西の言葉、東の言葉

令和02年11月24日(火)

 関西の言葉はいいなぁという話をします。

 その日は喘息の調子がいまひとつ良くなかったので、目的の会場までは歩いて歩けない距離ではありませんでしたが、大事を取ってタクシーを使いました。

 喘息はアレルギーです。

 過剰な免疫を獲得した気管支が、わずかな刺激にも反応して粘液を分泌し、それを排出しようとして咳をすると、咳が新たな刺激になってさらに咳が重なり、ひどいときには気管支が腫れ上がって呼吸困難に陥ります。幸い、副作用の少ない吸引タイプのステロイド剤が出たおかげで気管支の免疫を抑え、大きな発作はなくなりましたが、常に慢性的な息苦しさを抱えた状態で、気管支を刺激しないように穏やかに生活しています。

 ところが、新幹線、駅の構内、タクシーの車内…と目まぐるしく変化する気温と気圧を、私の気管支は異物と判断したのでしょう。タクシーに乗ってしばらくしたところでコホンと一つ小さな咳が出ました。咄嗟に、まずい…と思いましたが、例によって咳が咳を呼びました。二つ三つ続けて咳き込みながら、ふと視線を感じて見上げたルームミラーの中で、高齢の運転手さんの困惑した目と出会いました。

 その瞬間です。

「お客さん?」

 運転手さんがハンドルを握ったままで話しかけました。

「えらい咳いてまんなあ、コロナちゃいまっか?いや、かなんなあ…タクシーは、お客さん、密室でっせ。感染したら、仕事、ワヤでんがな。そうでっしゃろ?…降りて?なぁ、料金要らへんさかい、ここで降りて?」

 私は慌てて、

「コロナじゃありませんよ、運転手さん、安心して下さい。これ、喘息です。絶対に移りません」

「喘息でっか、いやあ、コロナかと思うて、びっくりしました。喘息は大変でんなあ…いえ、私らも色んなお客さん乗せまっしゃろ?感染予防には神経使うてまんねん。ほんま、移ったら、自分だけやない、色んな人に迷惑かけまっさかいな。堪忍しとくれやっしゃ、悪気やおまへんさかい」

 言い終わらぬうちに目的地に着きましたが、堪忍どころか運転手さんの大変な日常と苦労を垣間見た感じがして、むしろ楽しい記憶になりました。

 しかし、これが標準語だったらどうでしょう。

「ちょっと、あなた、ひどい咳ですね、まさかコロナじゃないでしょうね?いや、困りますよ、タクシーは密室ですからね、感染したら、私、仕事を休まなくてはなりません。降りてくれますか?料金は結構ですから、ここで降りて下さい」

 と言われれば、

「何言ってるんですか、この咳は喘息ですよ。喘息だから歩くのが大変でタクシーを使ってるんじゃないですか。咳をしたからって、乗車拒否をするのですか?あなたの名前もタクシー会社も分かっていますからね。通報させてもらいますが、構いませんね」

 気色ばんで携帯電話を取り出しそうです。

 旅客自動車運送事業運輸規則と道路運送法によって、タクシーが乗車拒否できる場面は限定されています。もちろん一旦乗せて目的地に向かう途中で、二つ三つ咳をしたぐらいで乗客に降りろとは言えません。通報をすれば穏やかではない展開が予想されるはずの事態が、関西の言葉だとどうして不愉快な印象を残さないで回避できるのでしょうか?

 友人からも同様の経験を聞きました。

 大阪の駅でエスカレーターに乗っていると、後ろから声をかけられたのだそうです。

「にいちゃん、にいちゃん、あんた、よその人でっしゃろ?関西ではエスカレーターは右に寄るんが常識でんねん。覚えとかんと人に迷惑かけまっせえ」

 慌てて右側に寄った友人の左側を、ほな、と言って、声をかけた男性が抜いて行きましたが、やはり全く悪い気はしなかったそうです。

 関西の言葉は不思議な言語です。

 タクシーの運転手の「お客さん?」も、エスカレーターの男性の「にいちゃん、にいちゃん」も、話しかけられた時点から話し手との距離が近いのです。本来ならドアの外でインターホンを鳴らすべき段階で、話し手は既に家の中に侵入し、自分の傍らで、しかも、かなりラフな服装で話し始めています。いきなり普段着で入って来られては、こちらも慌ててスーツを着る訳には行きません。勢い普段着同士で屈託のない会話が弾み、それが心地よいのです。警戒心という、他人に向けて閉ざされたドアを軽々とすり抜けて、本音で話し始める関西の言葉の気安さが、いったいどうやって形成されたのだろうと思いを巡らせて、東京と大阪の歴史的な役割の違いに思い当たりました。

 東京…つまり江戸は将軍を頂点とする政治の中心であり、大阪は米や物資を全国に配る経済の中心でした。統治を目的とする武士という職業集団に群がって成立した江戸の人々の生活は、常に士農工商の身分の別を意識した秩序ある言語によって営まれたのに対し、商人階級ばかりが暮らす大阪の言葉は、スムーズな商談の成立を意識した親密さを表現するものになりました。言語である以上、両者とも情報を伝える手段であることに違いはないのですが、人々が暮らす社会の性格が、情報と共に伝達する気分を別々の方向に発達させたのです。言葉は道具ですから、どちらの言葉を用いるかによって効果が違って来ます。対人的な秩序や節度を維持しながら、論理的な会話を展開する場面では東京の言葉が効果的でしょうが、立場を超えて親密な雰囲気の中で会話を展開しようとすれば、大阪の言葉が効果的です。セクハラだ、パワハラだと、秩序にやかましい世の中だからこそ、最近は関西の言葉を操る芸人の露出度が高いのかも知れません。