「星」

 太陽系に限定すれば、星は、地球も含めて、太陽、すなわちお日様を中心に公転していますから、日から生まれると書く文字の構成は理解できますね。

 夜空の星を見上げていると不思議な気持ちになります。

 見上げていると思っているのは実は見る側の主観であって、宇宙には上下の区別はありません。

 今見ている星までの距離が3光年だとすれば、私が見ているのは3年過去の光です。ひょっとすると既に消滅した星を見ている可能性だってあるのです。

 星を眺めながら、とりとめもなく思いを巡らしていると、「時間」と「空間」と「速度」がそれぞれ独立したものではなく、「存在」という真理に迫る三つの側面なのだということがぼんやりと実感できます。

 あの星の向こうにも星があり、さらに向こうにも星があって、宇宙には限りがありませんが、球体の上を進む蟻の大地に果てがないように、限界がないということは宇宙空間は閉じているということかも知れません。しかし、閉じた世界の外側に思いを馳せる不幸な知恵が、決定的なところで我々の存在を謎に突き落としてしまうのです。

 星は哲学の入り口でもありますが、身近なところでは、刑事は犯人をホシと呼びます。力士は白星を目指して稽古に励みます。角界でなくともポカをすることを黒星と表現します。一方「スター」と英語読みをしたとたんに、星はきらきらと輝いて、芸能界やスポーツ界の人気者の呼称になるのです。

 あの人は不幸な星の下に生まれた…という場合、星は運命の代名詞のように使われます。人知を超えた法則に支配されている星の運行に、人知を超えた運命を読みとろうとする欲求が占星術として体系化されて、星は運命そのものを指すようになったのでしょう。

 三十代の頃、戦争で左腕を肩の付け根から失った男性と仕事上のおつき合いがありました。復員を果たしたものの、片腕でできる仕事はおいそれと見つからず、田畑を耕しながら軍人恩給に頼る生活になりました。経済社会では腕を失ったことは間違いなくハンディでしたが、所属した傷痍軍人の団体では障害はむしろ能力であり、勲章でした。丹下差前のような風貌は、会では異彩を放ちました。足を失った傷痍軍人に比べると、機動力において格段に優れていました。やがて持ち前の知力と気力と胆力を発揮して、めきめき頭角を現した彼は、全国組織の幹部になりました。

 当時の厚生大臣の前で、

「軍人恩給の金額を上げるか腕を返すか、二つに一つだ!」

 と凄んで見せるような芝居っ気が愛されて、平行して所属した身体障害者の団体でもリーダー的存在になり、福祉事務所で勤務していた私との接点ができたのです。

 全国をとび歩いて不在がちな彼が、珍しく自宅にいるという情報を得て、急ぎの書類を届けに行くと、

「お~い、渡辺さ~ん、ここや、ここや」

 車に向かって作業着姿の彼が畑で手を振りました。

「いいお天気ですね~」

 畑の脇の細い道に車を停めて茶封筒を渡すと、受け取った反対側の腕でシャツの片袖がひらひらと風になびいていました。

 その肩袖を右手でひょいとつかんで首筋の汗を拭いながら、

「こういう時、便利なんじゃ」

 顔をくしゃくしゃにして笑ったあとで、

「戦地で腕を無くした時は、悪い星を背負ったと思ったが、考えてみるとそのお陰で面白い人生じゃったのお」

 彼は再び片袖をなびかせながら言いました。

 星は人知を超えた運命を人に運びますが、それを人知と努力で変えて行くところに人生の醍醐味があるのですね。

 爽やかな秋空が広がっていました。