をして臨んだシンポジウムの記事が、『福祉関係者らによる活発な議論が行われました』と紹介されたりすると、「ら」の一文字でひとくくりにされてしまったシンポジストたちの自尊心は、ほんの少しだけ傷つきました。

 時代劇の最後の場面では、主人公に斬られた悪代官が、伸ばした手で中空をつかみ、断末魔の様相で息絶えるのに対し、家臣たちは、刀でひと撫でされるだけであっけなく倒れて動かなくなります。劇中とはいえ、空しく省かれる父親の「死」を画面で見る大部屋俳優の子供たちの心にも、やはり微妙な悲しみがよぎることでしょう。

 堕胎に象徴されるように、省くという行為は、省く側にもそれなりの心の痛みを伴うものでしたが、現代では労働の現場でも易々と省く決断が行われるようになりました。

「ふむ…。こう景気が悪くては、生産部門が過剰だな」

 人数は君のところで適当に判断したまえ、という中枢からの命令で契約を解除される派遣社員たちは、会社にとっては省くべき「数」でしかありません。しかし、

「来週からは来なくていいから」

 と言い渡される個人は、まぎれもなく人格を備えた生活者です。恋人もいれば、譲れないプライドだってあります。家賃も必要なら、衣食にも費用がかかるのです。いくつもの会社を転々としながら、どんなにあがいても決して四捨五入の「五」にはなり得ない自分の立場に絶望した若者が、周囲の生活者を無理やり「四」に引きずり下ろすことで同列になろうとした事件が、秋葉原の無差別殺戮だったように思います。彼がレンタカーでなぎ倒し、サバイバルナイフで殺めた被害者は、あなたであっても私であっても構いませんでした。その場に居合わせたというだけの不運で、四捨五入社会の構成員として、たくさんの人が存在そのものを省かれてしまったのです。

 「省」という字は、「反省」という熟語になるときは、「かえりみる」という意味になりますね。人は自らをかえりみるに当たっても、自分の非は少な目に見積もるもののようです。

「今回の数字の単純ミスは、係長を信頼して細部のチェックを怠った私の不注意が原因でして、誠に申し訳ありませんでした。それにしても対外的な問題になる前に、経理の段階で発見できたのは幸いなことでした。二度とこのようなことのないように細心の注意を払いますので、今後ともどうかよろしくお願いします」

 経理課長に謝意を伝える営業課長は、問題が単純な数字のミスであって、責任はそれを見過ごした係長にあることを言外に匂わせています。

「たとえどんなに悔しい思いをしようとも、先に手を出した息子の態度については弁解の余地もありません。親として恥じ入るばかりです。このとおりお詫びを申し上げますので、どうか寛大なご処分をお願い申し上げます」

 校長室で深々と頭を下げるお父さんの言葉には、本当に悪いのは、息子に悔しい思いをさせた相手方ではないかという思いがにじみ出ています。

「国民の皆さんに誤解を与えたとすれば、それはひとえに私の不徳とするところでありますので、今後は信頼を回復すべく、職務を全うすることで責任を果たしていきたいと考えております」

 国会議員の反省の弁は、「誤解を与えたとすれば」という巧妙な前提に基づいています。起きている出来事はあくまでも「誤解」であると断定しているのです。誤解ですから、この段階で彼は反省の必要を感じていません。その上で誤解を「与えたとすれば」という仮定に立っています。大半の国民は誤解をしないだろうが、中に理解力が乏しくて誤解する馬鹿な国民がいたとすれば、「誤解を与えたことについてのみ」不徳とするところなのです。不徳には主体性がありません。謝るつもりなどさらさらなくて、自分には誤解されないだけの人徳がなかったと、自嘲的な評価を下しているにすぎないのです。反省の結果、今まで通り職務を行うのですから、少な目どころの騒ぎではありません。名古屋弁で平たく言えば、

「そりゃあ中には誤解した国民もおるみたゃあだけどよ、ま、これから私がやることを見て誤解を解いてちょ」

 といったところでしょうか。猛々しいものですね。

 省く…。

 年齢を経て社会的に守るべきものが増えれば増えるほど、自分の罪や欠点やミスを少な目に見積もっていはしないかと、常に省みる必要がありそうです。