創作落語「ミンクのコート」

平成23年05月04日

 先日、日曜日に電車に乗りましたら、さわやかウォーキングって言うんですか、JR主催のみんなで歩こうという催しに参加されるんですね、初老のご夫婦がスポーティーな服装で並んで座っていらっしゃいましたが、これが全く会話がありません。もう、蝋人形のように、見事に無表情に車窓を眺めていらっしゃるんです。何なんだろうな夫婦って、こんなふうにしてまで一緒に出かける意味があるんだろうか…と思っていると、別の座席では、同じくらいの年格好の男女がそれは楽しそうにおしゃべりをしています。

「ほら、あの雲、可愛い犬に見えないこと?」

「いや、ぼくにはネコに見えるけどなあ」

 って、どうでもいい話なのですが、仲のいい夫婦というものは、たわいのないことでも楽しい話題になるのですね。私もそういう状況から遠ざかってもう何年にもなりますから、お二人の年齢を考えると、へえ、こんな年になっても恋人同士のようにいられるものなんだ…と、目の覚めるような思いが致しました。夫が噛み終えたガムを妻が自分のと一緒にさりげなく銀紙に包んでバッグにしまったりしましてね。蝋人形の夫婦と見比べて、夫婦も色々だな、とほほえましく眺めていると、二人はお互いを別々の苗字で呼んでいるんですね。

 ものすごく納得致しました。

 そもそも夫婦という人間関係には無理がありますよね。仕事で集まった人間たちは共通の目的を持っている訳ですから、対立が生じても努力の方向は一致していますし、折り合いがつかなければ会議も開かれます。どうにもならなくなれば上司の命令という形で決着がつきますが、夫婦は仕事ではなくて生活を共にする関係ですからね。子育てという共同作業を終えてしまうと、それから先は大変です。価値観っていうんですか、生活はお互いの考え方や暮らしぶりがぶつかり合う場ですから、毎日が小さな戦いの連続です。

 妻は赤味噌が好きで、夫が白味噌の好きだったりすると、一日はたいてい夫の小さな我慢からスタートします。

 夫はスポーツが好きで、妻がドラマが好きな場合は、チャンネルの主導権を巡って子供のような争いが展開します。

「このドラマ、私が毎週楽しみに観てるの知ってて平気で野球に変えるんだから、あなたには愛ってものが感じられないわ」

 と、こうなると夫婦にとって「愛」はテレビのチャンネルなのですね。

 ニワトリのように早く目を覚まして、腹が減った腹が減ったとわめく高血圧の夫と、冬眠した熊みたいに昼近くまで寝ていられる低血圧の妻が迎える朝を想像すると胸がつぶれます。

 総入れ歯寸前の歯周病の夫と、サメのように丈夫な歯を持つジョーズのような妻などは、三食を共にする様子を想像するだけで目頭が熱くなります。

 そこまでいかなくても、食べるという行為は生活の基本ですから小さな諍いの連続ですね。

「今夜何食べたい?」

 って聞かれて、

「バカ野郎、朝飯食べたばかりで夜食べたいものなんか思いつくか、それを考えるのがお前の仕事だろう」

 って怒鳴って家を出て、昼にカレーを食べて帰って来ると、玄関からプ~ンとカレーのにおいがしたりしましてね。

「何でおれが昼にカレー食べた晩にカレー作るんだよ」

 こっそりどこかで見ていて、陰湿ないじめをしてるんじゃないかなんて思いますが、こういうところは悲しいほど似てたりするんですよね、長年連れ添った夫婦って。

 ものの言いようでもカチンと来ることがありますよ。

 出がけに、

「雨、降るかなあ…」

 と、空を仰ぐ夫に、

「さあ、今は降っていないみたいね」

 と妻が答えると、

「バカ、今降ってないぐらいのことはおれにだって分かるわ、傘を持っていくかどうか迷ってるんじゃないか」

「バカって何よ、ただの専業主婦に午後の天気を聞くあなたの方がバカよ。そんなことが分かるくらいなら気象庁に勤めてるわよ」

 なんてね。正しいのは妻ですが、言われた夫は一日気分がすぐれません。

 何しろ夫婦というのは接点の多い関係ですから摩擦が多いのはある意味当然なのですが、寄るとさわると火花が散っているうちはまだよくて、やがて口も利かなくなって、蝋人形のような顔でさわやかウォーキングに出かけてゆくようになると、いよいよ子供たちが心配するようになって…

「お前たち、いい加減にしないといけないぞ。夏ちゃんが思いあまって私んところへ相談に来たじゃないか、もう半年も口を利かないというのは本当か?親が子供に心配かけてどうするんだ。え?」

「…」

「あんなに仲のいい夫婦だっただろ?いったい何が原因なんだ、え?達夫」

「こ、こいつが急に何にもしゃべらなくなったんですよ…」

「おや、原因は則子さんかい」

「いえ、私は別に、この人が不機嫌だから…」

「ということは、つまり、これといった理由はないんだな?いや、夫婦というのは原因もなく嫌~な関係になる時がある。それくらいのことは私だって経験しているからわかる。子供が独立して、夫が定年になって、二人で鼻をつきあわせて暮らすようになると、どんな夫婦にだって一度や二度はそういう時期が来るもんだ。しかし、そこを乗り越えてこそ、いい夫婦になれる。禅宗の坊さんが修行してる訳じゃないんだから、無言で半年ってのは穏やかじゃないぞ。いいか、人間なんて、おはようと言ったら、おはようと返してくれる人が身近にいてこそ生きていけるもんだ。それとも何か?お前たち、別れたいのか?え?それならそれで、はっきりした方がいい。日本も高齢社会だ。お前たちもこれから先、まだまだ長い人生を生きていかなくてはならない。ただ戸籍上夫婦というだけで、口も利かないようなつまらない生活を続けるくらいなら、いっそ区切りをつけて、新しい人を見つけた方がいい」

 どうだ、別れるのか、やり直すのか、分かれるのならうなずいて見せろと言われても、二人はにわかに首を縦に振る訳には行きません。かといって横にも振れないんですよね。

「ああ、分かった分かった。心を決めかねているんだな。それなら一つ提案がある。いや、実は私が仲人をした別の夫婦がな、お前たちと同じように不仲になったんだ。口を利かないどころか、お互いの座布団に画鋲を仕掛けたり、コーヒーにこっそり塩を入れたり、靴の中におはぎを入れたりしたと聞いてるから、まあかなり幼稚なところがあるようだけど、仲の悪さはお前たち以上だったんだろう。そこで心配した子供たちが勧めて、ある霊能者にお祓いをしてもらったら、これが嘘のように元の仲に戻ったと言うんだよ。いや、お祓いだの霊能者だの、何を胡散臭いことを…と、お前たちがそう思ってるのは分かる。私も結果を聞くまではそう思ってた。だけど世の中には人知を超えた不思議な力があるもんだ。ダメでもともとじゃないか。お前たちもだまされたと思って一度その霊能者に観てもらえ」

 既に予約は取ってあるとまで仲人に言われては、さすがに断る訳には行きません。

 夫婦が半信半疑で訪ねて参りますと、そこは古ぼけたごく普通の民家です。猛犬注意という貼り紙を警戒しながらチャイムを鳴らすと、キャン、キャンって、チワワが何かの吠える声がして玄関の引き戸が開きます。

「これはこれは、お待ちしておりました」

 現れたのは年齢が七十前後の背の低い白髪の男です。正面に立派な神棚をしつらえた六畳の座敷に二人を通した男は、ひとわたり事情を聞くと、普段着の上にお遍路が身につけるような白い上っ張りを羽織って、にわかに霊能者の口調になりました。

「それでは、観ましょう」

 霊能者は神棚の前で体を二つ折りにして深々と礼拝しました。夫婦も後ろで同じようにひれ伏すしかありません。もういいだろうと思って顔を上げると、霊能者はまだひれ伏しています。もういいだろうと思って顔を上げると、まだひれ伏しています。ひょっとすると寝ているんじゃないかと思って、声をかけようとしたとたん、ゆっくりと姿勢を直した霊能者は、ああしているうちに精神の統一を図っていたのでしょう。別人のように厳しい表情になって、

「ノーマクサンマンダ センダンマーカロシャーダ ソワタヤウンタラタカンマン」

 低い声で一心不乱に呪文を唱えては、えい!えい!と九字を切っていましたが、しばらく瞑想してから重々しくこう告げました。

「家の狭い場所で動物の死骸が忘れ去られております。全てはそれが障りとなって生じていることでありますから、すぐに探し出して持って来るように」

 そこで夫婦は早速手分けして縁の下から天井裏まで探しましたが、どんなに探してもネズミの死骸一つ見つかりません。

「ねえ、ひょっとしてこれも動物の死骸かしらねえ?」

 探しあぐねて妻が抱えて来たのは、つやつやとしたミンクのコートでした。

「これはお前・・・」

「そう、覚えてる?昔、あんたと夏子が大喧嘩をした、あの時のコートよ」

「思い出した。確か六十万円したんだったよな」

「お金持ちのお客さんの中古品だから本当なら百二十万の品物が半額になったんだって夏子は得意がるし、客がアルバイトの店員に自分の古着を売りつけるような店は今すぐ辞めてしまえってあんたは怒鳴り散らすし、あの時は二人とも手がつけられなかったわよ」

「何だ、結局あいつ、着てないのか」

「自分には似合わないからって、長いこと押入の隅にほったらかしよ」

「いい加減なやつだ、確か、バイトで貯めたカネ、全部はたいたんじやなかったか?」

「本当は、あんたに逆らって無茶をしてみたかったんだと思うわよ」

「おれに逆らって無茶をって、それ、どういう意味だ」

「男のくせに、こまかくて頭ごなしだもの。周りはみんな息が詰まってると思う」

「こまかいって、どういうことだ」

「こまかいじゃない、気がついてないの?例えば半年前、私が買って来たシャンプーのレシートと折り込み広告を見比べて、駅前の店の方が13円も安いって言ったでしょう?あらそうかしらって聞き流したけど、言われた方はたまらないわよ」

「半年前って、お前、そんなことが原因で口を利かなくなったのか!」

「やっぱり気がついてなかったんだ。気がついて謝るまで口利いてやらないと思っていたけど、私が間違っていたわ。あなたはそうやって知らないうちにたくさんの人を傷つけているのよ」

「だったらさっき叔父さんに原因を聞かれた時にそう言えばよかっただろうが」

「たかが13円で半年も口を利かなかったなんて、みっともなくって言えないわよ!」

「13円だって安い方がいいだろうが、塵も積もれば山になる、それのどこが間違ってるんだ」

「勘違いしないでね、13円はどうでもいいの。人のやったことをいちいちいちいち点検して文句を言う、あなたのそういう無神経さに腹が立つの。分かる?洗濯物だって、そうよ。裏返しに干してあると怒るけど、あなたが裏返しに脱ぐから、洗って干せば裏返しになるんじゃない。文句があるんなら、ちゃんと表にして脱げばいいのよ」

「あ、だけどお前、確か、結婚した当時、言ったよな?言ったよな?あなたの洗濯物をたたむ時が、私、一番女の幸せを感じるのって。あれは嘘か、え?あれは嘘だったのか?たたむどころか、今は干してあるハンガーからおれが直接パンツ取って履いてるんじゃないか」

「私だってパートに出て忙しいんだから、いつまでも新婚当時のままじゃいられないわよ。それに結婚して先に変わったのはあなたの方だと思うわよ」

「何が変わったんだ」

「恥ずかしいから嫌だって私がどんなに拒んでも、あんなに一緒にお風呂に入りたがっていたあなたがよ、オイルショックの時に、ガスがもったいないから、お風呂、一緒に済ませようと言ったら、断ったじゃないの」

「オイルショック!何年前の話しをしてるんだ、リーマンショックだろうが、古い話しを持ち出しやがって。だいたいお前が入った湯船は湯が減って、ビジネスホテルの風呂みたいに、ほとんど寝そべらないと肩まで浸かれないんだ。いつだったか一緒に風呂に入って、お前が髪洗ってる間に、そうやって無理な姿勢で肩まで浸かろうとしたら、背中がズルツとすべって、危うく溺れそうになったじゃないか。お前と風呂に入るのは命がけなんだ」

「愛情があれば断り方ってものがあるって言ってるの。おれ、このテレビ観たいから風呂は後にするとか、ガスぐらいケチケチしないで、ゆっくり風呂に入れよとか。あなたあの時、何て言ったか覚えてる?」

「覚えてる訳ないだろう、そんな昔のこと」

「勘弁してくれよって言ったのよ!リーマンショックよりもショックだったわよ」

「つまり、お前もおれに息が詰まるのか?」

「・・・」

「もういい、これで原因ははっきりした訳だから、霊能者のところに行く必要はなくなったってことだ」

「叔父さんの手前、そうも行かないわよ。もう口、利いちゃったんだから、とにかくこのミンクを持って行って、お祓いで仲が戻ったことにするしかないじゃない、ね?」

「そうだな」

 という訳で、夫婦がコートを持ち込みますと、霊能者はそれをうやうやしく神棚の前に置いて、例によって長いこと瞑想していましたが、

「ふむ、ふむ、なるほど。さすがに六十万円のミンクとなると、つやが違いますな。たくさんのミンクの叫びが聞こえるようです。間違いなく、これが障っておりますな」

 それでは祓いましょうと言うと、時折パッパッと毛皮に塩をふりかけながら呪文を唱えました。そして何度も九字を切り、再び体を二つ折りにひれ伏したまま死んだようにしていましたが、ふいにふわりと体を起こして緊張の解けた口調で言いました。

「はい、これで障りは取れました。どうぞご安心ください」

「有り難うございました。私どもも何だか肩の辺りが軽くなったような気が致します。安心致しました。それで、あの…毛皮の処分はどのように?」

「もう災いはいたしませんから大丈夫ですよ」

 と、ここまでの費用が五万円。それを夫婦のどちらが支払うかでもめて、

「バカやろう、お前が口利かなくなってこんなことになってるんだろうが。お前が払うのが当然だろう」

「何言ってるの、あなたの叔父さんの手前、お祓いしてもらったんじゃないのよ。そもそもの原因の13円を作ったのは…」

「もう、分かった、分かった」

 結局、押しまくられて、なけなしの小遣いをはたいた夫は、家に戻るなり腹立ちまぎれにミンクを床に叩きつけて言いました。

「こんなもの燃やしてしまうか、ゴミに出せ!」

「何でゴミに出すのよ、大丈夫だと言われたじゃないの。それに原因は13円なんだから」

「お前、気持ちが悪くないのか、え?ミンクのコートって言えば聞こえがいいけど、霊能者の言う通り、考えてみればこれは動物の死骸なんだぞ。バンッて鉄砲で撃たれて、ギャアッて人間を恨んで死んだ何匹ものミンクたちが、ジョキジョキッて皮を剥がれて、縫い合わされてこのコートになったんだ。考えてみれば、これを着るってことは、たくさんのミンクの恨みを着るってことだ。こんなものが家にあれば、良くないことが起きて当然だぞ。第一、お前が13円を気にして口を利かなくなったことそのものが、ミンクのたたりかも知れないだろうが」

「だから、それはお祓いしてもらって、もう終わったんじゃない。それに、何でわざわざ、民放のワイドシヨーみたいに、バンッとかギャアッとか、おどろおどろしい声出すのよ」

「お祓いが済めばすっきりするのか、え?人間だって葬式が済めば遺体は燃やすんだ。な、燃やそう、燃やそうよ。燃やすとダイオキシンが出るんだったら月曜日に燃えるゴミに出そうよ。あ、お前、夏子が着ないのをいいことに、ほとぼりが冷めた頃出して来て、自分が着て近所に自慢しようと思って、そういう」

「あなた!」

「なんだよ」

「このコートは誰のものよ」

「夏子んだろ?」

「それを勝手に燃やすだのゴミに出すだの言ってるのが頭ごなしだということがわからないの?」

「だって夏子は着ないんだろ?」

「そういう問題じゃないの。着なくったって夏子のものよ。親の勝手にはできないわ」

「親の勝手にって、お前だって、おれが少しずつ楽しみに食べていた海苔の佃煮、勝手に捨てちゃっただろうが。あれだっておれが北海道展で買ってきたおれの佃煮だ。最上級の海苔が使ってあって、その辺のスーパーで売ってる江戸緑だのアレ!だのという佃煮の倍近い値段がしたんだ、え?それとも毛皮には所有権があって、海苔にはないのか!」

「ほらまた、こまかい。あんな佃煮、いくら高くったって、ちびちびちびちびなめるから、とうに賞味期限過ぎてたわよ。それに直接箸突っ込んで食べるから、汚らしいし、私はあんたの健康のために心を鬼にして捨てたのよ」

「うるさい!」

「お父さん」

「おお、夏子、来たのか」

「叔父さんから連絡があったのよ、結局、私のコートが障ってたんだって?」

「いや、あれはシャンプーが13円・・・」

「いえ、殺されたたくさんのミンクの怨念だったのよ、怖いわねえ。今お父さんとこれをどう処分しようかって話し合ってたところ」

「ミンクの怨念?」

「そうだよ、お前、このコートはなあ、たくさんの罪もないミンクが、バンッて撃たれて、ギャアッて死んで、人間を恨んで…」

「何言ってんの、これ化学繊維よ」

「化学繊維?」

「本物なら嫁ぐとき置いて行く訳ないじゃない」

「だってお前、百二十万が半額の六十万円って…」

「嘘よ、バーゲンで六千円。お父さんがあんまりこまかいから、もう私はお父さんの思い通りにはならないということを分からせようと思って嘘ついたのよ」

「おい、母さん」

「何よ」

「あの霊能者はこれを六十万円の毛皮だと信じてたよな」

「ええ、信じてたわ」

「五万円で引き取ってもらって・・・見料の元を取れ」。