「炎」

 この文字は火が二つ重なって激しく燃えているように見えます。じっと眺めていると周囲は次第に闇につつまれて、オレンジ色の炎がめらめらと天を焦がします。幼い頃、祖父に抱かれて我が家の二階から見た川向こうの病院の火事は、まるで隣家が燃えているように間近に感じて、私は祖父にしがみついて震えていました。除夜の鐘を聞きながらぶくぶくに着膨れて出かけた初詣の神社では、篝火が氏子たちの顔に厳かな陰影を作っていました。火吹竹を吹く祖母の目の前でパチパチと音を立てるかまどの上では、鉄製の大きなお釜がぶ厚い木の蓋を持ち上げて、勢いよく湯気を立てていました。心には今も様々な炎が燃えていますが、中でも印象的なのはガクランと呼ばれる非行少年の学生服が燃える炎です。

 少年院に行く一歩手前の児童を収容して更生指導を図る教護院という名称の児童福祉施設に勤務していた時代のことです。わずか半年ばかりの施設生活に耐えられないで児童たちはよく脱走しました。土地勘のない場所を金銭を持たないで逃げるのですから、脱走するとオートバイを盗み、車上を荒らし、町の中学生から金品を奪い、やがて警察に保護された時にはいくつもの犯罪を重ねているのです。施設に戻って来た児童は、犯した罪に対する審判が下るのを不安な気持ちで待つのですが、

「やったぁ!少年院じゃなかったげえ」

 と小躍りして喜ぶ姿を見る度に私は疑問を持ちました。書類審査の結果が一片の紙切れで伝えられたのでは反省にはつながりません。審判は保護者や関係者の見守る法廷で裁判官から厳かに言い渡されるべきではありませんか。担当していたKが脱走して捕まった時、私は家庭裁判所の調査官を通じて法廷での審判をお願いしましたが無理でした。ところが、

「審判は本人の更生にとって最も効果的に行うべきではありませんか」

 懸命に説得する私の言葉に調査官の心が動きました。

「裁判官は無理ですが、私が裁判官の役をするのでしたら…」

 こうして裁判所始まって以来の模擬裁判が、施設の会議室に法廷をしつらえて開催されました。傍聴席の最前列には遠方から仕事を休んでやって来たKの家族が座り、施設長以下、手の空いた職員が続きました。あなたの名前と生年月日を言って下さい…で始まる厳粛な雰囲気に、被告人席のKは極度に緊張していました。いわゆる罪状認否で逃走中に犯した罪を全て認めたKは、

「それで、あなたはこれからどうしたいと思いますか?」

 と質問されて、

「ここで、真面目に生活して立ち直りたいと思います」

 裁判官を真っ直ぐに見て答えました。

 長い沈黙がありました。

 傍聴席は全員背筋を伸ばして裁判官の唇が動くのを待ちました。

「Kの反省と更生意欲を認め、教護院での指導が相当と審判します」

 こんなにたくさんの人が君を心配しているのですから立ち直ってくださいね…という裁判官の言葉を合図に、Kの家族が一斉に駆け寄りました。Kの祖母が泣きながらKを抱きしめました。私は吼えるように泣くKの姿を初めて見ました。

「倉庫に保管してあるお前のガクラン、燃やそうか…」

 私の提案に、Kはほんの少し躊躇しましたが、力強くうなずきました。

「よし、お前の決意を学校の仲間に見せてやろう」

 これも異例なことでしたが、Kの出身校のワルたちと生徒指導の先生を招待したいという私の申し出に、双方で許可が下りました。

 施設にはゴミを埋める巨大な穴が掘ってあります。穴の底に下りたKと私を、背広姿の先生と数人の突っ張り生徒たちが見下ろしました。

 雪が降り出しました。

「みんな、オレ真面目になるって決めたから、これを燃やします」

 紫色の裏地に金文字の刺繍を施した自慢の学生服にK自身が灯油をかけて火をつけると、一瞬でびっくりするような炎が立って、穴の周囲でどよめきが起きました。Kは先の尖った白いエナメルの靴も派手なベルトも火の中に投じました。雪の中で穴を見下ろす黒い人影を、穴の底から照らすように立ち昇る鮮やかな炎は、Kの決意の燃える色だったのです。