「必」

 「必」という文字は、書き順が難しいですね。カタカナのソを書いた中央を貫いて右に大胆にはねてから左右の点を打つのです。『棒切れを伸ばすために両側から添え木を当てて締め付ける様子で、動く余地のない状態を表している』と、語源辞典にはありますが、どこが棒やら添え木やら、なるほどと膝を打つことができません。それよりは、斜めからぐいっと心に楔(くさび)を打ち込んだ様子を表していると考えた方が意味も形もすっきりと腑に落ちるように思います。だからこの文字は書き順が難しいのですね。文字の意味を形に重ね、たいていの人はまず心を書いてから斜め左に向かって大きな楔を打つのです。長々と貫かれた楔によって心はしっかりと固定され、もう動くことはできません。「必ず」と言った以上、心変わりは決して許されないのです。

 そう言えば、必ず値上がりしますよ…と囁かれて、激しく心が動いた経験があります。民営化の先鞭をつけた電電公社が、NTTという株式会社になって売り出された株は大変な値上がりをしましたが、

「今度はいよいよ日本専売公社ですよ」

 訪ねて来た証券レディは少し顔を寄せ、秘密めいた口調で言うのです。

「一株160万円で売り出されたNTT株が2ヶ月後には318万円ですよ、318万円。差し引きしてみて下さい。儲けは158万円です…ということは、1ヶ月で79万円ですから、株を持っているだけで実に一日当たり2万6千円ずつの利益が上がった計算になります。民営化される株は国策として値上がりするように操作されているというのがおおむねの専門家の見解です。なぜなら、売り出した株が値下がりするようでは、次の民営化がうまく行きませんからね。国鉄、郵便局、道路公団などなど、我が国には民営化しなければならない部門がまだまだたくさんあります。今度のJT株も既に大変な人気で、購入は抽選になりますが、当たる確率を増やすために、何人かお知り合いの名前を借りられませんか?」

「借りれます、借りられます。必ず何とかします」

 私も必ずという言葉を使いました。

 資金の出場所に関心のない四人の友人の名を借りて、見事に1株の購入権利を手に入れました。抽選に当たったという事実が幸運の兆しのように感じられました。なけなしのへそくり60数万円を証券レディに渡した私の胸は、期待に張り裂けそうでした。念願の沖縄に行こう。美味いものをたらふく食べよう。名前を借りた四人には、豪華にステーキでもご馳走してやろう。

 しかし夢は一日で費え去りました。翌日ついた値段は40万円そこそこで、さらに下がる気配です。値上がりするかも知れないという期待を抱いて一日様子を見るだけで何千円かの損になりました。こうなると小心者の決意は電光石火でした。三日目にして早々と株を手放して、結局20数万円の損が確定したのでした。

 必ず値上がりしますよ…という文脈で使用される「必」は、信用してはいけませんね。やはり「必」は、心が動かない様子、つまり決意表明の場面でこそ光を放つ言葉なのです。必ず値上がりしますと言った証券レディの「必」は決意表明ではなくて確信ですから、距離を持って聞かなくてはなりません。彼女の確信通りにならなかったからといって責めるのは筋違いです。

 必ず何とかしますと言った私の「必ず」は決意表明ですから、私は表明した通り四人の友人の名前を借りました。果たせなければ、私の実行力は応分の信用を失うことでしょう。明日は必ず晴れるよ、借りたカネは必ず返すからね、病気は必ず治るよ、いつか必ず一緒になろう…一日に生まれるたくさんの「必」に振り回されないためには、それか決意表明であるかどうかという視点で点検するのが有効であるように思います。