同じ草を食べても馬は馬

令和02年11月17日(火)

 アプリという言葉が使われ始めた頃、聞く度にアップリケが浮かんできて困りました。アドバンテージと聞くと、今も傷口に貼る絆創膏を連想してしまいます。アルゴリズムはバイオリズムの親戚のようですし、プロキシと聞くと風呂敷が浮かぶのをどうすることもできません。インフルエンサーは一旦インフルエンザを否定してからしか本来の意味にたどり着けません。ダイバーシティーは海に潜る人たちばかりが集う町のイメージです。アーカイブスは赤い服を着た表情の悪い女性です。アセスメントは汗止め用の化粧品です。サムネイルはネイルサロンと関係がありそうです。プラットホームに至っては、ベルが鳴ってやがて列車が入って来る様子しか浮かびません。

「そこんとこ、もう少しプロミネンスしたらどう?」

 と言われて、はあ、そうですね、と曖昧に応えましたが、あとでスマホで調べて、それが強調するという意味であることを知りました。

 福祉の教科書もカタカナが溢れています。

「ウェルビーイング」「エンパワメント」「コンピテンシー」「ストレングス・パースペクティブ」「マルチ・パーソン・クライエント・システム」…いちいち説明は省きますが、小池都知事の「東京アラート」同様、「日本語で言えよ!」と叫びたくなってしまいます。

 LGBT、SII、TPP、LED、PCR、URA、HTTP、SNS、USB、URL、ISO、DHA、PDF、WEBなどなど、読解の手がかりのないアルファベットの羅列が出て来ると、理解しようとする気持がくじけてしまいます。

 文章が日本語のみを使用して表記できないとしたら、私たちの言語は未熟と言わざるを得ないのではないか…と書こうとして、全身鏡で自分の姿を見たような感覚に襲われました。私たちは日常の文章を自前の言葉で表記していると信じて疑わないでいますが、たった今記述した文章の、「文章」も「使用」も「表記」も「言語」も「未熟」も、本来の大和言葉ではなく、中国の漢字や熟語を借りた外来の言葉なのです。…ということは私たちは、飛鳥、奈良朝の昔から、外国から入って来た言葉を理解し、消化し、長い時の経過の中で、まるで自分の言葉のように使いこなして来たのです。

 言葉だけではありません。考えて見たら宗教も人権思想も民主主義も、全て外国の思想を取り入れて、極めて日本的な内容に変換して使用しています。

 仏教という釈迦の体験的思想体系は、葬儀や法事のときだけ現れて、仏壇に向かって理解不能な経典を読む僧侶の活動からは、片鱗も窺い知ることはできません。遺体は鴨川に流せと命じて自然に還ることを望んだ親鸞が生きていれば、高額な対価を得て戒名を付け、広大な霊園を営む寺院に対して、どのような感想を持つことでしょう。ケルト人の『迎え盆』であったことに思いを馳せることなく、奇抜な仮装を楽しむハロウィン騒ぎ、誰が祭られているか知ろうともせず、大挙して神前で柏手を打つ初詣の善男善女、世を挙げてケーキを買って家路を急ぐクリスマスの喧騒…。私たちは外来語同様に宗教も和風の味付けをして大らかに受け入れています。

 人権思想はどうでしょう。「人間が人間らしく生きていくために社会によって認められている権利」であるとか、「人間が生存と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利」とか、人権週間に配布されるパンフレットのような答えは思い浮かびますが、エレベーターのない歩道橋や、渡り切らないうちに点滅を始める歩行者信号が解決すべき人権問題であることに思い至りません。正規採用を望む人が、多様な労働形態という美名の下に、雇い止めを繰り返す非正規の有期雇用にしか就けないとしたら、それも人権問題だと気が付かなくてはなりません。

 民主主義となると、聖徳太子が尊べと言った『和』の呪縛から抜け出せないためか、私たちの大半は、和を乱すような議論を曖昧に避ける一方で、例えば与野党として対立するや、敵対関係のまま折り合うということを知りません。そもそも議論を尽くして折り合いをつける手続きが民主主義です。きちんと議論のできないところに民主主義は成立しません。ましてや言論の府である国会で、議事録の改竄と忖度が横行した上に、「それについてはお答えを差し控えさせて頂く」だの「法律に基づいて適切に実行としている」といった、およそ議論にもならない答弁を繰り返して恥じるところのない大臣の様子は、民主主義とは似て非なるものと言わざるを得ません。国民の耳目となるべきマスコミは、そんな為政者の態度に対する批判は「答弁を避けました」程度の紹介で済ませ、相も変わらず旅とグルメとクイズとバラエティ番組に明け暮れています。『モリカケサクラ』も、既に上映期間を過ぎた映画のように倉庫に入ったまま表舞台には出て来なくなりました。それでも国民の間にデモや暴動の起きる気配もありません。

 明治まで使われていた『和魂漢才』は『和魂洋才』になり、福沢諭吉は『脱亜入欧』を唱えました。私たちは昔から、優れた海外の文明を取り入れて和風に変換して使いこなすことに長けた民族なのです。律令制度も、儒教も、産業革命も、富国強兵も、帝国主義も、資本主義も、防衛体制も、私たちは日本人の身の丈や心情に合ったサイズやデザインに仕立て直し、すっかり普段着として着こなしてしまいました。同じ牧草を食べても馬は決して牛にはならないように、どんなに外国の言葉や思想を取り入れても、私たちは日本人の遺伝子からは逃れようもないのです。

「何?クラスターだ?お前は外国人か。日本人なら集団感染と言え、集団感染と!」

 これまで私には、そうやって目くじらを立てる傾向がありましたが、この文章を書いたのを境に不思議と腹が立たなくなりました。クラスターと言えば、集団感染と言うよりは、何となく先進的で最先端の感染症と戦っているような気分になります。『秋物おしゃれ小物の勢揃い』と言うよりは、『オータムシーズンのファッショングッズがラインナップ』と言った方が素敵な商品が並んでいるような気がするのです。外国から入って来るものの方が進んでいるように感じるのは、海に囲まれた国土が育んだ特異な感性なのでしょうが、進んだ文物を運んで来るのは常に欧米であって、アジアではない点が気がかりです。そこには脱亜入欧という言葉に込められているような、劣等意識と優越意識が表裏を成す不合理な感情がありそうです。そしてその感情は早期に退治しておかないと、近い将来、大変困った結果を招いてしまうような危惧を感じているのです。